第17話 旋律と真実の間で
「……父さん?」
理織の声が、店の中に落ちた。
ほんの少し前まで、Café Mélodieには拍手の余韻が残っていた。
香の歌。
優のピアノ。
常連客の温かい声。
その全部が、まだ店の壁に残っている気がしていた。
けれど、その一言で、空気が変わった。
父さん。
理織は、優を見た。
それから、樹を見た。
本棚に並ぶ坂本樹の新刊を見る。
もう一度、優を見る。
坂本樹。
坂本優。
その二つの名前が、今、理織の中で初めて繋がった。
優は何も言えなかった。
樹もすぐには言葉を返さなかった。
常連客たちは、事情が分からないまま、少し戸惑ったように顔を見合わせている。
香だけが、優の顔を見ていた。
これは、ただ父親が店に来たというだけの話ではない。
優がずっと言えなかったものが、今、理織の前に出てしまったのだと、香には分かった。
理織は小さく息を吸った。
そして、店長の顔に戻ろうとした。
「今日は」
声が、少しだけ遅れた。
それでも理織は笑った。
「今日はありがとうございました」
常連客たちへ向けて、いつものように頭を下げる。
「また、普通の日にも来てください」
その笑顔は、ちゃんと笑顔だった。
けれど、優には分かった。
さっき一番前の席で、自分の音を聴いてくれた時の笑顔とは違う。
どこか固い。
どこか遠い。
優は胸の奥が冷えていくのを感じた。
「よかったよ、二人とも」
「また聴かせてね」
「店長さん、今日はありがとう」
常連客たちは、少し気まずさを残しながらも、優と香に声をかけて帰っていった。
ドアのベルが、何度か鳴る。
その音が止むたびに、店の中が少しずつ静かになっていく。
最後の客が帰ると、Café Mélodieには四人だけが残った。
優。
理織。
樹。
香。
少し前まで温かかった店内が、急に広く感じられた。
◇
香は、ギターケースを肩にかけたまま立っていた。
帰るべきだと思った。
けれど、すぐには動けなかった。
優の顔を見てしまったからだ。
さっきまで、優は音を届けた人の顔をしていた。
怖がりながらも、ちゃんと弾き終えた人の顔だった。
でも今は違う。
何かを失くしたような顔をしている。
「香さん」
理織が声をかけた。
香は、はっとして理織を見る。
理織はいつものように穏やかに笑っていた。
けれど、その笑顔の奥が揺れていることは分かった。
「今日はありがとうございました。歌、とても良かったです」
その言葉は本心だった。
香には、それが分かった。
でも、今の理織がそれどころではないことも分かった。
「……ありがとうございます」
香は頭を下げる。
それから、優を見る。
「優」
優は香の方を見た。
何かを言おうとしたけれど、言葉にならなかった。
少しして、優は小さく首を横に振った。
「ごめん。香、今日は先に帰って」
香は唇を結んだ。
本当は、残りたかった。
優の隣にいたかった。
何もできなくても、そばにいたかった。
けれど、ここは自分が立っていられる場所ではない。
優の隣で歌うことはできた。
でも、優が隠していた沈黙には、触れられなかった。
「……分かった」
香は短く答えた。
理織に向かってもう一度頭を下げる。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
理織は言った。
「また、歌いに来てください」
香は一瞬だけ目を伏せた。
こんな状況でも、その言葉は優しかった。
だから余計に苦しかった。
「はい」
香は店を出た。
入口のベルが、小さく鳴る。
夜の空気が一瞬だけ店内に入り、すぐに閉じた。
外に出ると、月が見えた。
細く、淡い月だった。
香はギターケースの肩紐を握り直す。
今日、自分の歌はたしかに誰かに届いた。
けれど、届いてほしい一番奥には届かなかった。
優の沈黙は、自分の歌よりもずっと深いところにあった。
◇
店の中に残った沈黙は、重かった。
理織は本棚の前に立っていた。
そこには坂本樹の新刊が並んでいる。
数日前、届いたばかりの本。
嬉しくて、丁寧に棚へ並べた本。
優に見せて、こう言った本。
これ、読んだらまた音が生まれるかもね。
その時の優の表情を、理織は思い出した。
返事が少し遅れた事。
何かを言いかけて、やめた。
多分…坂本樹が、自分の父親だということを。
理織は、優の前で何度も話していた。
坂本樹の言葉が好きだと。
何度も助けられたと。
あの人の言葉は、無理に前を向けと言わないのだと。
そして、優の音にも、どこか同じものを感じると。
その全部を、優は聞いていた。
何も知らない自分を前にして。
「言ってほしかった」
理織の声は、思ったより静かだった。
優は顔を上げる。
何も言えずに、すぐ視線を落とした。
「ごめんなさい」
その言葉だけが、ようやく出た。
理織は首を横に振る。
「謝ってほしいわけじゃない」
優は黙った。
樹も黙っていた。
理織は本棚に並ぶ本を見たまま、続けた。
「坂本樹さんの息子だったことが嫌なんじゃないよ」
優の胸が、少し痛んだ。
嫌われたわけではない。
そう言われても、痛みは消えなかった。
「それを知らないまま、私は坂本くんの前で、あの人の言葉が好きだって話してた」
理織の声が、わずかに揺れた。
「何度も助けられたって、話してた」
優は何も言えない。
言えることがなかった。
理織は優を責めているわけではない。
それが分かるから、余計に苦しかった。
「自分だけ、何も知らなかったんだなって」
理織は小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「少し、恥ずかしかった」
その言葉が、優の胸に刺さった。
理織に恥をかかせた。
そう思った瞬間、呼吸が浅くなる。
「言えませんでした」
優は絞り出すように言った。
理織が優を見る。
「どうして?」
優はすぐには答えられなかった。
何度も言おうとした。
初めて、理織から父の名を聞いた夜。
父の言葉に助けられたと聞いた、閉店後の店内。
父の新刊が届いたと喜ぶ理織を見た時。
言えばよかった。
でも言えなかった。
言った瞬間、理織の目が変わる気がしたから。
自分を見てくれていた目が、父の方を向く気がしたから。
「怖かったんです」
優は言った。
「何が?」
理織の声は静かだった。
優は拳を握った。
「店長が見ていたものが、俺じゃなくて父になるのが」
理織は何も言わなかった。
優は続けた。
「店長は、父の言葉が好きで。父の本に救われたって言ってて」
言葉にするほど、胸の中が苦しくなる。
「俺の音を聴いてくれた時も、どこか似てるって言ってくれて」
優は顔を上げる。
「嬉しかったんです。でも、怖かった」
理織は優を見ていた。
「俺が坂本樹の息子だって知ったら、店長が聴いていた音まで、父のものになる気がした」
声が震えた。
「俺じゃなくなる気がしたんです」
店の中が静かだった。
理織は何も言わない。
樹も動かなかった。
優はようやく、自分がずっと抱えていたものを言葉にした気がした。
理織に嫌われるのが怖かったのではない。
理織の目の中で、自分が父に変わってしまうのが怖かった。
自分の音が、父の言葉の影になってしまうのが怖かった。
◇
樹は、優の横顔を見ていた。
知らなかった。
その言葉が、胸の内側に重く落ちる。
今日、樹は偶然この店に来た。
店の前のボードに、優の名前を見つけた。
そして、息子の演奏を聴いた。
遅すぎるほど遅く、ようやく聴いた。
けれど、自分がここに来たことで、優の場所を壊してしまった。
優が大切にしていた沈黙を、何も知らないままほどいてしまった。
「……言っていなかったのか」
樹の声は低かった。
優は答えなかった。
答える必要もなかった。
その沈黙が、すべてだった。
樹は目を伏せる。
「すまない。知らなかった」
優が、ゆっくりと樹を見た。
その目に、怒りだけではないものがあった。
悲しみ。
諦め。
そして、幼い頃からずっと残っていた痛み。
「父さんは、いつもそうだよ」
優の声は大きくなかった。
けれど、その場にいる全員に届いた。
「何も知らないまま、俺の場所に入ってくる」
樹は何も言えなかった。
来なかった日のこと。
今日、来てしまったこと。
その二つが、樹の中で重なった。
幼い優の発表会には行けなかった。
今日は来た。
けれど、来たことで壊してしまった。
父親として、どちらも間違えている気がした。
「優」
樹は名前を呼んだ。
けれど、その先の言葉が続かなかった。
何を言っても、言い訳になる。
何を言っても、遅い。
優は視線を外した。
その横顔が、樹の知らない青年のものに見えた。
自分が見逃してきた時間の長さが、そこにあった。
◇
理織は、二人を見ていた。
坂本樹。
坂本優。
親子として並んだ二つの名前。
その間に、自分が立っている。
さっきまで、優の音は確かに自分へ届いていた。
言葉にならないものが、音になって届いた。
曲名はなかった。
けれど、理織には特別な音に聞こえた。
でも今、その奥に坂本樹の名前があったと知ってしまった。
音が嘘だったわけではない。
優の音が優のものでなくなったわけでもない。
それでも、何かが少し変わってしまった。
受け取った時のままでは、もう持てなくなってしまった。
理織は一番前の席を見る。
さっき、自分が座っていた席。
あの場所で、優の音を受け取った。
確かに届いた。
それは間違いない。
でも、今はその音をどう抱えればいいのか分からなかった。
「今日は」
理織は口を開いた。
優と樹が、同時に理織を見る。
「少し、時間をください」
優は何も言えなかった。
ただ、小さく頷く。
「……分かりました」
その声は、かすれていた。
理織は樹の方を向く。
「坂本先生」
さっきまで、本人に会えたことが信じられなかった名前。
何度も読んできた名前。
今は、優の父親としてそこにいる人。
「今日は、ありがとうございました」
礼儀正しい声だった。
けれど、その呼び方には、さっきまでとは違う距離があった。
樹はそれに気づいた。
「こちらこそ、突然すみませんでした」
樹は深く頭を下げた。
理織は何も返さなかった。
優はその場に立ったまま、動けなかった。
謝りたい。
説明したい。
でも、今はどんな言葉も届かない気がした。
今日、自分の音は届いた。
届いたはずだった。
それなのに、その音のすぐ後で、言えなかった言葉が二人の間に落ちた。
◇
店を出る時、優は一度だけ振り返った。
理織はカウンターの内側に戻っていた。
本棚の横には、坂本樹の新刊が並んでいる。
店の隅には、さっきまで弾いていた電子ピアノがある。
一番前の席は、まだ少しだけ前を向いていた。
優は何か言おうとした。
けれど、何も言えなかった。
「失礼します」
それだけ言って、店を出た。
樹も少し遅れて外へ出る。
夜の空気は冷たかった。
月はまだ出ている。
優と樹は、店の前で少しだけ並んだ。
親子なのに、隣に立つ距離が分からなかった。
「優」
樹が呼んだ。
優は顔を向けない。
「今日は……」
「今日は、もういい」
優は短く言った。
樹は口を閉じた。
「父さんが来たことが嫌だったわけじゃない」
優は夜道を見たまま言った。
「でも、来るなら」
言葉が止まる。
幼い頃の発表会。
空席。
今日のカフェ。
父の背中。
全部が胸の中で絡まる。
「もっと早く、来てほしかった」
樹は息を呑んだ。
優はそれ以上言わず、歩き出した。
樹は追いかけなかった。
追いかける資格があるのか、分からなかった。
◇
Café Mélodieの中で、理織は一人になっていた。
椅子を元の位置に戻す。
カップを片づける。
黒板の文字を消す。
小さなメロディの夜。
その言葉が、白い粉になって黒板の下へ落ちていく。
最後に、理織は一番前の席に座った。
もう演奏はない。
香の歌も、優の音も聞こえない。
それでも、耳の奥にはまだ残っていた。
君の音が遠くへ行くなら。
私は隣で歌うよ。
そして、優のピアノ。
曲名はまだないと言った音。
でも、きっと本当は名前があった音。
理織は本棚を見る。
坂本樹の新刊が並んでいる。
その隣に、電子ピアノが見える。
言葉と音。
父と息子。
知らなかった名前。
知らないまま受け取っていた想い。
さっきまで、優の旋律は確かに理織へ届いていた。
けれど、その奥にあった名前を知った瞬間、音は少しだけ形を変えてしまった。
坂本樹。
坂本優。
二つの名前が親子として並んだ夜。
理織は、まだその間に自分の気持ちを置けなかった。
旋律と真実の間で、次の言葉だけが見つからなかった。




