第19話 伝えたい想い
翌日、優はもう一度Café Mélodieの前に立っていた。
昨日は、ここまで来て引き返した。
ドアに手を伸ばしかけて、止めた。
ベルを鳴らすこともできず、短いメッセージだけを送って逃げた。
今日は違う。
そう思っても、足はすぐには動かなかった。
入口近くの黒板には、いつものメニューが書かれている。
昨日と同じ文字。
昨日と同じ店。
けれど、優の中にあるものは昨日と同じではなかった。
スマホには、昨夜送れなかった言葉がまだ残っている気がした。
昨日はすみませんでした。
ちゃんと話したいです。
店長に嘘をつきたかったわけじゃありません。
何度も打って、何度も消した言葉。
結局、一つも送れなかった。
だから今日は、画面ではなく、自分の声で言わなければならない。
優は息を吸った。
ドアを開ける。
ベルが鳴った。
店の中に、いつものコーヒーの匂いがあった。
カウンターの向こうで、理織が顔を上げる。
一瞬だけ、二人の間に沈黙が落ちた。
それから理織が、いつもの声に少し近い声で言った。
「お疲れ様」
優は小さく頭を下げた。
「……お疲れ様です」
いつもの挨拶だった。
けれど、いつも通りではなかった。
理織は優を責めなかった。
優もすぐには何も言えなかった。
ただ、店の空気の中に、昨日までとは違う静けさが残っていた。
◇
仕事は、いつも通りに始まった。
優はエプロンをつける。
カウンターを拭く。
水を出す。
注文を取る。
皿を運ぶ。
やることは変わらない。
手順も覚えている。
けれど、ほんの少しずつ動きが遅れた。
「坂本くん、二番テーブルお願い」
「はい」
理織の声も、いつもと同じだった。
でも、「坂本くん」という呼び方が、前より少し重く聞こえた。
坂本。
その名字の奥に、もう一人の名前が重なってしまったからかもしれない。
優は二番テーブルへ向かう途中、本棚を見ないようにした。
そこには坂本樹の新刊が並んでいる。
見慣れたはずの父の名前。
見ないようにすればするほど、視界の端に残った。
理織もまた、本棚の方を見ないようにしている気がした。
客が入る。
ベルが鳴る。
コーヒーの湯気が立つ。
常連客がいつもの席で新聞を広げる。
店は普通に動いている。
けれど、その普通の中に、優と理織だけが戻りきれていなかった。
昼過ぎ、少し客足が落ち着いた。
優は休憩のため、店の奥へ下がった。
スマホを見ると、香からLINEが来ていた。
店、行った?
優は少し迷ってから返す。
行った。
すぐに返信が来た。
えらい。
優は小さく息を吐く。
子ども扱いするな。
すると、またすぐに返ってくる。
子どもみたいな逃げ方してたから。
優は画面を見て、少しだけ笑った。
香らしい。
軽いようで、逃がしてくれない。
続けて、もう一通届く。
ちゃんと話しなよ。
うまく言えなくても、黙るよりはいいから。
優はその文字を見つめた。
香は、いつもそうだ。
軽く言って、背中を押す。
その手が痛むことを、優はまだちゃんと分かっていない。
けれど、押してくれていることだけは分かった。
優は短く返した。
分かってる。
少しして、香から返ってきた。
優…ちゃんと上向いて自分の言葉で伝えなきゃね。
優はまた少し笑った。
それからスマホを伏せる。
ちゃんと話す。
その言葉が、胸の中で重く残った。
◇
夕方になり、店の明かりが少し柔らかくなった。
カウンターの中で、理織はカップを拭いていた。
優は客席を整えている。
何度か、話しかけようとした。
けれど、仕事中の言葉は仕事の言葉にしかならなかった。
「三番テーブル、片づけます」
「お願い」
「新しい水、出します」
「ありがとう」
それだけ。
それだけで、時間が過ぎていく。
優は自分が何を怖がっているのか分かっていた。
また言葉を間違えるのが怖い。
理織をさらに傷つけるのが怖い。
でも、何も言わないままの方が、もっと間違っている。
閉店時間が近づく。
最後の客が席を立った。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
理織が笑顔で見送る。
ドアのベルが鳴る。
店の中に静けさが戻る。
優はテーブルを拭いた。
椅子を戻した。
レジを閉める理織の横顔を見る。
今、言わなければ。
そう思った。
理織が先に声をかける前に、優は口を開いた。
「あの」
理織が顔を上げる。
「少し、話せますか」
理織は少し驚いたように見えた。
でも、すぐに頷いた。
「うん」
優の胸が、小さく鳴った。
逃げなかった。
それだけのことなのに、ひどく大きなことのように感じた。
◇
二人は客席に座った。
昨日、理織が優の音を聴いた一番前の席。
優はその向かいではなく、少し斜めの席に座った。
まっすぐ向かい合うには、まだ怖かった。
理織もそれを分かっているように、何も言わなかった。
店の隅には、電子ピアノがある。
本棚には、坂本樹の新刊がある。
言葉と音が、同じ店の中に置かれている。
優は膝の上で手を握った。
「黙っていて、すみませんでした」
理織はすぐに「いいよ」とは言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
「うん」
その一言が、優にはありがたかった。
許されたわけではない。
でも、聞いてもらえている。
優は続けた。
「言うタイミングは、何度もありました」
理織は黙っている。
「初めて、店長から父の名前を聞いた時も。父の言葉に救われたって聞いた時も。新刊が届いた時も」
言いながら、胸が痛んだ。
どれも、言えばよかった時間だった。
「でも、そのたびに逃げました」
優は顔を上げられなかった。
「店長に嘘をつきたかったわけじゃないです」
そこで一度、言葉が止まる。
けれど、止まったままにはしなかった。
「でも、黙っていたなら、嘘じゃないとは言えないと思います」
理織の指が、膝の上で少し動いた。
優はそれを見て、また視線を落とした。
「本当に、すみませんでした」
店の中は静かだった。
理織はしばらく何も言わなかった。
でも、その沈黙は拒絶ではなかった。
言葉を探している沈黙だった。
「坂本樹さんの息子だったことが嫌だったんじゃない」
やがて、理織が言った。
「そこは、本当にそう」
優はゆっくり顔を上げた。
理織は本棚の方を見ていた。
けれど、目は本を見ていないようだった。
「でも、私は何も知らないまま、坂本くんの前で、あの人の言葉が好きだって話してた」
理織の声は静かだった。
「何度も救われたって話してた」
優は黙って聞く。
「自分の大事な気持ちを、知らないうちに見られていた気がした」
理織は小さく息を吸った。
「それが、少し恥ずかしかった」
「……はい」
「怒ってる、だけじゃないと思う」
理織は言った。
「傷ついたのもあるし、びっくりしたのもあるし、どう受け取ればいいのか分からなかったのもある」
優は頷いた。
「はい」
「坂本くんのことを責めたいわけじゃない。でも、何もなかったみたいにはできなかった」
「分かります」
本当に分かっているのか、自分でも自信はなかった。
けれど、分かろうとしなければいけない。
優はそう思った。
◇
理織は、優の顔を見た。
昨日より、少しだけ逃げていない顔だった。
まだ怖がっている。
まだ言葉を探している。
それでも、今日は自分からここに座っている。
理織はそのことを、ちゃんと受け止めたいと思った。
優はもう一度、口を開いた。
「店長に聴いてもらえたことが、嬉しかったんです」
理織は黙っていた。
「俺の音を、俺の音として聴いてもらえた気がしました」
優の声は大きくない。
でも、一つずつ置くような声だった。
「父の本を読んで、音が出てきたことは本当です。父の言葉から生まれた音だったのかもしれません」
優は本棚を見た。
それから、理織を見る。
「でも、店長に聴いてもらった時、初めて自分の音になった気がしたんです」
理織の胸が、小さく揺れた。
「だから、父のことを言ったら、それが壊れる気がしました」
優は言葉を選びながら続ける。
「父の名前を知ったら、その音まで父のものになる気がしました」
理織は何も言わない。
「俺が弾いたのに、俺じゃなくなる気がしたんです」
優の声が、少し震えた。
「でも、それを怖がったせいで、店長を傷つけました」
その言葉を聞いて、理織はゆっくり息を吐いた。
優の言葉は綺麗ではなかった。
整っていない。
途中でつかえた。
何度も足りなくなりそうになった。
でも、今度は逃げていなかった。
それだけは、ちゃんと分かった。
「坂本くん」
理織は静かに呼んだ。
優が顔を上げる。
「坂本くんの音は、坂本くんの音だよ」
優の目が揺れた。
理織は続けた。
「坂本樹さんの言葉から生まれた音だったとしても、弾いたのは坂本くんでしょ」
優は何も言えなかった。
「私が聴いたのは、坂本くんの音だったよ」
店の中に、その言葉が静かに残った。
優は視線を落とした。
泣きそうになったわけではない。
でも、胸の奥に固まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
父の言葉。
自分の音。
その二つが重なっていても、自分の音だと言ってくれる人がいる。
それだけで、息がしやすくなった。
「……ありがとうございます」
優はようやく言った。
理織は小さく頷く。
「でも」
その声で、優は顔を上げた。
「すぐに何もなかったみたいにはできない」
優は静かに頷いた。
「分かっています」
「私も、坂本先生のことを、まだどう受け止めたらいいか分からない」
坂本先生。
その呼び方に、優は少し胸が痛んだ。
けれど、理織は続けた。
「でも、それと坂本くんの音は、同じじゃないと思う」
優は理織を見る。
「同じには、したくない」
理織の声は、はっきりしていた。
優はその言葉を胸の中で受け止めた。
「少しずつでいい?」
理織が聞いた。
優は頷く。
「はい」
元通りではない。
でも、完全に壊れたわけでもない。
その間に、二人はようやく立てた気がした。
◇
話が終わったあと、優はエプロンを畳んだ。
店の中には、まだ少しだけ会話の余韻が残っている。
昨日のような重さではない。
でも、軽くもない。
理織はカウンターの中へ戻り、カップを棚にしまっていた。
優は鞄を持つ。
「今日は、ありがとうございました」
そう言って、頭を下げた。
「こちらこそ」
理織が答える。
優はドアの方へ向かった。
ベルに手が届く直前、理織の声がした。
「坂本くん」
優は振り返る。
理織は少し迷ったように見えた。
それから、ゆっくりと言った。
「また、聴かせて」
優はすぐには答えられなかった。
その言葉が、胸の奥に届くまでに少し時間がかかった。
また。
聴かせて。
それは、昨日の音を否定していない言葉だった。
今日の会話を終わりにしない言葉だった。
優は小さく頷いた。
「はい」
少し間を置いて、続ける。
「いつか」
理織は小さく笑った。
「いつかでいいよ」
その笑顔は、まだ完全に昨日までのものではなかった。
でも、遠くはなかった。
優はもう一度頭を下げ、店を出た。
ベルが鳴る。
夜の空気が頬に触れる。
優はしばらく店の前に立っていた。
昨日は、ここから逃げた。
今日は、ここから帰ることができる。
それだけで、少し違った。
◇
帰り道、優はスマホを取り出した。
香からのメッセージが来ていた。
話せた?
優は少し考えて、短く返した。
少しだけ。
すぐに返事が来る。
それで十分。
優はその文字を見つめた。
香には、また助けられている。
そのことに、ちゃんと気づいているつもりだった。
でも、その奥にある想いまでは、まだ見えていなかった。
優はスマホをしまい、夜道を歩いた。
ちゃんと、言葉を。
想いを。
伝えられたのかは分からない。
でも今日は、ピアノの音ではなく、自分の言葉で想いを差し出した。
伝えたい想いは、綺麗な形をしていなかった。
震えて、つかえて、何度も足りなくなる言葉だった。
それでも、逃げずに差し出したものだけが、二人の間に静かに残った。
その言葉が、いつかまた音になるのかは分からない。
けれど優は、少なくとも今夜、次の一音を探してもいいと思えた。




