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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第20話 触れたい言葉

樹は、仕事部屋の机に座っていた。


 目の前には、開いたままの原稿がある。


 白い紙。


 途中で止まった文章。


 ペン先は、その上に置かれたまま動いていなかった。


 華に言われた言葉が、耳の奥に残っている。


 父親として何を言えばいいか分からないなら、まず聞きなさい。


 優の話を。


 あなたの言葉じゃなくて、あの子の言葉を。


 樹はペンを持った。


 けれど、何も書けなかった。


 今まで何度も、人の沈黙を書いてきた。


 帰る場所を失った人。


 誰にも届かない声を抱えた人。


 言えないまま終わった想いを、文章にしてきた。


 けれど、優の沈黙だけは違った。


 勝手に言葉へ変えてはいけない気がした。


 樹は机の上に置いたスマホを手に取る。


 優とのトーク画面を開いた。


 前に送った短い言葉が残っている。


 元気か。


 その下に、優からの返事。


 元気。大学もピアノも続けてる。


 それだけのやり取り。


 たったそれだけなのに、何度見ても胸が痛んだ。


 樹は新しい文章を打った。


 この前はすまなかった。

 少し話せないか。


 指が止まる。


 違う気がした。


 謝罪を先に置けば、優は返事をしなければならない気持ちになるかもしれない。


 樹は消した。


 もう一度打つ。


 お前の話を聞きたい。


 それも消した。


 お前。


 その呼び方すら、今は強すぎる気がした。


 樹は画面を見つめる。


 言葉を書いて生きてきた。


 何十冊も本を出した。


 誰かに届いたと言われた。


 それなのに、息子に送るたった数行が書けない。


 樹はスマホを伏せた。


 そのまましばらく、動かなかった。


     ◇


 大学の練習室で、優はピアノの前に座っていた。


 以前よりは、鍵盤に触れることができる。


 最初の一音も、もう見つからないわけではない。


 けれど、曲はまだ途中で止まる。


 君への旋律。


 その名前を思い浮かべると、理織の声が浮かんだ。


 「また、聴かせて」


 その言葉は優を救った。


 でも同時に、もう一度あの音に向き合う怖さも連れてきた。


 優はゆっくりと鍵盤に指を置く。


 静かな音が鳴る。


 昨日よりは、少しだけまっすぐだった。


 けれど、途中で止まった。


 音が消える。


 練習室に、短い静けさが戻る。


 ドアの外から、軽くノックの音がした。


「入っていい?」


 香だった。


「いいよ」


 香はドアを開け、少しだけ顔をのぞかせた。


「弾いてた?」


「少し」


「昨日より、戻ったね」


 優は驚いて香を見る。


「分かるのか」


「分かるよ」


 香は中に入り、壁にもたれた。


「隣で歌ったんだから」


 その言葉は軽かった。


 でも、香の胸の奥では少しだけ痛かった。


 優の音は、少しずつ理織の方へ戻っていく。


 それが分かる。


 嬉しい。


 でも、嬉しいだけではいられない。


 香はその気持ちを顔に出さないように笑った。


「で、店長さんとは?」


「話した」


「うん」


「まだ、元通りではないけど」


「元通りじゃなくても、話せたなら進んでるでしょ」


 香はそう言ってから、ピアノの横に置かれた椅子に座った。


「優はすぐ、戻れるか行き止まりかで考えすぎ」


「そうか?」


「そう」


 香ははっきり言った。


「音もそうじゃん。途中で止まったからって、曲がなくなるわけじゃないでしょ」


 優は鍵盤を見る。


 昨日、香に言われた一音。


 あの一音から、少しだけ戻れた。


 優は小さく息を吐く。


「香は、簡単に言うな」


「簡単じゃないから言ってるんです」


 香が少し得意げに言う。


 優はほんの少し笑った。


 その時、スマホが震えた。


 画面を見る。


 父からだった。


 優の表情が止まる。


 香も、それに気づいた。


「お父さん?」


 優は答えなかった。


 ただ、スマホの画面を見ている。


 そこには短い文章があった。


 少し、話せないか。

 今度は、私が聞きたい。


 優はしばらく動けなかった。


 私が聞きたい。


 その言葉が、胸の中に入ってくる。


 来なかった時間。


 聴かなかった時間。


 何も知らないまま、自分の場所に入ってきた父。


 その父が、聞きたいと言っている。


 優はすぐには返せなかった。


 香は画面をのぞき込まなかった。


 ただ、優の顔を見て言った。


「返事、今じゃなくてもいいんじゃない」


 優は小さく頷く。


「でも」


 香は続けた。


「読まなかったことにはできないよ」


 優はスマホを握る手に力を入れた。


 分かっている。


 読んでしまった。


 触れてしまった。


 その言葉に、もう何も感じなかったことにはできない。


     ◇


 Café Mélodieの昼下がり。


 理織は、本棚の前に立っていた。


 坂本樹の新刊を手に取る。


 あの日以来何故だか、まだ開けてない…


 表紙の名前を見るだけで、優の顔が浮かんでしまう。


 今日は、少しだけページを開いた。


 紙の匂いがする。


 活字が並んでいる。


 何度も読んできた、坂本樹の文章。


 なのに、今は前のようには読めなかった。


 文字の向こうに、樹本人がいる。


 そして、優がいる。


 理織はページをめくった。


 目に入った一文で、指が止まる。


 帰る場所を失った人は、初めて自分がどこへ帰りたかったのかを知る。


 前にも読んだ言葉だった。


 その時は、自分のための言葉だと思った。


 仕事に疲れて、自分がどこへ向かっているのか分からなくなっていた頃。


 この一文に救われた。


 立ち止まってもいいのだと思えた。


 でも今は、違って読めた。


 優も、樹も。


 帰る場所を探しているのかもしれない。


 父と息子なのに、同じ場所に戻れない二人。


 会いたいのか。


 許したいのか。


 責めたいのか。


 言葉に触れたいのか。


 それとも、触れたらまた傷つくのが怖いのか。


 理織は本を閉じなかった。


 ページに指を置いたまま、しばらくその一文を見つめていた。


 自分は、どちらの言葉に救われたのだろう。


 坂本樹の言葉。


 坂本優の音。


 その二つを、同じものにはしたくない。


 けれど、完全に切り離すこともできなかった。


 理織は静かに息を吐く。


 本を閉じる。


 そして、棚へ戻さず、カウンターの端に置いた。


 まだ読み切れない。


 でも、もう開けないわけでもなかった。


     ◇


 優は家に帰っても、父からのメッセージを開いたままだった。


 少し、話せないか。

 今度は、私が聞きたい。


 何度読んでも、返事は決まらない。


 リビングでは、華が資料を読んでいた。


 優が何度もスマホを見ていることに、すぐ気づいた。


「何かあった?」


 優は顔を上げる。


「……父さんから」


 華の手が止まる。


 優はスマホを差し出した。


 華は短い文面を見る。


 目を細める。


 すぐには何も言わなかった。


「返した方がいいと思う?」


 優が聞く。


 華はスマホを返した。


「私が決めることじゃないわ」


「そう言うと思った」


「分かってるなら聞かないの」


 華は少しだけ笑った。


 けれど、その目は優を見ていた。


「返したくないなら、返さなくていい」


 優は黙る。


「返したいなら、返せばいい」


「返したいのか、分からない」


「それも含めて、優の答えよ」


 華は資料を閉じた。


「ただ」


 優が顔を上げる。


「あの人が“聞きたい”って言ったなら、少しは変わろうとしているのかもしれない」


 優の指がスマホの端をなぞる。


「でもね」


 華の声が少し柔らかくなる。


「優が無理して許す必要はない」


 その言葉に、優は少しだけ息をついた。


 華はいつも、そこだけは間違えない。


 樹のことを完全に切り捨てるわけではない。


 でも、優に許すことを強要しない。


「会ったら、何を話せばいいんだろう」


「話したいことがなければ、話さなくていい」


「聞きたいって言ってるのに?」


「聞くっていうのは、相手が話すまで待つことも含めてでしょ」


 優は黙った。


 父が待つ姿を、あまり想像できなかった。


 いつも、父は言葉の中にいた。


 自分の世界の中にいた。


 こちらの言葉を待ってくれた記憶は、あまりなかった。


「優」


 華が呼ぶ。


「会うなら、父親としてのあの人を見ようとしなくてもいい」


「え?」


「まずは、あなたの話を聞こうとしている一人の人間として見ればいい」


 優はスマホを見る。


 父親。


 作家。


 坂本樹。


 そのどれでもない、一人の人間。


 そんなふうに見られるのかは分からなかった。


 けれど、華の言葉は胸の奥に残った。


     ◇


 樹は仕事部屋で、原稿に向かっていた。


 優にメッセージを送ったあと、しばらくスマホを見続けていた。


 返事は来ていない。


 当然だと思った。


 すぐに返事が来るような関係を、自分は築いてこなかった。


 樹は机に戻り、原稿を見た。


 登場人物が、父親に言えなかった言葉を抱えている場面だった。


 以前なら、迷わず書けたかもしれない。


 こう言わせればいい。


 こう黙らせればいい。


 こう傷つければ、読者の胸に届く。


 けれど今は、書けなかった。


 息子の沈黙を知ったあとで、誰かの沈黙を簡単に使うことができなかった。


 樹はペンを置いた。


 これまで樹は、沈黙を文章に変えてきた。


 けれど、優の沈黙だけは、勝手に文章にしてはいけない気がした。


 解釈してはいけない。


 美しくしてはいけない。


 父親として、自分の言葉で埋めてはいけない。


 樹は椅子にもたれた。


 聞きたい。


 その言葉を送るだけで、ひどく疲れていた。


 けれど、送ったことを後悔してはいなかった。


 初めて、優の声が聞きたいと思った。


 自分が聞きたい声ではなく、優が本当に出す声を。


 怒っていてもいい。


 黙っていてもいい。


 短くてもいい。


 拒まれてもいい。


 それでも、勝手に書かずに待つしかない。


 スマホが震えた。


 樹はすぐに手を伸ばした。


 画面には、優の名前が表示されている。


 胸の奥が、少し強く鳴った。


 樹はメッセージを開いた。


 少しだけなら。


 たった一文。


 それだけだった。


 けれど樹は、しばらくその文字から目を離せなかった。


 何万人もの読者から、長い感想をもらったことがある。


 泣きました。


 救われました。


 人生が変わりました。


 そんな言葉を受け取ってきた。


 けれど、この短い一文ほど重い返事はなかった。


 少しだけなら。


 許されたわけではない。


 会いたいと言われたわけでもない。


 それでも、完全に閉じられたわけではなかった。


 樹は返信欄を開いた。


 長い言葉が浮かぶ。


 どれも違う気がした。


 最後に、短く打った。


 ありがとう。


 それだけを送った。


 言い訳をしない。


 謝罪を重ねない。


 自分の言葉で埋めない。


 樹はスマホを机に置いた。


 何を話せばいいのか、まだ分からなかった。


 けれど今度は、自分の言葉で先に埋めようとは思わなかった。


 優が何を言うのか。


 どんな声で、どんな沈黙を置くのか。


 それを、聞かなければならない。


     ◇


 その夜、優は自室でピアノの譜面を見ていた。


 君への旋律。


 まだ仮のままの名前。


 その横に、書きかけの音符が並んでいる。


 スマホには、父からの返信が残っていた。


 ありがとう。


 それだけ。


 短い言葉だった。


 でも、今までの父の言葉とは少し違って見えた。


 何かを説明しようとしていない。


 何かを綺麗にまとめようとしていない。


 ただ、返事を受け取った言葉。


 優は譜面を閉じた。


 父に何を話すのかは、まだ決まっていない。


 発表会の日のこと。


 Café Mélodieでのこと。


 理織のこと。


 父の本を読んで音が生まれたこと。


 話したいことがあるのか。


 話したくないことばかりなのか。


 自分でも分からない。


 ただ、父の言葉に少しだけ触れた。


 そして、今度は自分の言葉に触れさせるかもしれない。


 それが怖かった。


 でも、何もなかったことにはできなかった。


 優は鍵盤に触れた。


 短い音が鳴る。


 それはまだ曲ではなかった。


 けれど、沈黙ではなかった。


 父として初めて、樹は息子の声を待っている。


 息子として初めて、優は父に何を話すのかを考えている。


 触れたい言葉は、まだ遠い。


 触れられたら痛むかもしれない。


 それでも、触れなければ分からないことがある。


 優はもう一度、鍵盤に指を置いた。


 次の一音は、さっきよりも少しだけ長く響いた。

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