第16話 月夜に奏でる愛の詩
その日のCafé Mélodieは、いつもより少しだけ静かだった。
客が少ないわけではない。
むしろ、いつもより席は埋まっている。
けれど、店の中に流れている空気が違っていた。
椅子の向きが、少しだけ変わっている。
店の隅に置かれた電子ピアノの前には、小さなスペースが作られている。
入口近くの黒板には、白いチョークの文字が並んでいた。
Café Mélodie
小さなメロディの夜
ピアノと歌を、少しだけ。
本日 十八時三十分より
優は、その文字を何度も見た。
本日。
その二文字が、逃げ道を静かに塞いでいるように見えた。
「逃げなかったね」
横から声がした。
香だった。
ギターケースを肩にかけ、いつものように笑っている。
「逃げ道がなかった」
「ありました」
「どこに」
「ドア」
「それは逃亡だろ」
「似たようなもんじゃない?」
香はそう言って笑った。
優は小さく息を吐く。
笑えるだけ、まだましだった。
何も言えないほど緊張しているわけではない。
けれど、指先は落ち着かない。
鍵盤に触れる前から、音が震えている気がした。
「坂本くん、香さん」
カウンターの奥から、理織が声をかけた。
いつものエプロン姿。
けれど、その表情は少しだけ改まっている。
「今日はよろしくお願いします」
優は戸惑った。
「そんな、改まらなくても」
「改まるよ。今日は二人にお願いする日だから」
「お願いってほどのことじゃ」
「あるよ」
理織は静かに言った。
「この店に、音を置いてもらうんだから」
優は何も言えなかった。
音を置く。
前にも聞いた言葉が、また胸の中で響いた。
香は少しだけ笑って、理織に向かって軽く頭を下げた。
「こちらこそ。一番前で聴く係さん」
「はい。一番前で聴きます」
理織はそう言って、店の一番前の席を見た。
そこには、すでに椅子が一つ空けてある。
優はその席を見ただけで、心臓が少し速くなった。
怖いのは、理織がそこに座るからだった。
けれど、弾きたいと思うのも、理織がそこに座るからだった。
◇
十八時を過ぎると、常連客が少しずつ集まり始めた。
いつも本棚の近くに座る女性。
仕事帰りにコーヒーを飲みに来る男性。
近所の夫婦。
休日の夕方によく顔を出す年配の客。
多くはない。
大きな会場でもない。
けれど、今日は誰もが少しだけ前を向いて座っている。
「優くん、今日は弾くんだって?」
常連の男性が笑って言った。
「少しだけです」
「少しだけって書いてあるもんな」
入口の黒板を見て、男性は楽しそうに笑った。
「緊張しなくていいよ。ここ、カフェだから」
「それが逆に緊張します」
「そういうものかね」
優が曖昧に笑うと、香が横から口を挟んだ。
「優は、緊張してる方がちゃんと弾きます」
「勝手に言うな」
「本当のことでしょ」
「知らない」
常連客が小さく笑った。
その笑い声で、店の空気が少し柔らかくなる。
優は救われた気がした。
香は、こういう時に空気を軽くするのが上手い。
自分にはできないことだと思った。
理織はカウンターで最後の注文を整え、時計を見た。
十八時三十分。
店の中が、自然と静かになる。
理織はカウンターから出て、一番前の席へ向かった。
「本当に座るんですね」
優が小さく言う。
「一番前で聴く係だから」
「店は?」
「今日は少しだけ、お客さんにもなります」
理織はそう言って座った。
その瞬間、優の中で何かが決まった気がした。
もう、ただ練習している音ではない。
ここにいる人たちに届く音を出す。
そして、その中心には、理織がいる。
◇
「えっと」
香がギターを抱えて、店の小さなスペースに立った。
優は電子ピアノの前に座る。
香は店内を見回して、少し照れたように笑った。
「永山香です。今日は、まだ名前があるようでないような歌を歌います」
常連客の一人が、くすっと笑った。
香は続ける。
「ちゃんと完成してるかは分かりません。でも、今の私が歌える形にはなったと思います」
優は鍵盤に指を置いた。
香がこちらを見る。
優は小さく頷いた。
最初の音を鳴らす。
練習室よりも、音が近く聞こえた。
カフェの壁にやわらかく当たり、客席の間に静かに広がっていく。
香は息を吸った。
そして、歌い始めた。
君の音が遠くへ行くなら
私は隣で歌うよ
届かない場所へ向かっても
その背中に声を添えるよ
優は伴奏しながら、香の声を聴いていた。
何度も練習した歌。
何度も合わせた呼吸。
けれど、今の香の声は、練習室よりも少し強かった。
大きな声ではない。
無理に響かせているわけでもない。
それでも、届く場所を見つけた声だった。
香の声は、店の中をゆっくり渡っていく。
常連客が黙って聴いている。
理織も一番前で、静かに聴いている。
◇
店の外で、一人の男が足を止めていた。
夜の通りは、昼間よりずっと静かだった。
月が出ている。
細く、淡い月だった。
男は仕事帰りのコートの襟を少し直しながら、ふと横を向いた。
小さなカフェの中から、ギターの音がこぼれてきた。
続いて、若い女性の歌声が聞こえる。
それだけなら、通り過ぎていたかもしれない。
けれど、店の入口の横に置かれた小さなボードが目に入った。
Café Mélodie
小さなメロディの夜
出演
永山香
坂本優
その名前を見た瞬間、男の表情が変わった。
「……優」
声は夜の中に小さく落ちた。
坂本樹は、その場から動けなかった。
優。
息子の名前。
小さなボードに、当たり前のように書かれている。
ふいに、古い記憶が蘇る。
幼い優の発表会。
行けなかった日のこと。
机の上に置かれた案内状。
華の静かな怒り。
優の目を、ちゃんと見られなかったこと。
あの日、聴けなかった音。
その名前が、今、目の前の小さなカフェのボードにある。
樹はしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと店のドアに手をかけた。
入口のベルが、小さく鳴る。
ちょうど、香の歌声が店の中に広がっているところだった。
理織が入口を振り返る。
演奏中だったから、声は出さない。
樹は軽く頭を下げた。
理織は空いている後ろの席を手で示した。
樹は静かに店内へ入り、その席に腰を下ろした。
優は、その音に気づかなかった。
香の声を支えることに集中していたからだ。
そして、自分の指先が鍵盤の上で震えないようにするだけで、精一杯だったからだ。
◇
名前のない想いでも
歌にすれば少しだけ
夜の中で光るから
最後の言葉が、店の中に残った。
優は最後の伴奏をそっと置く。
香の声が消えたあと、すぐには誰も動かなかった。
その沈黙が、拒絶ではないことは分かった。
ちゃんと聴いてくれた沈黙だった。
後ろの席に腰を下ろした樹も、声を立てずに聴いていた。
息子が、誰かの歌を支えている。
その姿が、樹には不思議に見えた。
自分の知らない優が、そこにいた。
やがて、小さな拍手が起こる。
それは少しずつ広がり、店の中を温かく満たした。
「いい歌だったね」
「胸に残るね」
「香ちゃん、声がきれいね」
常連客の声が聞こえる。
香は少し照れたように笑い、頭を下げた。
「ありがとうございます」
優は横から小さく言った。
「良かった」
香はちらりと優を見る。
「知ってる」
「自分で言うのか」
「言われたかったから、先に言った」
香は笑った。
その笑顔はいつも通りだった。
けれど、優には少しだけ違って見えた。
歌い終えた人の顔だった。
何かを外へ出した人の顔だった。
◇
次は、優の番だった。
理織が席から立ち、短く紹介する。
「次は、坂本優くんのピアノです」
優は立ち上がり、軽く頭を下げた。
常連客の視線が集まる。
大きな拍手ではない。
期待を込めた、小さな拍手。
それが余計に緊張した。
優は椅子に座る。
鍵盤の前で、一度だけ手を握った。
曲名を言うかどうか。
ほんの少し迷った。
君への旋律。
その名前は、喉元まで来て、そこで止まる。
言えない。
まだ、言えない。
優は顔を上げた。
「曲名は、まだありません」
それだけ言った。
香が隣で、少しだけ優を見る。
理織は一番前で、何も言わずに待っている。
後ろの席に、樹がいる。
けれど、優はまだ気づかない。
その沈黙が、優の背中を押した。
優は鍵盤に触れた。
最初の音は、思っていたより静かに鳴った。
低い音。
小さな夜の底に落ちるような音。
そこから、少しずつ音を重ねていく。
一度、理織に聴かせた音。
そこで、届く場所を持った音。
そして今、初めて誰かの前に置かれる音。
音は店全体へ広がっていく。
けれど、その中心には一番前の席があった。
理織がいる。
優は、そこへ向かって弾いている。
でも、不思議だった。
理織へ向けて弾いているはずの音が、少しずつ店の中へ広がっていく。
常連客の席へ。
カウンターへ。
本棚へ。
香の隣へ。
後ろの席へ。
父の新刊が並ぶ棚へ。
全部に触れながら、それでも一番前の席へ帰ってくる。
後ろの席で、樹は息を忘れるようにその音を聴いていた。
こんな音を弾くのか。
樹はそう思った。
知っているはずの息子を、何も知らなかったことに気づく。
幼い発表会の日に聴けなかった音。
その先に続いていた時間が、今、目の前で鳴っている。
優は、樹の視線に気づかない。
ただ鍵盤の上で、自分の音の行き先だけを見ていた。
言葉では言えないものを、音にする。
名前を言えないまま、音だけが先に届いていく。
香が言った。
理織も言った。
音で分かることもある。
優は、その言葉を思い出しながら弾いた。
最後の音へ向かう。
まだ、完全ではない。
どこかに迷いは残っている。
それでも、逃げてはいなかった。
優は最後の音を置いた。
カフェの中に、余韻が残る。
誰もすぐには拍手しなかった。
優は鍵盤を見つめたまま、息を止めていた。
その沈黙の中で、一番前の席から小さな拍手が聞こえた。
理織だった。
それに続いて、香が拍手をする。
常連客も続く。
店の中に、温かい拍手が広がった。
優はゆっくりと頭を下げた。
顔を上げると、理織と目が合った。
理織は何も言わなかった。
ただ、静かに笑っていた。
その表情を見ただけで、優には十分だった。
届いた。
そう思った。
◇
演奏が終わっても、店の中にはまだ音の余韻が残っていた。
常連客が、優と香に声をかける。
「よかったよ」
「また聴きたいね」
「香ちゃんの歌、胸に残った」
優は慣れないまま頭を下げた。
「ありがとうございます」
香は隣で、いつものように笑っている。
「次はもっと上手く歌います」
「今ので十分よ」
その輪から少し離れた場所で、樹はゆっくりと立ち上がった。
息子の演奏を聴いた。
その事実が、まだ胸の中で静かに震えていた。
演奏を終えて、戸惑いながらも少しだけ嬉しそうにしている顔。
人に声をかけられ、どう返せばいいか分からずにいる顔。
あまりにも知らない顔で、胸が痛んだ。
樹の視線が、本棚の前で止まる。
そこには、坂本樹の新刊が並んでいた。
樹は静かに近づき、一冊を手に取った。
見慣れているはずの自分の名前。
けれど、この店に置かれていると、少し違って見えた。
「あの」
声をかけられ、樹は顔を上げた。
理織だった。
演奏中、一番前に座っていた女性。
優の音を、まっすぐ聴いていた人。
理織は、樹が手にしている本を見ていた。
「坂本樹さん、お好きなんですか?」
そう尋ねた瞬間、樹は少し困ったように笑った。
「好きというより、本人です」
理織の表情が止まった。
「……え」
樹は本を棚に戻し、静かに頭を下げた。
「置いていただいて、ありがとうございます」
理織は言葉を失っていた。
目の前にいる男を見る。
本棚に並ぶ名前を見る。
もう一度、男を見る。
「坂本、樹さん……」
「はい」
「あの……ずっと、読んでいます」
理織の声は、少し震えていた。
「何度も、助けられました」
樹は一瞬、目を伏せた。
「そう言っていただけると、書いてきた甲斐があります」
それは、作家として何度も返してきた言葉だった。
けれど、今は少し違っていた。
この店で。
優の音を聴いた後で。
自分の本を大切に置いてくれている人に言われると、その言葉はいつもより深く胸に残った。
◇
その頃、優は常連客に声をかけられていた。
「また聴きたいね」
「ありがとうございます」
そう返しながらも、優の視線がふと本棚の方へ流れた。
理織がいる。
その向かいに、男が立っている。
背中だけで、息が止まりそうになった。
見覚えがある。
忘れられるはずのない背中だった。
樹がいる。
父が、この店にいる。
優は、常連客の声に返事をしたのかどうかも分からないまま、一歩を踏み出した。
近づくにつれて、理織の声が聞こえた。
「坂本、樹さん……」
優の足が止まりかける。
樹は静かに頭を下げていた。
「置いていただいて、ありがとうございます」
優はさらに近づいた。
樹の声が、はっきり届く距離になった。
「それと、息子の演奏を聴かせていただきました」
「……息子?」
理織の声が、小さく落ちた。
優は本棚の前まで来て、足を止めた。
樹が振り返る。
理織も、優を見る。
「父さん……」
優の声が、二人の間に落ちた。
理織の表情が止まる。
「……父さん?」
店の中に残っていた音が、遠くなっていった。
月夜に奏でられた小さな詩は、まだ誰のものとも言えないまま、静かに形を変え始めていた。




