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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第12話 あなたに贈る詩

優は、練習室で一人ピアノを弾いていた。


 譜面はない。


 あるのは、ノートの端に書かれた曲名だけだった。


 君への旋律(仮)。


 その文字を見るたび、指が止まる。


 曲は、昨日より少しだけ長くなっていた。


 低い音から始まり、途中で立ち止まり、それでも戻らずに進んでいく。


 けれど、最後の音だけがまだ決まらない。


 どこへ着地すればいいのか。


 誰の前で鳴り終えればいいのか。


 それは、もう分かっている気がした。


 分かっているから、困っている。


「……言えるわけないだろ」


 優は小さく呟いた。


 本人の前で、この曲名を言えるはずがない。


 君への旋律。


 そんな名前を口にした瞬間、自分が何を思っているのかまで伝わってしまう気がした。


 ペンを持つ。


 別の名前を考えようとする。


 夜明け前の旋律。


 待ち続ける灯り。


 帰るべき場所。


 どれも悪くはない。


 けれど、どれも少しだけ違う気がした。


 優はペンを置き、もう一度鍵盤に触れた。


 名前をつけたら、逃げられないよ。


 香の言葉が、耳に残っている。


 逃げられないのは、曲からではない。


 自分の気持ちからなのかもしれない。


 優がもう一度弾き始めようとした時、扉が開いた。


「やっぱりいた」


 香がギターケースを肩にかけて立っていた。


「ノックは?」


「したよ」


「聞こえなかった」


「知ってる」


 香は笑いながら入ってくる。


 そして、優のノートを見る前に、わざとらしく視線を逸らした。


「今日は見ないであげる」


「最初から見るな」


「見なくても分かるし」


「何が」


「君への旋律、進んだ?」


 優は眉を寄せた。


「その名前で呼ぶな」


「仮なんでしょ?」


「仮でも言うな」

 

「本人の前では言えないから?」


 優は返事をしなかった。


 香は少しだけ目を細める。


「今、本人って認めたね」


「何も言ってない」


「でも認めたよね?」


「認めてないから……」


「はいはい」


 香はケースを壁に立てかけ、椅子に座った。


 いつもの軽さだった。


 でも、その笑顔の奥に、何かを隠しているようにも見えた。


「じゃあ、名前は内緒にして弾けばいいじゃん」


「それでいいのか」


「音ってさ、名前より先に届くこともあるでしょ」


 優は香を見た。


 香は弦を軽く鳴らしながら、何でもないことのように言った。


「曲名なんて後でいいよ。まず聴かせたい人に聴かせれば」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないのは分かってるよ」


 香は笑った。


「でも、優はもう弾くって決めてる顔してる」


「そんな顔してるか」


「してる」


 優は何も言い返せなかった。


 香はギターを取り出しながら、少しだけ声を落とした。


「怖いなら、名前はまだ隠してていいんじゃない」


 その言葉は優を楽にした。


 けれど、それを言った香自身の胸に、小さな痛みが走ったことを、優は知らなかった。


     ◇


 夕方、優はCafé Mélodieへ向かった。


 ドアを開けると、コーヒーの香りがした。


 いつもの匂い。


 いつもの照明。


 カウンターの奥では、理織が小さな紙に文字を書いていた。


「お疲れ様です」


「お疲れ様」


 理織は顔を上げて笑った。


「ちょうどよかった。これ、字が曲がってないか見てくれる?」


「ポップですか?」


「うん。新刊用」


 優はカウンターへ近づいた。


 紙には、丁寧な字で書かれていた。


 坂本樹 最新刊、近日入荷予定。


 胸の奥が、わずかに強張った。


「また坂本さんですか」


「またって言わないで。好きなんだから」


 理織は少しむくれたように言った。


 その顔は、いつもより少し幼く見えた。


「発売日、もうすぐなんだ」


「楽しそうですね」


「楽しみだよ。久しぶりの新刊だから」


 理織の声は素直に弾んでいた。


 優はその横顔を見る。


 父の言葉を待っている人。


 その人に、自分は音を聴いてほしいと思っている。


 おかしな話だと思った。


 父の文章から始まった音で、父の言葉を好きな人の心に触れようとしている。


 それが嬉しいのか、苦しいのか。


 まだ名前をつけられなかった。


「どう?」


 理織が紙を見せる。


「何がですか」


「字。曲がってない?」


「ああ。大丈夫だと思います」


「本当に見た?」


「見ました」


「今、考え事してた顔だった」


「してません」


「してたよ」


 理織は笑った。


 優はエプロンを取り、仕事に入った。


 その間も、棚に置かれたポップが何度か目に入った。


 坂本樹。


 その名前は、この店の中で自然に置かれている。


 まるで、最初からそこにあったみたいに。


 優はグラスを拭きながら、ふと考える。


 いつか、自分の音もこの店にそんなふうに残るのだろうか。


 理織の中だけではなく。


 この場所そのものに。


     ◇


 閉店後、店内は静かだった。


 外の通りを車が一台通り過ぎる。


 その音が遠ざかると、カフェにはカップの触れる小さな音だけが残った。


 優は最後のテーブルを拭き終えた。


 理織はカウンターの中で、照明を少し落とす。


「坂本くん」


「はい」


「今日、弾けそう?」


 優の手が止まった。


 聞かれる気はしていた。


 それでも、心臓が一度だけ大きく鳴る。


「まだ完成してません」


「完成してなくてもいいよ」


 理織はそう言って、カウンターから出てきた。


「今の音が聴きたい」


 優は返事に迷った。


 怖い。


 けれど、嫌ではない。


 むしろ、その言葉を待っていたような気もした。


「本当に、聴きたいんですか」


「うん」


 理織は店の隅にある電子ピアノの方を見る。


「この前より、少し変わった?」


「たぶん」


「じゃあ、なおさら聴きたい」


 理織は客席へ向かった。


 カウンターではない。


 ピアノに一番近い席。


 そこに座る。


「本当に一番前なんですね」


「約束したから」


「別に、そこまで守らなくても」


「守るよ」


 理織は椅子に座り、背筋を伸ばした。


「今日は、私がお客さんです」


 優は少し笑いそうになった。


 けれど、うまく笑えなかった。


 理織が自分の音を待っている。


 その事実だけで、指先が落ち着かなくなる。


 優はピアノの前に座った。


 鍵盤の上に手を置く。


 曲名は言わない。


 言えない。


 けれど、心の中ではもう分かっていた。


 これは、理織へ向かう音だった。


     ◇


 最初の音は、低く鳴った。


 静かな夜に落ちるような音。


 まだ手紙の書き出しみたいに頼りない。


 けれど、次の音へ進むたび、少しずつ宛先を思い出していく。


 父の文章から生まれた呼吸。


 香の歌が押してくれた一歩。


 閉店後のカフェで、理織が待ってくれている時間。


 その全部が、短い旋律の中に混ざっていく。


 優は目を閉じなかった。


 鍵盤を見ていた。


 でも、音の先には理織がいる。


 それだけは分かっていた。


 前に弾いた時より、少しだけ音が近い。


 誰かに聴かせるための音ではなく、誰かに渡すための音。


 言葉では言えないものを、音にして差し出す。


 優は最後の音を鳴らした。


 余韻が、店の中にゆっくり残る。


 理織はすぐに拍手をしなかった。


 ただ、じっと聴いていた。


 その沈黙が長く感じられて、優は不安になる。


「……変でしたか?」


 理織は首を横に振った。


「ううん」


「じゃあ、何で黙ってるんですか」


「言葉にするのが、また少しもったいなくて」


 優は息を止めた。


 その言い方が、前と同じで、でも少し違って聞こえた。


 理織はようやく小さく拍手をした。


 大きな音ではない。


 けれど、優には十分だった。


「前より、近くなった気がする」


「何にですか」


 理織は少し考えた。


「誰かに」


 優は何も言えなかった。


 誰か。


 その言葉の中に、自分が隠した宛先が入っているような気がした。


 理織も、それ以上は言わなかった。


 ただ、客席から優を見ている。


「名前、決まった?」


 優は視線を逸らした。


「まだです」


「候補も?」


「……あります」


「聞いちゃだめ?」


「だめです」


 理織は笑った。


「そんなに恥ずかしい名前なの?」


「そういうわけじゃないです」


「じゃあ、特別な名前?」


 優は答えられなかった。


 理織はそれ以上追いかけなかった。


「じゃあ、いつか教えて」


「いつか」


「うん。いつか」


 その言葉が、約束みたいに店の中に残った。


     ◇


 理織は席を立たずに、しばらく店内を見回していた。


 閉店後のカフェ。


 空の椅子。


 灯りの落ちたカウンター。


 本棚に並ぶ小説。


 そして、店の隅の電子ピアノ。


「坂本くんの音」


 理織がぽつりと言った。


「はい」


「私だけが聴いてるの、少しもったいない気がする」


 優は指を鍵盤から離した。


「人前は、まだ……」


「うん。分かってる」


 理織はすぐに頷いた。


「だから、すぐじゃなくていいよ」


「でも」


「この店で、いつか小さく弾いてみない?」


 優は理織を見た。


「店で?」


「うん。大きな演奏会じゃなくていいの。常連さんが少しいて、コーヒー飲みながら聴くくらいの」


「そんな簡単に」


「簡単じゃないよ」


 理織は笑う。


「でも、怖いままでもできることって、あると思う」


 その言葉に、優は香を思い出した。


 歌わなかったら、絶対に届かないから。


 香も、似たようなことを言っていた。


「一人が怖いなら、香さんと一緒でもいいし」


 理織が続けた。


「友達の歌、私もちゃんと聴いてみたい」


「香の歌を?」


「うん。坂本くんの音を外へ連れていってくれた人でしょ?」


 優は黙った。


 理織は香のことを、そう見ている。


 大事な友達。


 音を外へ連れていってくれた人。


 その通りだった。


 けれど、香が何を抱えているのか、優はまだ知らない。


「考えてみます」


「うん」


 理織は嬉しそうに笑った。


「無理はしなくていいから」


 無理はしなくていい。


 そう言われると、少しだけやってみたくなる。


 優は自分でも不思議だった。


 誰かに期待されることが、前より怖くない。


 期待の中に、逃げ道があるからかもしれない。


 理織は無理に押さない。


 香は軽く背中を押す。


 その間で、優の音は少しずつ外を向き始めている。


     ◇


 帰り道、夜風が少し冷たかった。


 優は駅へ向かいながら、スマートフォンを取り出した。


 香とのメッセージ画面を開く。


 何度か文字を打っては消した。


 結局、短く送る。


『店で弾かないかって言われた』


 返事はすぐに来た。


『誰に?』


『店長』


 少し間が空いた。


 それから、香らしい短い返事が届く。


『いいじゃん』


『簡単に言うな』


『簡単じゃないから言ってる』


 優は足を止めた。


 次のメッセージが来る。


『怖いなら、一緒に出てあげる』


 優は画面を見つめた。


 香なら、そう言うと思った。


 いつもそうだ。


 軽く笑って、当たり前のように隣に立とうとする。


『考えとく』


『考えるだけ偉い』


『何様だよ』


『優の音を外へ出す係』


 優は小さく笑った。


 その言葉に救われる。


 けれど、その向こうで香がどんな顔をしているのかまでは、考えられなかった。


     ◇


 香は、自分で送ったメッセージを見つめていた。


『怖いなら、一緒に出てあげる』


 送った瞬間は、いつもの調子だった。


 けれど、画面に残った文字を見ると、胸の奥が少し痛んだ。


 一緒に出てあげる。


 また、自分が優の背中を押している。


 優が理織へ向かうための道を、隣で作っている。


 それでも、断ることはできなかった。


 優の音が外へ出るなら、聴きたい。


 優が怖がっているなら、隣にいたい。


 たとえ、その音が自分へ向いていなくても。


「……ほんと、何やってんだろ」


 香はベッドに座り、ギターを抱えた。


 弦を鳴らす。


 まだ形になりきらない歌が、部屋の中に落ちる。


 名の無き詩。


 そのタイトルだけが、ノートの上で静かに残っていた。


     ◇


 優は家に帰ると、机の前に座った。


 ノートを開く。


 そこには、昼間と同じ文字が残っていた。


 君への旋律(仮)。


 今日、理織に聴かせた。


 曲名は言えなかった。


 けれど、音は確かに理織へ向かっていた。


 理織はそれを、誰かに近くなったと言った。


 誰か。


 その誰かが誰なのか、優は聞けなかった。


 聞けなかったけれど、分かっている気がした。


 優はペンを持つ。


 仮の文字を消そうとはしなかった。


 まだ消せない。


 けれど、その一文字を見つめていると、昨日より薄く見えた。


 理織に聴いてほしくて生まれた音が、理織の言葉で少しだけ外を向いた。


 まだ怖い。


 けれど、嫌ではなかった。


 優はノートを閉じる前に、曲名の下へ小さく書いた。


 あなたに贈る詩。


 それが曲名になるかは分からない。


 ただ、今日の夜に鳴らした音だけは、確かにその言葉に近かった。


 名前を言えないまま、音だけが先に届いていく。


 そのことが、今は少しだけ怖くて、少しだけ嬉しかった。

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