第14話 詩人の歌
香は、ベッドの上でギターを抱えていた。
膝の上には、開いたままのノートがある。
名の無き詩。
タイトルだけは、もう決まっている。
けれど、その下の歌詞は、まだ何度も書き直された跡ばかりだった。
君の音が遠くへ行くなら
私は隣で歌うよ
そこまで書いて、香はペンを止めた。
「……重い」
小さく呟く。
消そうとして、消せなかった。
重いと思う。
でも、嘘ではない。
優の音が、少しずつ外へ向かっていることは分かっている。
そして、その音の先に理織がいることも。
分かっている。
分かっているのに、香は隣にいたいと思ってしまう。
優の音が誰に向かっていても。
自分がその宛先ではなくても。
せめて隣で歌いたい。
それをそのまま書いたら、きっと歌えなくなる。
香はペンを握り直した。
届かない場所へ向かっても
その背中に声を添えるよ
書いてから、また止まる。
「……だから重いって」
今度は少し笑った。
けれど、やっぱり消さなかった。
好きだとは書かない。
寂しいとも書かない。
置いていかないでとも書かない。
それなら、まだ歌える気がした。
香はギターの弦を鳴らした。
短い音が、部屋の中に落ちる。
歌になるには、まだ足りない。
でも、何もないわけではない。
名前がないからって、そこに何もないわけじゃないし。
自分で言った言葉を思い出して、香は小さく息を吐いた。
「自分で言っといて、面倒くさいな」
ノートの端に、小さく書く。
詩人の歌。
まだ正式な曲名ではない。
ただ、今の自分には、その言葉が少しだけ近い気がした。
◇
翌日、大学の練習室で、優はピアノの前に座っていた。
香は少し離れた椅子に座り、ノートを胸に抱えている。
「まだ途中だから、笑わないでよ」
「笑わない」
「優、そう言って顔に出るから信用ない」
「出ないだろ」
「出る」
香はそう言って、ノートを少しだけ開いた。
全部は見せない。
優が覗き込もうとすると、すぐに閉じる。
「見るな」
「見せるために持ってきたんじゃないのか」
「全部見せるとは言ってない」
「難しいな」
「難しいよ。歌詞って裸みたいなもんだし」
優は少し困った顔をした。
「その例えは分からない」
「分からなくていい」
香はギターを構えた。
「とりあえず、歌ってみる」
「ああ」
優は鍵盤に指を置く。
香は一度深く息を吸った。
そして、まだ小さな声で歌い始めた。
君の音が遠くへ行くなら
私は隣で歌うよ
届かない場所へ向かっても
その背中に声を添えるよ
歌い終える前に、香は自分で止めた。
「無理」
「何が」
「重い」
「そうか?」
「そうだよ」
香はノートを閉じて、額に当てた。
「これ、明るくしたら嘘っぽいし、暗くしたら私が重い女になる」
「じゃあ、どうするんだ」
「そこを一緒に考えるんでしょ」
「俺が?」
「伴奏係」
「勝手に決めるな」
「優の音を外へ出す係の私が歌うんだから、優は私の歌を支える係」
「係、多いな」
「役割があるのはいいことです」
香はそう言って笑った。
優も少しだけ笑う。
そして、今度は優が鍵盤を鳴らした。
最初は明るめの和音。
香はすぐに首を横に振る。
「そこ、明るすぎない?」
「暗い歌にしたいのか?」
「暗すぎると、私が重い女になるって言ったじゃん」
「難しいな」
「難しいよ」
香は少し間を置いてから言った。
「恋じゃないふりしてる歌だから」
優の指が止まった。
「恋の歌なのか?」
香は一瞬だけ固まった。
それから、目を逸らす。
「……一般論」
「一般論で歌詞を書くのか」
「書くよ。詩人だから」
「いつから詩人になったんだ」
「今」
香はノートで顔を隠すようにした。
心臓が、少しうるさい。
言いすぎたかもしれない。
でも、優はそれ以上追ってこなかった。
それが助かる。
そして、少し寂しい。
◇
優は、もう一度伴奏を探し始めた。
今度は、明るすぎない音。
暗すぎもしない音。
香の声が無理をしなくていい場所を探すように、慎重に指を動かしていく。
香はそれを聴いていた。
優の音は、ちゃんと自分の歌を支えてくれている。
歌詞の呼吸に合わせて、少し待ってくれる。
言葉が詰まるところでは、音も急がない。
それが嬉しかった。
優が、自分の歌を聴いてくれている。
自分の声を、ちゃんと受け止めようとしてくれている。
でも、その音の奥には、別の人の席があった。
閉店後のカフェ。
一番前に座る理織。
優の音は、きっとそこを覚えている。
香はギターの弦を押さえたまま、少しだけ目を伏せた。
「どうした?」
優が聞く。
「何でもない」
「今の、違ったか?」
「違わない」
「ならいいけど」
「うん。いい」
香は笑った。
ちゃんと笑えたかどうかは、自分でも分からなかった。
「優の伴奏、優しいね」
「そうか?」
「うん」
「歌に合わせてるだけだ」
「それが優しいんだよ」
優は少し困ったように鍵盤を見る。
「よく分からない」
「分かってないところも優しい」
「それ、褒めてるのか」
「たぶん」
香は弦を鳴らした。
もう一度、歌う。
今度は途中で止まらなかった。
君の音が遠くへ行くなら
私は隣で歌うよ
届かない場所へ向かっても
その背中に声を添えるよ
名前のない想いでも
歌にすれば少しだけ
夜の中で光るから
最後の言葉が、練習室に残った。
優はしばらく黙っていた。
「……変?」
香が聞く。
「いや」
優は首を横に振った。
「いいと思う」
「ほんとに?」
「ああ」
「顔に出てない?」
「何が」
「変だと思ってる顔」
「してない」
「本当?」
「本当」
優は少し考えてから言った。
「香の歌って、ちゃんと前を向いてる感じがする」
香は目を瞬いた。
「そう?」
「ああ。寂しいのに、止まってない」
その言葉が、胸に触れた。
優は、何も知らない。
この歌が誰へ向かっているのかも。
香が何を隠しているのかも。
それでも、歌だけはちゃんと聴いてくれる。
だから困る。
だから、また好きになる。
「……そういうこと、さらっと言うよね」
「何が」
「何でもない」
香はギターを抱え直した。
◇
休憩中、香はノートを開いたまま言った。
「詩人ってさ、ずるいよね」
優はペットボトルの水を飲みながら顔を上げる。
「急に何だよ」
「好きって書かなくても、好きみたいなことを書けるから」
優は少し考えた。
「それ、ずるいのか?」
「ずるいよ」
「じゃあ、歌もずるいな」
「そう」
香はノートの文字を指でなぞる。
「だから歌うんだよ」
優は黙って聞いていた。
香は続ける。
「言えないことを、そのまま言わなくてもいい形にするのが詩でしょ。で、それに音をつけたら歌になる」
「つまり?」
「つまり、歌は逃げ道です」
「そうなのか」
「たぶん」
香は笑った。
「でも、逃げ道があるから進める人もいるんでしょ?」
優は少しだけ眉を上げた。
「それ、俺のことか」
「さあ」
「絶対そうだろ」
「一般論」
優は息を吐いた。
「その言葉で逃げてるだろ?」
「詩人だから」
香は冗談っぽく言った。
けれど、胸の中では、少しだけ本気だった。
詩人なら、言えないことを言わずに済む。
好きだと書かなくても、好きみたいな言葉を書ける。
届いてほしいと書かなくても、誰かへ向かう歌にできる。
それはずるい。
でも、今の香には必要なずるさだった。
「曲名、どうするんだ?」
優が聞いた。
「名の無き詩じゃないのか」
「迷ってる」
「いいと思うけど」
「名前がないっていう名前、逃げてる感じしない?」
「そうか?」
「だって、名前をつけたら逃げられないって言ったの、私なのに」
香はノートを閉じた。
「自分だけ逃げてるみたいで、ちょっとずるい」
優は鍵盤に指を置いたまま、少し考える。
「逃げながらでも、歌えるなら、それでいいんじゃないか」
香は優を見た。
「え?」
「逃げ道があるから進める人もいるんだろ」
さっきの自分の言葉を返された。
優は真面目な顔で言う。
「香が歌えるなら、最初はそれでいいと思う」
香は返事ができなかった。
救われた。
確かに、少し救われた。
でも同時に、胸が痛んだ。
優は優しい。
優しいから、こんなふうに言える。
そして、その優しさは、自分の気持ちに気づいていないからこそ、真っ直ぐ届いてしまう。
「……優ってさ」
「何だよ」
「たまに、無自覚にひどい」
「何でだよ」
「何でもない」
香は笑った。
笑うしかなかった。
◇
閉店後のCafé Mélodieは、いつもより少しだけ明るく感じた。
入口近くの黒板には、まだ日付の入っていない告知が残っている。
Café Mélodie
小さなメロディの夜
ピアノと歌を、少しだけ。
近日開催予定。
理織は一番前の席に座っていた。
優は電子ピアノの前に座り、香はその隣でギターを抱えている。
「本当に一番前なんですね」
優が言うと、理織は笑った。
「私、一番前で聴く係だから」
「係が増えてる」
香が言う。
「香さんは、優の音を外へ出す係でしたよね」
「はい。今日はついでに自分の歌も外へ出します」
「楽しみにしてます」
「まだ途中なんで、完成品だと思わないでください」
香は少し早口になった。
理織は優しく頷く。
「うん。今の歌を聴かせて」
その言葉に、香は一瞬だけ息を止めた。
今の歌。
以前、理織が優に言った言葉に似ていた。
完成していないものを、完成していないまま受け取ろうとする人。
だから優は、この人の前で弾けるのだと思った。
だから、苦しいのだとも思った。
「じゃあ、いきます」
香は小さく言った。
優が伴奏を始める。
香は一度だけ目を閉じ、すぐに開いた。
理織を見る。
それから、優の横顔を見る。
歌い出す。
君の音が遠くへ行くなら
私は隣で歌うよ
届かない場所へ向かっても
その背中に声を添えるよ
名前のない想いでも
歌にすれば少しだけ
夜の中で光るから
優の伴奏は、練習室の時より少し落ち着いていた。
香の声を急がせない。
追い越さない。
ただ、隣にいる。
その音に支えられながら、香は最後まで歌った。
歌い終えると、店内に静かな余韻が残った。
理織はすぐに拍手をしなかった。
少しの間、歌の残り香を聴くように黙っていた。
それから、小さく拍手をした。
「すごく、良かったです」
香は息を吐いた。
「ありがとうございます」
「香さんの歌、優しいですね」
「優しいですか?」
「うん」
理織は少しだけ間を置いた。
「でも、少し痛かった」
香は言葉を失った。
理織は責めているわけではなかった。
ただ、ちゃんと聴いた人の声だった。
優は楽譜代わりのメモを見ながら、伴奏の確認をしている。
気づいていない。
理織だけが、歌の奥に触れた。
「痛かった、ですか」
「うん。でも、嫌な痛さじゃないよ」
理織は言った。
「誰かの背中を押しながら、自分も少し泣いてるみたいな歌」
香は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「……すごいですね、店長さん」
「え?」
「そこまで聴かれると、逃げ場がないです」
「ごめん」
「謝らないでください」
香はギターを抱え直した。
「嬉しいです。ちょっと怖いけど」
理織は静かに頷いた。
「ちゃんと届くと思います」
香は、思わず聞いた。
「誰に?」
理織は一瞬だけ優を見た。
けれど、すぐに香へ視線を戻した。
「聴いた人に」
その答えは優しかった。
優しすぎて、少しずるかった。
◇
優が片づけでカウンターの奥へ行ったあと、香と理織は客席に残っていた。
店内には、カップの重なる音だけが聞こえる。
香はノートを閉じたまま、膝の上に置いていた。
「香さん」
「はい」
「歌詞、変えるんですか?」
「まだ分かりません」
「そっか」
「でも、少しだけ見えた気がします」
「何が?」
「何を書きたかったのか」
香はそう言って、自分で少し驚いた。
理織の前だと、隠したいことまで言葉になりそうになる。
危ない人だと思った。
優が惹かれる理由が、また一つ分かってしまった。
「店長さんは」
香は少し迷ってから聞いた。
「坂本くんの音、好きですか」
理織は目を瞬いた。
それから、ゆっくり笑った。
「好きですよ」
迷いのない答えだった。
香の胸が、きゅっと痛む。
けれど、理織は続けた。
「でも、香さんの歌も好きです」
香は返事に困った。
理織は本当にずるい。
嫌いにさせてくれない。
「ありがとうございます」
香はようやくそれだけ言った。
カウンターの奥から、優が声をかける。
「香、帰るぞ」
「はいはい」
香は立ち上がった。
理織に軽く頭を下げる。
「また、聴いてください」
「もちろん」
理織は笑った。
「一番前で」
その言葉に、香も少し笑った。
◇
帰り道、優と香は並んで歩いた。
夜の空気は冷たかった。
駅までの道は、いつもより静かに感じた。
「良かったと思う」
優が言った。
「何が」
「歌」
「急に褒めるな」
「褒めたら悪いのか」
「悪くないけど、急だとびっくりする」
香は笑った。
優は少し考えてから言う。
「ちゃんと届く歌だと思う」
香の足が、少しだけ遅くなった。
「……誰に?」
自分でも、なぜ同じことを聞いたのか分からなかった。
さっき理織にも聞いた。
誰に届くのか。
その答えがほしいわけではない。
でも、聞いてしまう。
優は少し考えた。
「聴いた人に、じゃないか」
理織と同じ答えだった。
香は笑った。
「何だよ」
「ううん」
「変な笑い方するな」
「店長さんと同じこと言うなと思って」
「そうなのか」
「うん」
香は前を向いた。
優と理織は、似ているところがある。
人を急がせないところ。
完成していないものを、完成していないまま受け取ろうとするところ。
だから、優の音は理織へ向かうのだろうか。
そんなことを考えて、香は少しだけ自分が嫌になった。
「優」
「何だ」
「詩人ってさ、やっぱりずるいよ」
「まだ言ってるのか」
「うん」
香は笑った。
「でも、歌うにはちょうどいいずるさかも」
「よく分からない」
「分からなくていいよ」
分かられたら、困る。
でも、少しだけ分かってほしい。
そんな矛盾を抱えたまま、香は駅まで歩いた。
◇
家に帰ると、香はすぐにノートを開いた。
名の無き詩。
その下に、今日歌った歌詞がある。
君の音が遠くへ行くなら
私は隣で歌うよ
届かない場所へ向かっても
その背中に声を添えるよ
名前のない想いでも
歌にすれば少しだけ
夜の中で光るから
香はその文字を見つめた。
好きだとは書かなかった。
届いてほしいとも書かなかった。
それでも、歌にすれば、きっと少しだけ滲んでしまう。
理織は、それに気づいたのかもしれない。
優は、気づかなかった。
それでいい。
今はまだ、それでいい。
香はペンを持つ。
タイトルの下に、小さく別の言葉を書いた。
詩人の歌。
まだ、その名前で呼ぶ勇気はなかった。
けれど、名前のないふりをしていた想いに、少しだけ輪郭が生まれていた。
言えない気持ちに名前をつけるための、いちばん遠回りな方法。
それが、香にとっての歌だった。




