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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第18話 静寂の中で

翌日、優はCafé Mélodieの前まで来ていた。


 昨日と同じ道。


 昨日と同じ入口。


 けれど、店の前に立つだけで、足が止まった。


 入口近くの黒板には、もう「小さなメロディの夜」の文字はなかった。


 ピアノと歌を、少しだけ。


 本日 十八時三十分より。


 その文字は消えていた。


 代わりに、いつものメニューが書かれている。


 オムライス。


 本日のケーキ。


 おすすめコーヒー。


 何もなかったみたいに、店はいつもの顔に戻っていた。


 けれど、優の中では、まだ昨日の音が消えていない。


 香の歌。


 自分のピアノ。


 理織の拍手。


 樹の背中。


 そして、理織の声。


 ……父さん?


 優はドアに手を伸ばしかけて、止めた。


 中に入れば、理織がいる。


 本棚には、父の新刊がある。


 店の隅には、昨日弾いた電子ピアノがある。


 そして自分は、もう何も知らない顔では立てない。


 優はスマホを取り出した。


 何度か画面を開き、閉じる。


 短い文章を打つ。


 消す。


 もう一度打つ。


 結局、残ったのは必要最低限の言葉だけだった。


 すみません。

 今日は休ませてください。


 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が沈んだ。


 逃げている。


 そう思った。


 でも、どうしてもドアを開けられなかった。


 少しして、理織から返信が来た。


 分かりました。

 無理しないでください。


 優はその文字を見つめた。


 優しい。


 いつもの理織の言葉だった。


 でも、そこには昨日までより少しだけ距離があった。


 無理しないでください。


 その言葉が、優と理織の間に静かに置かれている。


 優は店のドアを見た。


 ベルは鳴らなかった。


 優はスマホを握ったまま、Café Mélodieに背を向けた。


     ◇


 Café Mélodieの中で、理織はスマホの画面を閉じた。


 優からの連絡は、来る気がしていた。


 それでも、実際に来ないと分かると、胸の奥が少し痛んだ。


 理織はカウンターの上を拭く。


 カップを並べる。


 豆を挽く。


 いつもの朝。


 いつもの手順。


 いつもの店。


 それなのに、店の中は少し静かだった。


 昨日、電子ピアノの前に作った小さなスペースは、もうほとんど元に戻してある。


 椅子の向きも戻した。


 黒板の文字も消した。


 けれど、一番前に置いた椅子だけが、昨日の位置を少し覚えているように見えた。


 理織はその椅子を見る。


 自分が座っていた席。


 優の音を聴いた席。


 あの時、確かに音は届いた。


 それは今でも嘘ではない。


 理織は本棚の前に立った。


 坂本樹の新刊が並んでいる。


 数日前は、その本を見るだけで嬉しかった。


 箱を開けた時の高揚も覚えている。


 棚に並べた時の手の感触も覚えている。


 けれど今は、手を伸ばすだけで、優の顔が浮かんだ。


 返事が遅れた顔。


 何かを言いかけて、飲み込んだ顔。


 言えませんでした。


 店長が見ていたものが、俺じゃなくて父になるのが怖かったんです。


 理織は本に伸ばした手を止めた。


 本が悪いわけではない。


 樹が悪いわけでもない。


 優だけが悪いわけでもない。


 それなのに、受け取った音の形だけが変わってしまった。


 理織は本を手に取らず、棚の前から離れた。


 開店のベルが鳴る。


 いつもの常連客が入ってくる。


「おはよう、店長さん」


「おはようございます」


 理織は笑った。


 昨日と同じように。


 いつものように。


 けれど、店の奥に優の姿はなかった。


 それだけで、Café Mélodieは少し広く感じた。


     ◇


 優は大学の練習室にいた。


 ピアノの前に座っている。


 けれど、弾いてはいない。


 鍵盤の上に手を置くこともできず、ただ白と黒の並びを見つめていた。


 昨日、あの鍵盤の上に音はあった。


 確かに鳴った。


 確かに届いた。


 でも今は、最初の一音が見つからない。


 ドアが開いた。


「やっぱりここか」


 香だった。


 ギターケースを持っていない。


 今日は歌うためではなく、優を探しに来たのだと分かった。


「店、休んだんでしょ」


 優は顔を上げる。


「何で知ってるんだ」


「顔に書いてある」


「そんな顔してるか」


「してる」


 香は迷わず言った。


 そして、優の隣ではなく、少し離れた椅子に座った。


 その距離が、今はありがたかった。


「大丈夫?って聞くと、大丈夫って言うでしょ」


 香は鍵盤を見る。


「だから聞かない」


 優は少しだけ笑った。


 でも、その笑いはすぐに消えた。


「大丈夫じゃないって顔はしてるけどね」


「聞かないんじゃなかったのか」


「聞いてない。言ってるだけ」


 香はいつもの調子で言った。


 その軽さに、少しだけ息ができた。


 優は鍵盤を見つめる。


「昨日、俺」


「うん」


「店長を傷つけた」


「うん」


 香は否定しなかった。


 慰めもしなかった。


 だから、優は続きを言えた。


「言えばよかったのに。ずっと、何度も言うタイミングはあった」


「うん」


「でも言えなかった」


「うん」


「怖かった」


「それも、昨日言ってた」


 香は優を見る。


「でも、言えなかった理由があっても、言わなかったことが消えるわけじゃないからね」


 優は黙った。


 香の言葉は優しかった。


 でも、甘くはなかった。


「逃げるのは悪くないよ」


 香は言った。


「でも、逃げっぱなしはだめ」


「分かってる」


「分かってる人の顔じゃない」


「顔に出すぎだろ、俺」


「今さら?」


 香が少し笑う。


 優もほんの少しだけ口元を緩めた。


 けれど、すぐに視線を落とす。


「弾けないんだ」


 優は言った。


「昨日の曲?」


「うん」


 君への旋律。


 その名前を頭の中で呼ぶだけで、理織の顔が浮かぶ。


 それと一緒に、父の背中が浮かぶ。


 本棚に並ぶ坂本樹の新刊が浮かぶ。


 音が、どこへ向かえばいいのか分からなくなる。


 香はしばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。


「今日は、弾かなくてもいいんじゃない」


「弾かなかったら、もっと弾けなくなる気がする」


「じゃあ、一音だけ」


「一音?」


「うん。一曲じゃなくていい。一音だけでいいよ」


 優は鍵盤を見る。


 たった一音。


 それなら、弾けるだろうか。


 優はゆっくりと右手を上げた。


 指先が鍵盤に触れる。


 短い音が、練習室の中に落ちた。


 弱い音だった。


 迷った音だった。


 でも、確かに鳴った。


 香はそれを聴いて、小さく頷く。


「まだ鳴るじゃん」


 優は何も言えなかった。


 胸の奥に、ほんの少しだけ空気が入る。


 音は止まっていない。


 ただ、次の音を探しているだけなのかもしれない。


 香は立ち上がる。


「今日はそれで合格」


「勝手に決めるな」


 けれど、ドアへ向かう背中は少しだけ寂しそうだった。


 優の背中を押すたびに、自分の胸が痛む。


 それでも、優が音を止めてしまう方がもっと嫌だった。


     ◇


 出版社の打ち合わせ室で、樹は原稿の束を前にしていた。


 向かいには華が座っている。


 赤字の入ったページ。


 次作の構成メモ。


 発売後の反応。


 話すことはいくつもあった。


 けれど、樹の目は紙の上を滑るだけだった。


 華はペンを置いた。


「何かあった?」


 樹は顔を上げる。


「いや」


「あなたがそんな顔する時は、大抵何かある時よ」


 華の声は静かだった。


 樹はしばらく黙った。


 ごまかせる相手ではない。


 昔から、華にはそういうところがあった。


 作品の嘘も、生活の嘘も、黙っていても見抜いてくる。


「優の演奏を聴いた」


 樹が言うと、華の表情がわずかに変わった。


「どこで」


「Café Mélodieという店で」


「……あの子のバイト先?」


 樹は頷く。


「店の前に、演奏会のボードが出ていた。坂本優と書いてあった」


「それで入ったのね」


「ああ」


 樹は机の上の原稿を見る。


「優は、ピアノを弾いていた。俺は、初めてちゃんと聴いた」


 華は何も言わなかった。


 樹は続ける。


「店長が、俺の読者だった」


「理織さん?」


 樹は少し驚いたように華を見る。


「知っているのか」


「名前だけ。優から直接聞いたわけじゃないけど、何となく」


 華は短く答えた。


「それで?」


「その人が、俺の本を置いてくれていた。礼を言った。その時に、息子の演奏を聴けたとも言った」


 華は目を伏せた。


 それだけで、だいたい分かったようだった。


「優は、あなたが父親だって言っていなかったのね」


「ああ」


「でしょうね」


 樹は何も言えなかった。


「優に言われた」


 樹の声は少し掠れていた。


「何も知らないまま、俺の場所に入ってくると」


 華は目を閉じた。


「それから」


 樹は続ける。


「もっと早く、来てほしかったと」


 打ち合わせ室に沈黙が落ちた。


 華は長く息を吐く。


「あなた、また遅かったのね」


 その言葉は、責めるというより、事実を置くようだった。


 樹は受け止めるしかなかった。


「でも」


 華は静かに言う。


「遅くても、聴いたんでしょう」


「ああ」


「だったら、今度は逃げないことね」


 樹は華を見る。


「何をすればいい」


 華の眉が少し動いた。


「それを私に聞くところが、あなたの悪いところよ」


 樹は口を閉じる。


 華はペンを持ち直した。


 けれど、原稿には目を落とさなかった。


「優が傷ついたのは、あなたが来たからじゃない」


 華の声は低かった。


「来なかった時間が長すぎたからよ」


 樹は何も言えなかった。


 その通りだった。


 昨日、優の音を聴いた。


 けれど、その前に聴かなかった時間がある。


 埋められない時間がある。


 華は樹をまっすぐ見た。


「父親として何を言えばいいか分からないなら、まず聞きなさい」


「聞く?」


「優の話を。あなたの言葉じゃなくて、あの子の言葉を」


 樹はゆっくりと頷いた。


 書くことなら、ずっとしてきた。


 でも、聞くことはあまりにも下手だった。


     ◇


 夜のCafé Mélodieは、昼間よりも静かだった。


 最後の客が帰ったあと、理織はカウンターの中でしばらく動けずにいた。


 洗い終えたカップ。


 閉じたレジ。


 消した黒板。


 いつもの閉店後。


 けれど、今日は音が足りなかった。


 優の「お疲れ様でした」もない。


 香の明るい声もない。


 昨日の拍手も、もう聞こえない。


 理織は本棚の前に立った。


 坂本樹の新刊を手に取る。


 表紙に指を置く。


 何度も読んできた名前。


 何度も救われた名前。


 昨日、その名前は目の前に立っていた。


 そして、優の父親だった。


 理織はページを開こうとした。


 でも、指が止まる。


 文字を読めば、きっとまた救われるかもしれない。


 それなのに、今は読めなかった。


 その文字の向こうに、優の顔が見えてしまう。


 言えませんでした。


 怖かったんです。


 店長が見ていたものが、俺じゃなくて父になるのが。


 理織は本を閉じた。


 本棚へ戻す。


 それから、店の隅の電子ピアノを見る。


 昨日、優が弾いた場所。


 曲名はまだないと言った音。


 本当は、名前があったのだろうか。


 もしあったのなら、誰に向けた名前だったのだろう。


 理織は一番前の席に座った。


 昨日と同じ場所。


 けれど、今日は誰も弾かない。


 音がない店は、こんなにも静かだっただろうか。


     ◇


 優は自室でスマホを見ていた。


 理織とのトーク画面。


 最後にあるのは、朝の短いやり取りだった。


 すみません。

 今日は休ませてください。


 分かりました。

 無理しないでください。


 優は文字を打つ。


 昨日はすみませんでした。

 ちゃんと話したいです。


 送信ボタンの上で指が止まる。


 消す。


 もう一度打つ。


 店長に嘘をつきたかったわけじゃありません。


 また、止まる。


 それも消す。


 嘘をつきたかったわけではない。


 でも、黙っていた。


 その違いを、今の自分がうまく説明できる気がしなかった。


 優はスマホを机に置いた。


 画面はすぐに暗くなった。


     ◇


 同じ頃、理織もスマホを見ていた。


 優の名前が表示されたトーク画面。


 朝の短い返信。


 分かりました。

 無理しないでください。


 それが、今日送った唯一の言葉だった。


 理織は新しい文章を打つ。


 昨日はごめんね。

 ちゃんと話したいです。


 違う気がした。


 消す。


 もう一度、文字を打つ。


 坂本くんの音が嘘だったとは思っていません。


 そこで指が止まった。


 これは本当だった。


 昨日の音が嘘だったとは思っていない。


 自分へ届いたことも、嘘ではない。


 でも、送れなかった。


 送ってしまえば、すぐ許したように見える気がした。


 許すとか、許さないとかではない。


 まだ、自分の中で言葉が形になっていないだけだった。


 理織は文章を消した。


 スマホの画面に、何もない入力欄だけが残った。


     ◇


 優は、送信ボタンの上で指を止めたまま、何度も言葉を消していた。


 理織もまた、同じ夜に、同じように言葉を消していた。


 あの日、音は届いた。


 けれど、言葉はまだ届かなかった。


 優の部屋には、ピアノの音がなかった。


 Café Mélodieには、香の歌も優の旋律もなかった。


 画面の明かりだけが、それぞれの静かな場所に残っている。


 その静寂の中で、二人はまだ、次の言葉を探していた。

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