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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第13話 小さなメロディ

優は、大学構内のベンチに座ったまま、スマートフォンを見つめていた。

 画面には、昨日の香とのやり取りが残っている。

『怖いなら、一緒に出てあげる』

 その言葉を読むたびに、少しだけ胸が軽くなる。

 けれど同時に、重くもなる。

 香はいつも、簡単そうに言う。

 大丈夫。

 一緒に出る。

 怖いなら隣にいる。

 その軽さに、優は何度も救われてきた。

 でも、本当に簡単なわけではないことくらい、分かっている。

「おはよう」


 優が顔を上げれば、そこにはいつもの香の姿があった。


「おはよう」

「何その顔」

「普通だろ」

「普通って言う人ほど、普通じゃないんだよ」

 香はいつもの調子で笑い、ギターケースをベンチに立てかけた。

 優はスマートフォンを伏せた。

「昨日の話だけど」

「店で弾く話?」

「ああ」

「やるんでしょ?」

「まだ決めてない」

「じゃあ、決めればいいじゃん」

「簡単に言うな」

「簡単じゃないから言ってる」

 香は隣に座り、優を見る。

「一人で怖いなら、一緒に出るって言ったでしょ」

「本気だったのか」

「冗談で言うと思う?」

「お前なら言いそうだろ」

「言うけど、今回は本気」

 香は少しだけ真面目な顔になった。

「カフェで弾くって、駅前とは違うと思う」

「分かってるなら」

「だから、一緒に出るんだよ」

 優は返事に詰まった。

 香はギターを取り出しながら続ける。

「駅前は、通り過ぎる人が聴く場所だった。でもカフェは、聴くために座る人がいる場所でしょ」

「ああ」

「だったら、怖くて当たり前じゃん」

「お前は怖くないのか」

「怖いよ」

 香はあっさり言った。

 優は少し驚いた。

 香はいつも、怖さを笑い飛ばす。

 だから、怖くないのだと思っていた。

「怖いけど、歌わない方がもっと嫌」

 香は弦を軽く鳴らした。

「優もそうなんじゃないの?」

 優は黙った。

 言い返せなかった。

 理織に聴いてほしくて生まれた音。

 その音が、理織の言葉で外へ向き始めている。

 怖い。

 でも、嫌ではない。

 それは昨日、自分でも認めたことだった。

「何を弾くんだよ」

 優が聞くと、香は首を傾げた。

「それを今から決めるんじゃない?」

「俺の曲は、まだ人前では無理だ」

「店長さんには聴かせたのに?」

「それとこれは違う」

「違わないよ」

 香の声は、思ったより静かだった。

「優の中では違うだけ」

 優は空を見上げ、ゆっくりと流れる雲を見つめる。

 その通りだった。

 理織一人に聴かせるのと、客の前で弾くのは違う。

 けれど、音そのものが変わるわけではない。

 変わるのは、自分の覚悟だけだ。

「じゃあ、最初は私の歌でいいよ」

 香が言った。

「私が歌う。優は弾く」

「それでいいのか」

「その方が楽でしょ」

「お前の歌を、俺の練習台みたいに使うのは嫌だ」

「練習台じゃないよ」

 香は少し笑った。

「一緒に出るんだから」

 その言葉は軽かった。

 でも、優には分かった。

 香は、いつも自分の音を差し出してくれる。

 優が外へ出るために。

 優が怖がらないように。

 自分の歌を、優の隣に置いてくれる。

「曲は?」

 優が聞く。

 香は少し考え、ギターの弦を押さえた。

「まだ名前しかない曲」

「名の無き詩?」

「うん」

「まだできてないんじゃないのか」

「できてないよ」

「それで出るのか」

「出るまでに作ればいいじゃん」

 香は笑った。

 けれど、その笑顔は少しだけぎこちなかった。

「まだ名の無いままだけど、歌ってみる」

 優は香を見る。

 香の中にも、まだ言葉になっていないものがある。

 それは分かる。

 でも、その正体までは分からなかった。

     ◇

 夕方、優がCafé Mélodieへ入ると、理織は入口近くの小さな黒板に向かっていた。

 白いチョークを持ち、真剣な顔で何かを書いている。

「お疲れ様です」

「あ、お疲れ様」

 理織は振り返った。

 黒板には、まだ途中までの文字が書かれていた。

 Café Mélodie

 小さなメロディの夜

 ピアノと歌を、少しだけ。

 優はその場で固まった。

「早くないですか」

「予定だから」

「予定って」

「まだ日にちも決めてないでしょ」

 理織は少し笑う。

「逃げ道は残してあります」

「逃げ道って」

「必要でしょ?」

 優は何も言えなかった。

 理織は分かっている。

 自分が怖がっていることも。

 逃げ道がないと進めないことも。

 それでも、黒板にはもう文字が書かれている。

 小さなメロディの夜。

 自分の音が、店の入口に置かれている。

 優は落ち着かなくなった。

「本当にやるつもりなんですね」

「坂本くんが嫌ならやらないよ」

「嫌とは言ってません」

「じゃあ、やる方向で」

「そうやって逃げ道を狭めるの、ずるくないですか」

「狭めてないよ。道を一本増やしてるだけ」

 理織は黒板に向き直り、チョークで小さな音符を描いた。

 あまり上手くない音符だった。

 それが少しだけ理織らしくて、優は黙って見ていた。

 ふと、視線が横の棚へ移る。

 そこには、坂本樹の新刊ポップが置かれていた。

 坂本樹 最新刊、近日入荷予定。

 その隣に、理織の書いた黒板。

 小さなメロディの夜。

 父の言葉と、自分の音。

 二つが同じ店の中に並んでいる。

 父の名前は、堂々とそこにあった。

 自分の音は、まだ日付もない小さな告知でしかない。

 それでも、並んでいた。

 優は胸の奥が少しざわつくのを感じた。

「どうしたの?」

 理織が聞く。

「いえ」

「また考え事?」

「してません」

「今日は多いね」

「いつも多いみたいに言わないでください」

「多いよ」

 理織は笑った。

 優はエプロンを取り、仕事に入る。

 黒板の文字が、何度も視界の端に入った。

 小さなメロディの夜。

 その言葉を見るたび、音が少しずつ自分の手を離れていくような気がした。

     ◇

 客足が落ち着いた頃、理織はカウンターの中で伝票をまとめながら言った。

「香さんって、どんな人?」

 優はグラスを拭く手を止めた。

「急に何ですか」

「一緒に出てくれるかもしれないんでしょ?」

「まだ決まってません」

「でも、坂本くんの顔は決まってる」

「決まってません」

「決まってる顔」

「どんな顔ですか」

「逃げたいけど、逃げない方に少し傾いてる顔」

 優は言い返せなかった。

 理織は少し嬉しそうに笑う。

「香さんにも、ちゃんと挨拶したいな」

「香に?」

「うん。坂本くんの音を外へ連れていってくれた人でしょ?」

 前に聞いた言葉だった。

 優は少し考える。

「香は、たぶん俺より俺の音を知ってます」

 理織の手が止まった。

「そうなんだ」

「たぶんですけど」

「大事な人なんだね」

 その言い方に、優は少しだけ戸惑った。

「大事な友達です」

「うん」

 理織はそれ以上、踏み込まなかった。

 ただ、柔らかく笑った。

 その笑顔を見て、優はふと思う。

 理織は、香のことをどう見るのだろう。

 香は、理織をどう見るのだろう。

 自分の知らないところで、二人が互いを見た時、何かが少し変わる気がした。

     ◇

 翌日の夕方、香はCafé Mélodieの前で立ち止まっていた。

 看板の文字を見上げる。

 Café Mélodie。

 優がバイトしている店。

 優の音が向かっている場所。

 そして、理織がいる場所。

「……普通のカフェじゃん」

 香は小さく呟いた。

 もっと特別な場所を想像していた。

 優があんな顔をする場所だから。

 もっと、近づきにくい場所なのかと思っていた。

 けれど、目の前にあるのは、温かい灯りの小さなカフェだった。

 ドアを開ける。

 ベルが鳴る。

 コーヒーの香りが、ふわりと広がった。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの奥から、理織が顔を上げる。

 香は一瞬で分かった。

 この人だ。

 優の音が向かっている人。

 理織も、香を見て少しだけ目を丸くした。

「もしかして、香さん?」

「はい。永山香です」

 香は笑った。

「優の音を外へ出す係です」

 奥にいた優が、思いきり顔をしかめた。

「変な自己紹介するな」

「分かりやすいでしょ」

「分かりやすくない」

 理織はくすっと笑った。

「じゃあ、私は一番前で聴く係かな」

 香は理織を見た。

 柔らかい声だった。

 無理に距離を詰めるわけでもなく、こちらを値踏みするわけでもない。

 ただ、優の音を大切にしている人の声だった。

 嫌な人なら、楽だったのに。

 香はそう思ってしまった。

 嫌な人なら、心の中で少しだけ責められた。

 でも、理織は嫌な人ではなかった。

 優が惹かれてしまうのも、分かってしまう。

「優から聞いてます」

 理織が言った。

「駅前で一緒に演奏したんですよね」

「ああ、はい。無理やり巻き込みました」

「それで、坂本くんの音が少し外へ出たんだと思います」

 香は返事に困った。

 理織は、香のことまでちゃんと見ようとしている。

 ただの友達。

 ただの同級生。

 ただの伴奏相手。

 そう片づけない。

 それが嬉しくて、少し痛かった。

「コーヒー、飲みます?」

 理織が聞く。

「あ、じゃあ、いただきます」

「坂本くん、お願い」

「俺が淹れるんですか」

「バイト中〜」

「はい」

 優がカウンターに入る。

 香は席に座りながら、店内を見回した。

 本棚。

 カウンター。

 小さな黒板。

 そこに書かれた文字が目に入る。

 小さなメロディの夜。

 ピアノと歌を、少しだけ。

「これ」

 香が指差す。

「もう書いてあるんですね」

「日付はまだですけど」

 理織は少し照れたように笑った。

「先に形だけでもと思って」

「逃げ道を残して?」

 香が言うと、理織は目を丸くしてから笑った。

「坂本くんに聞きました?」

「何となく分かります」

「必要かなって」

「必要です。優には」

「やっぱり?」

「はい。逃げ道があると、逆に進めるタイプです」

 理織と香は同時に優を見た。

 優はコーヒーを淹れながら言う。

「二人で勝手に分析するな」

 香は笑った。

 理織も笑った。

 その一瞬、店の空気が少し和らいだ。

 優は不思議な気分だった。

 香と理織が同じ場所にいる。

 自分の音を知っている二人が、同じ店で笑っている。

 落ち着かない。

 でも、嫌ではなかった。

     ◇

 閉店後、三人は客席に座っていた。

 テーブルの上には、理織が書いた黒板の下書きと、メモ帳が置かれている。

「お客さんは、常連さんだけにしようと思ってる」

 理織が言った。

「五人でも十人でもいいの。大きくしない」

「それなら、少しは気が楽かも」

 香が言う。

 優は黙ってメモ帳を見ていた。

 日付。

 時間。

 演奏曲。

 出演者。

 その文字が並ぶだけで、急に現実味が増す。

「曲はどうする?」

 理織が聞く。

 優は香を見た。

 香は少し考えてから答える。

「私の歌を一曲。あと、優のピアノを一曲」

「俺のピアノはまだ決まってない」

「でも弾くんでしょ」

「決めつけるな」

「今の反応は弾く人の反応」

 香が言う。

 理織も少し笑う。

「坂本くん、曲名はまだ内緒?」

「内緒です」

「じゃあ、告知には書かないでおく」

「書くつもりだったんですか」

「だって、曲名があるなら書きたいでしょ」

「絶対にだめです」

「分かりました」

 理織はメモ帳に小さく「曲名未定」と書いた。

 優はその文字を見て、少しだけ安心した。

 まだ、逃げ道はある。

 けれど、もう音を隠すだけではいられない。

「香さんの曲名は?」

 理織が聞く。

 香は少しだけ視線を落とした。

「名の無き詩、です」

 理織はゆっくりとその言葉を繰り返した。

「名の無き詩」

「まだ、ちゃんと曲になってないんですけど」

「素敵な名前」

 理織は素直に言った。

 香は少しだけ目を伏せた。

「名前がないっていう名前なんですけどね」

「でも、何かがあるから、名前をつけたくなるんだと思う」

 香は黙った。

 その言葉が、思ったより深く入ってきた。

 理織は優の音だけではなく、自分の歌もちゃんと受け取ろうとしている。

 それが嬉しかった。

 でも、苦しくもあった。

「この店に残る音が増えたら、それで嬉しい」

 理織が言った。

「失敗しても残りますよ」

 香が冗談めかして言う。

「残るよ」

 理織は笑った。

「失敗も含めて、たぶん残る」

「それ、プレッシャーです」

「ごめん」

「でも、嫌じゃないです」

 香はそう言って笑った。

 優は二人の会話を聞いていた。

 理織が香の歌を大切にしようとしている。

 香が理織を嫌えずにいる。

 その間にいる自分は、少しだけ居心地が悪かった。

 けれど、この三人で作る音があるなら。

 それは、今までとは違うものになる気がした。

     ◇

 帰り道、優と香は駅へ向かって歩いていた。

 夜の風が冷たい。

 街灯の下で、二人の影が並ぶ。

「本当に出るのか」

 優が聞く。

「出るよ」

「無理してないか」

「してる」

 香はあっさり言った。

 優が横を見る。

 香は笑っていた。

「でも、無理しないと歌えない時もあるんだよ」

「そういうものか」

「そういうもの」

 少し前にも、似たような会話をした気がした。

 詩って、歌詞の方だろ。

 曲だって詩になるでしょ。

 そういうもの。

 香はいつも、優の知らない場所で音と言葉をつなげている。

「名の無き詩、歌うんだな」

「うん」

「完成してないって言ってたけど」

「完成させる」

「大丈夫か」

「大丈夫じゃないけど、歌う」

 香は前を向いたまま言った。

「まだ名の無いままだけど、外に出してみる」

 優は何も言えなかった。

 香もまた、自分の中にあるものを外へ出そうとしている。

 その歌が何に向かっているのか、優にはまだ分からない。

 ただ、香の声がいつもより少し遠く聞こえた。

「優は?」

「何が」

「曲名、いつか言うの?」

 優は答えなかった。

 香は笑う。

「まあ、今はいいけど」

「今は?」

「うん」

 香は少しだけ優を見る。

「いつか、言わなきゃいけない時が来ると思うよ」

「誰に」

「さあ」

 香は視線を逸らした。

「そこまで私が言うことじゃないし」

 優は黙った。

 言わなきゃいけない時。

 そんな時が、本当に来るのだろうか。

 君への旋律。

 その名前を、本人に。

 優は想像して、すぐにやめた。

     ◇

 その夜、理織は店の黒板をもう一度見ていた。

 Café Mélodie

 小さなメロディの夜

 ピアノと歌を、少しだけ。

 まだ日付は入っていない。

 けれど、もう消す気にはなれなかった。

 理織はチョークを持ち、黒板の下に小さく書き足した。

 近日開催予定。

 書いてから、少し笑う。

「本当にやるんだな」

 誰に言うでもなく呟いた。

 店の中には、誰もいない。

 けれど、さっきまで優と香が座っていた席に、まだ少しだけ空気が残っている気がした。

 優の音。

 香の歌。

 その二つが、この店で鳴る。

 そう思うと、胸の奥が静かに温かくなった。

 理織は黒板の横に置かれたポップを見る。

 坂本樹 最新刊、近日入荷予定。

 樹の言葉。

 優の音。

 香の歌。

 この小さな店に、少しずつ何かが集まり始めている。

 それが何を連れてくるのか、理織はまだ知らない。

     ◇

 優は家に帰ると、ノートを開いた。

 君への旋律(仮)。

 その下に、昨日書いた文字。

 あなたに贈る詩。

 さらに今日、理織の黒板に書かれていた言葉を思い出す。

 小さなメロディの夜。

 まだ正式な日付もない。

 客が何人来るのかも分からない。

 自分が本当に弾けるのかも分からない。

 それでも、店の片隅に置かれた小さな告知は、優の音に場所を与えてしまった。

 逃げ道はある。

 けれど、優はもう、その道だけを見てはいなかった。

 優はペンを持ち、ノートの端に小さく書いた。

 小さなメロディ。

 それはまだ、誰かに聴かれる前の音だった。

 それでも確かに、外へ出る準備を始めていた。

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