第15話 声の届く場所
優がCafé Mélodieのドアを開けると、入口のベルが小さく鳴った。
いつものコーヒーの香り。
いつもの照明。
けれど、その日だけは、店に入った瞬間から少し違って見えた。
入口近くの小さな黒板。
そこに、昨日まではなかった文字が書き足されていた。
Café Mélodie
小さなメロディの夜
ピアノと歌を、少しだけ。
来週土曜 十八時三十分より
優は、その場で足を止めた。
日付が入っている。
時間も入っている。
もう、ただの予定ではなくなっていた。
「お疲れ様」
カウンターの奥から、理織が顔を上げる。
「……日付、入ってるんですけど」
「入れました」
「逃げ道は?」
「あるよ。消せるから」
「消す気あります?」
「今のところは、ないかな」
理織は悪びれずに笑った。
優は黒板をもう一度見る。
来週土曜。
十八時三十分。
たったそれだけの文字なのに、胸の奥が少し重くなる。
昨日までは、まだ曖昧だった。
いつか。
そのうち。
小さく。
でも、日付が入っただけで、音は急に現実になった。
まだ鳴ってもいないのに、もう誰かの前に置かれている気がした。
「本当にやるんですね」
「坂本くんが嫌なら、やらないよ」
「嫌とは言ってません」
「うん」
「でも、逃げたくはなります」
「それも分かってる」
理織はチョークを置いた。
「だから、小さくするの」
「小さく?」
「常連さんに少しだけ声をかけるくらい。大きな演奏会じゃなくて、この店で音を置く時間」
音を置く時間。
優はその言葉を頭の中で繰り返した。
演奏会と言われるより、少しだけ怖くなかった。
でも、怖さが消えるわけではない。
「エプロン、そこ」
「はい」
優はカウンターへ向かい、エプロンを手に取った。
その間も、黒板の文字が視界の端に残っていた。
声の届く場所が、もう用意されている。
そう思うと、指先が落ち着かなかった。
◇
客足が落ち着いた頃、理織はカウンターにメモ帳を広げた。
「曲順、仮で考えてみたんだけど」
「もうですか」
「仮だから」
「最近、その言葉の便利さを知ってる人が多すぎませんか」
「仮って便利だよね」
理織は笑いながら、メモ帳を優の方へ向けた。
一曲目 永山香「名の無き詩」
二曲目 坂本優「曲名未定」
優はすぐに顔をしかめた。
「俺の名前、書かれてるんですけど」
「出演者だから」
「まだ弾くって言ってません」
「弾かないとも言ってない」
「そういうところ、ずるいです」
「よく言われます」
「誰にですか」
「今、坂本くんに」
理織は楽しそうに言った。
優はため息をつく。
メモ帳の中の自分の名前を見るだけで、逃げられない気がした。
坂本優。
曲名未定。
文字にされると、自分の音が勝手にそこへ立たされているようだった。
「香の曲は、それでいいんですか」
「香さん、歌うって言ってたよね」
「言ってましたけど、まだ迷ってるかもしれません」
「じゃあ、信じて待とう」
「待つんですか」
「うん」
理織はメモ帳に指先を置いた。
「坂本くんの曲も、待つよ」
優は黙った。
急かされるより、その方が困る。
待つ、と言われると、逃げ道が急に細くなる。
理織は何も強く言わない。
でも、その声はまっすぐだった。
「曲はあるんだよね」
「あります」
「名前が未定?」
「名前も、弾くかも未定です」
「そっか」
理織はそれ以上、追わなかった。
ただ、静かにメモ帳を閉じる。
「待つよ」
二度目のその言葉は、一度目より深く優の中に残った。
◇
午後、店に小さな段ボールが届いた。
理織が受け取り、差出人を確認する。
その表情が、ふっと明るくなった。
「来た」
たった一言だった。
でも、優には分かった。
坂本樹の新刊だ。
理織はカッターで箱を開け、中から本を取り出した。
丁寧に。
大切なものに触れるみたいに。
白い帯。
落ち着いた色の表紙。
坂本樹の名前。
それが、何冊も重なっていた。
優は少し離れた場所で見ていた。
父の言葉は、こうして届く。
本になり、帯がつき、箱に入れられ、誰かに待たれて、この店の棚に並ぶ。
理織は一冊ずつ本棚に並べていく。
背表紙が揃う。
タイトルが見える。
坂本樹。
その名前は、やはりこの店の中で自然だった。
堂々としていた。
まるで、置かれるべき場所に置かれたみたいに。
一方で、自分の音はまだ鳴ってもいない。
黒板に書かれた小さな告知の中で、震えているだけだ。
父の言葉は形になって届いている。
自分の音は、まだ届く前から怖がっている。
「坂本くん」
理織が一冊を手に取って、優に見せた。
「これ、読んだらまた音が生まれるかもね」
その言葉に、優は返事が遅れた。
悪気はない。
理織は本当にそう思っている。
坂本樹の言葉から、優の音が生まれることを楽しみにしている。
けれど、その坂本樹が自分の父だとは、まだ言えていない。
「もし」
優は思わず口を開いた。
理織が顔を上げる。
「もし?」
「……もし、その人が」
そこまで言って、止まる。
言えない。
今、ここで言うことではない。
言えば、何かが変わってしまう。
「その人が?」
理織が静かに聞く。
優は首を横に振った。
「いえ。何でもないです」
「そう?」
「はい」
理織は少し気にしたようだった。
けれど、追いかけなかった。
「じゃあ、一冊、取り置きしておくね」
「俺にですか」
「うん。読みたくなった時用」
「買うとは言ってません」
「読むとも言ってないね」
「じゃあ何で」
「逃げ道」
理織は少し笑った。
「読むかどうかは、坂本くんが決めればいい」
優は本を見た。
父の名前が、そこにある。
読みたくないわけではない。
けれど、読むのが怖い。
また、音が生まれてしまうかもしれないから。
それがまた理織へ向かってしまうかもしれないから。
優は棚に並ぶ新刊から、視線を逸らした。
◇
翌日、大学の練習室で、香は「名の無き詩」を最後まで歌い切った。
前より、声が安定している。
歌詞も少し馴染んでいた。
優の伴奏も、もう迷わず香の声を支えられるようになっている。
最後の音が消えると、香はギターを膝の上で軽く叩いた。
「よし。まあまあ」
「まあまあなのか」
「本番前に最高とか言うと、あとが怖いでしょ」
「そういうものか」
「そういうもの」
香は笑ってから、優を見る。
「で、優の曲は?」
優は鍵盤から手を離した。
「まだ」
「まだって何」
「まだ決めてない」
「弾くんでしょ」
「決めてない」
「決めてないって言う人ほど、もう決めてるんだよ」
「どこ情報だよ」
「優情報」
「勝手にまとめるな」
香はギターを抱えたまま、椅子の背にもたれた。
「店長さん、待ってるよ」
「分かってる」
「じゃあ、弾けば」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから言ってる」
その言葉に、優は黙った。
前にも聞いた。
香はいつも、簡単そうに言う。
でも、本当に簡単だと思っているわけではない。
分かっているから、言う。
怖いと知っているから、隣に立つ。
「声ってさ」
香がふいに言った。
「届く場所があるだけで、ちょっと強くなるんだよ」
「歌の話か?」
「一般論」
「またそれか」
「便利でしょ」
香は笑った。
けれど、その目は少しだけ遠くを見ていた。
「遠くまで響く声じゃなくてもさ、ちゃんと聴いてくれる人がいる場所なら、出せる声ってあるじゃん」
優は香を見る。
「それは、分かる気がする」
「でしょ」
「香は、どこに届いてほしいんだ」
聞いた瞬間、香の表情が一瞬だけ止まった。
すぐに笑う。
「聴いた人に」
優はその答えに、少しだけ引っかかった。
どこかで聞いた言葉だった。
理織も、似たようなことを言っていた。
「それ、理織さんも言ってた」
「やっぱり?」
「やっぱりって何だよ」
「いや、何となく」
香は視線を逸らした。
香の声が届いてほしい場所は、すぐ隣にあった。
けれど、その場所は、別の人の音を待っている。
そんなこと、言えるはずがなかった。
「優は?」
香が聞き返す。
「俺?」
「優の音は、どこに届いてほしいの?」
優は答えられなかった。
ピアノの鍵盤を見る。
浮かんだのは、Café Mélodieの一番前の席だった。
そこに座る理織。
でも、それをそのまま言えるはずがない。
「分からない」
優はそう答えた。
香は小さく笑った。
「嘘が下手」
「嘘じゃない」
「じゃあ、まだ言えないだけか」
優は黙った。
香はそれ以上、追わなかった。
「まあ、いいよ」
「何が」
「言わなくても、音で出るから」
香はギターを構え直した。
「もう一回やろ」
◇
閉店後、優と理織は入口の黒板の前に立っていた。
店内には、もう客はいない。
照明は少し落とされ、外の通りの音が遠く聞こえる。
黒板には、来週土曜の日付が入っている。
その横の棚には、坂本樹の新刊が並んでいた。
父の言葉。
自分の音。
その二つが同じ店にある。
優はその事実に、まだ慣れない。
「一番前、空けておいてね」
理織が言った。
「店長は主催側じゃないんですか」
「その日は、お客さんにもなります」
「忙しくないですか」
「忙しくても、聴くよ」
その声は静かだった。
強くはない。
でも、確かだった。
優は黒板を見たまま、息を吐いた。
「俺の音って、人前で弾くようなものなんですかね」
「どういう意味?」
「もっと上手い人はいくらでもいるし。大きな場所で弾ける音でもないし」
理織は少し考えた。
「坂本くんの音って、たぶん遠くまで大きく響く音じゃないよね」
「褒めてます?」
「褒めてる」
「そう聞こえませんけど」
理織は笑った。
「大ホールの一番後ろまで届く音じゃなくて、近くにいる人にちゃんと届く音だと思う」
優は理織を見た。
「近くにいる人」
「うん」
理織は一番前の席を見る。
「あの席で聴いた時、そう思った。大きく鳴らしていないのに、ちゃんと届いたから」
「それは、店長が近くにいたからじゃないですか」
「そうかも」
理織は素直に頷いた。
「でも、それでいいんじゃない?」
「いいんですか」
「全部の人に届かなくても、届いてほしい場所に向かっていれば、音はちゃんと届くと思う」
届いてほしい場所。
優の胸の奥で、その言葉が静かに沈んだ。
香の言葉を思い出す。
声ってさ、届く場所があるだけで、ちょっと強くなるんだよ。
理織の言葉と、香の言葉が重なる。
自分の音は、どこに届いてほしいのか。
もう、分かっている気がした。
分かっているから、怖い。
「曲名」
理織がふいに言った。
「まだ内緒?」
「はい」
「本番まで待てばいい?」
「本番で言うとは言ってません」
「そっか」
理織は少し笑った。
「言わなくてもいいよ」
「いいんですか」
「うん」
理織は黒板の文字を見つめる。
「音で分かることもあるから」
優は返事ができなかった。
その言葉は、どこかで聞いたものに似ていた。
名前より先に届くこともある。
香が言った言葉。
理織が今、同じ場所へ触れた。
名前を言えなくても、音は届くかもしれない。
でも、名前を言わないままでいいのか。
君への旋律。
その名前は、まだ胸の奥で隠れたままだった。
「坂本くん」
「はい」
「怖い?」
優は少し迷ってから頷いた。
「怖いです」
「うん」
「でも」
優は一番前の席を見た。
「弾きたくないわけじゃないです」
理織は何も言わなかった。
ただ、嬉しそうに目を細めた。
その沈黙が、優には一番ありがたかった。
◇
その夜、優は机の前に座っていた。
ノートを開く。
君への旋律(仮)。
その下に、以前書いた文字。
あなたに贈る詩。
さらに別のページを開き、演奏会の曲順を書く。
一曲目 名の無き詩 永山香
二曲目 曲名未定 坂本優
曲名未定。
その文字を見て、優の手が止まる。
未定。
確かに、まだ言えない。
まだ正式には決められない。
けれど、本当はもう知っている。
誰に向かっているのか。
どこに届いてほしいのか。
どこまで届くのかは分からない。
店の外まで響くほど、大きな音ではない。
たくさんの人に届くほど、強い音でもない。
けれど、最前列にいる一人へなら。
その人が待っている場所へなら。
届いてほしいと思った。
優はペンを持つ。
曲名未定の横に、小さく書き足した。
君への旋律(仮)。
仮の文字は、まだ消せない。
それでも、その音が向かう場所だけは、もう分かっていた。
Café Mélodieの小さな客席。
香の歌声。
理織の待つ一番前の席。
父の言葉が並ぶ棚。
その全部が、自分の音を待っている気がした。
優はノートを閉じる。
怖さは、まだ消えない。
けれど、その怖さの奥で、小さな音が鳴り始めていた。
声の届く場所は、もう決まっている。




