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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第11話 名の無き詩

優は、練習室で一人ピアノに向かっていた。

 譜面は開いていない。

 鍵盤の上に置いた指は、昨日から何度も鳴らしている旋律を探している。

 父の文章から生まれた音。

 香の歌に背中を押された音。

 理織へ向かって鳴らした音。

 最初は、ただ短い旋律だった。

 けれど、弾くたびに少しずつ形が変わっていく。

 低い音から始まり、静かに進む。

 途中で一度立ち止まる。

 けれど戻らない。

 迷いながらも、どこかへ向かっていく。

 優は最後の音を鳴らし、指を止めた。

 余韻が消える。

 机の上に置いたノートを開く。

 そこには、いくつかの言葉が並んでいた。

 閉店後の旋律。

 待ってくれる灯り。

 帰る場所。

 どれも違う気がした。

 悪くはない。

 でも、その音の中心にあるものを、まだ言えていない。

 優はペンを持ち、少し迷ってから新しい言葉を書いた。

 君への旋律。

 書いた瞬間、手が止まった。

 君。

 その言葉が、思っていたよりも重かった。

 誰のことなのか。

 考えるまでもなかった。

 閉店後のカフェで、カウンター席に座って静かに聴いていた人。

 言葉にするのがもったいないと言った人。

 一番前の席で聴くと笑った人。

 理織。

 そこまで考えて、優はペンを置いた。

 消そうとした。

 けれど、消せなかった。

 曲に名前をつけることは、その音の行き先を認めることに似ている。

 そう思うと、その言葉を簡単には消せなかった。

「また難しい顔してる」

 扉の方から声がした。

 優が振り向くと、香がギターケースを肩にかけて立っていた。

「ノックくらいしろよ」

「したよ。二回」

「聞こえなかった」

「だろうね。完全にどっか行ってた」

 香は笑いながら入ってくる。

 優は慌ててノートを閉じようとした。

 けれど、香の目はその前に紙面を捉えていた。

「曲名?」

「勝手に見るな」

「見えたんだよ」

「見る気があっただろ」

「ちょっとだけ」

 香は悪びれずに言った。

 優はノートを閉じた。

 香はケースを壁に立てかけ、椅子に座る。

「いいじゃん」

「何が」

「君への旋律」

 優は黙った。

「まだ決めてない」

「でも、候補には入ってるんでしょ」

「仮だ」

「仮って便利だよね。逃げ道っぽくて」

「嫌な言い方するな」

「だって、名前つけたら逃げられないよ」

 香は軽く言った。

 けれど、その言葉は優の胸に残った。

 名前をつけたら、逃げられない。

 その通りかもしれない。

 曲名も。

 気持ちも。

 自分がどこへ向かっているのかも。

「別に、そこまで大げさな話じゃない」

「優は何でも大げさじゃないって言うよね」

「事実だろ」

「そう言ってる時ほど、大げさなこと考えてる」

 香はギターケースのファスナーを開けながら言った。

 優は返せなかった。

「私なら、もっと別のタイトルつけるけど」

「例えば?」

 何気なく聞いたつもりだった。

 香は少しだけ考える。

 そして、ギターを取り出しながら答えた。

「名の無き詩」

「何だそれ」

「まだ名前をつけるのが怖い曲っぽいから」

 優は香を見た。

 香は笑っていた。

 いつものように。

 けれど、その言葉には、どこか自分自身へ向けているような響きがあった。

「詩って、歌詞の方だろ」

「曲だって詩になるでしょ」

「そういうものか?」

「そういうもの」

 香は弦を軽く鳴らした。

「名前がないからって、そこに何もないわけじゃないし」

 その言葉に、優は黙った。

 名前のないもの。

 曲。

 気持ち。

 父との関係。

 理織に言えない秘密。

 たしかに、名前がないからといって、存在していないわけではなかった。

「今日は合わせるのか?」

 優が話を変えると、香は少し笑った。

「もちろん。名の無き詩でも、君への旋律でも、何でもいいから弾いて」

「勝手に混ぜるな」

「いいじゃん。仮なんだから」

 香は明るく言った。

 その明るさが、少しだけ優には眩しかった。

     ◇

 夕方、優はCafé Mélodieへ向かった。

 店に入ると、理織は本棚の前に立っていた。

 小さなポップを棚に差し込んでいる。

「お疲れ様です」

「お疲れ様」

 理織は振り返って笑った。

 手には一枚のチラシがある。

「何ですか、それ」

「新刊案内」

「本の?」

「うん」

 理織は嬉しそうにチラシを見せた。

 そこには、見慣れた名前が印刷されていた。

 坂本樹。

 優の呼吸が、一瞬だけ止まる。

「坂本樹さん、新刊出るんだって」

「……そうなんですか」

「久しぶりだから楽しみ」

 理織の声は、素直に弾んでいた。

 優はチラシから目を逸らした。

 父の本を楽しみにしている人。

 その人に、自分は父の文章から生まれた音を聴かせた。

 理織は何も知らない。

 自分が坂本樹の息子だということも。

 あの旋律の始まりが、父の小説だったことも。

 父から最近、短いメッセージが届いたことも。

「坂本くん?」

「あ、はい」

「どうかした?」

「いえ。ちょっと驚いただけです」

「まだ読んでるの?坂本さんの本」

 優は返事に詰まった。

 最近、初めてまともに読んだ。

 そして、その文章から音が生まれた。

「少しだけ」

「そっか」

 理織は嬉しそうに笑った。

「前に話したかな?」

「あの人の言葉って、急がせないんだよね」

「急がせない?」

「うん」

 理織はチラシを棚に置いた。

「無理に前を向けって言わない。でも、立ち止まってる自分を責めなくていいって思わせてくれる」

 優の胸が、小さく軋んだ。

 同じだった。

 理織が以前、自分の音に言ったことと。

 誰かを急がせない。

 立ち止まってもいいと言われているみたいだった。

 父の言葉と、自分の音。

 理織はそこに似たものを感じている。

 嬉しかった。

 自分の音が理織の中に残ったことは、確かに嬉しかった。

 けれど、苦しくもあった。

 理織は本当に自分の音を聴いてくれたのだろうか。

 それとも、父の言葉に似た何かを、自分の音の中に見つけただけなのだろうか。

「その人は」

 優は思わず言いかけた。

 理織が首を傾げる。

「その人?」

 優は口を閉じた。

 言えない。

 その人は、俺の父です。

 たったそれだけのことが、言えなかった。

 言えば、理織の中で何かが変わる。

 坂本樹という作家の言葉。

 坂本優という自分の音。

 その二つが、今までとは違う形で結びついてしまう。

「いえ。何でもないです」

「そう?」

「はい」

 理織は無理に聞かなかった。

 その優しさが、今は少しだけ苦しかった。

     ◇

 閉店後、店内は静かだった。

 優は最後のテーブルを拭き終え、椅子を戻した。

 理織はカウンターの中で、マグカップを二つ用意している。

「名前、考えた?」

 突然聞かれて、優は手を止めた。

「名前?」

「曲の」

「ああ」

 優は視線を少し落とした。

「まだです」

「そっか」

「いくつかは、考えました」

「聞いてもいい?」

「恥ずかしいので嫌です」

 理織は笑った。

「そんなに?」

「はい」

「じゃあ、無理には聞かない」

 理織はカウンター席にカップを置いた。

 優はその前に座る。

「曲名って、ちょっと手紙みたいだよね」

「手紙?」

「うん」

 理織は自分のカップを両手で包む。

「誰に向けた音なのか、名前で少し分かるから」

 優は何も言えなくなった。

 また、見透かされたような気がした。

 理織は深い意味で言ったわけではないのだろう。

 けれど、その言葉は優の中にまっすぐ入ってきた。

 君への旋律。

 あの名前は、手紙なのだろうか。

 自分がまだ出せない手紙。

 宛名を書いたら、もうごまかせなくなる手紙。

「坂本くん?」

「はい」

「本当に、今日よくどこかへ行くね」

「すみません」

「責めてないよ」

 理織は少し笑った。

「でも、曲のこと考えてるなら、いい顔かも」

「いい顔ですか」

「うん。迷ってるけど、嫌そうじゃない顔」

 優はカップを見つめた。

 迷っている。

 それは確かだった。

 けれど、嫌ではなかった。

 名前をつけることも。

 その音をもう一度理織に聴かせることも。

 怖いのに、嫌ではない。

「また、弾きます」

 気づけば、そう言っていた。

 理織の目が少しだけ大きくなる。

「本当に?」

「はい。まだ完成してないですけど」

「完成してなくてもいいよ」

 理織は嬉しそうに言った。

「今の音も、聴いてみたい」

 優は頷いた。

 それだけで、胸の奥が少し熱くなった。

     ◇

 その頃、樹は出版社の会議室にいた。

 華が新刊のタイトル案をいくつか並べている。

「この三つが候補」

 樹は紙に書かれた文字を見る。

 どれも悪くはない。

 けれど、どれもしっくりこなかった。

「違う気がする」

「全部?」

「ああ」

 華は椅子にもたれた。

「最近、言葉に迷ってるわね」

「そう見えるか」

「見える」

 樹は紙を見つめたまま黙る。

 華は少しだけ声を柔らかくした。

「迷っているというより、怖くなった?」

 樹は顔を上げる。

 その言葉が、自分の中にあるものに近かった。

「名前をつけることが、怖いのかもしれない」

「名前?」

「名前をつけると、逃げられなくなる」

 華はしばらく樹を見た。

「優のこと?」

 樹は答えなかった。

 だが、沈黙が答えだった。

 華はそれ以上、責めなかった。

 樹はスマートフォンを取り出す。

 優とのメッセージ画面を開いた。

『元気。大学もピアノも続けてる』

 その言葉は、何度読んでも胸に残る。

 ピアノを続けている。

 自分の知らない場所で。

 自分の知らない時間を積み重ねて。

 樹は返信欄に文字を打った。

『今度、演奏を聴かせてくれないか』

 そこまで打って、指が止まる。

 簡単に言っていい言葉ではなかった。

 幼い優の発表会を思い出す。

 行くと約束して、行かなかった日。

 空いたままだった席。

 その席に座る資格が、今の自分にあるのだろうか。

 樹は送信ボタンを押せなかった。

 けれど、消すこともできなかった。

 画面を閉じる。

「送らないの?」

 華が静かに聞いた。

「まだ」

「そう」

「けれど、消せなかった」

 華は小さく頷いた。

「それも前進かもしれないわね」

 樹は答えなかった。

 ただ、閉じたスマートフォンを机の上に置いた。

 送れなかった言葉にも、まだ名前はなかった。

     ◇

 夜、香は部屋で歌詞ノートを開いていた。

 昼間、優のノートに見えた言葉が頭から離れない。

 君への旋律。

 あれは、誰への曲なのか。

 分かっている。

 分かってしまう。

 だから、香は笑ってごまかした。

 名の無き詩。

 そう言えば、冗談みたいに聞こえると思った。

 でも本当は、自分のことだった。

 優への気持ちに、まだ名前をつけられない。

 恋と呼ぶには怖い。

 嫉妬と呼ぶには、優しすぎる。

 友情と呼ぶには、少し苦しい。

 香はペンを持つ。

 昨日、消さずに残した言葉の下へ、新しい言葉を書いた。

 君が誰かへ向かうなら

 私はその背中に歌を添える

 それでも名前をつけられないまま

 胸の奥で揺れている

 書き終えて、香は息を吐いた。

 曲にはまだならない。

 けれど、昨日よりは少しだけ近づいた気がした。

 ページの上の空白に、タイトルを書こうとする。

 手が止まる。

 何と書けばいいのか分からない。

 少し迷ってから、香は小さく書いた。

 名の無き詩。

 書いてから、笑った。

「そのまんまじゃん」

 でも、消さなかった。

 今の自分には、それ以上の名前をつけられない。

 それでも、その感情があることだけは、もうなかったことにできなかった。

     ◇

 優は自室でノートを開いていた。

 机の上には、父の文庫本とスマートフォン。

 メッセージ画面には、父との短いやり取りが残っている。

 そして、ノートの端には昼間書いた曲名が残っていた。

 君への旋律。

 優はペンを持つ。

 消そうと思えば、すぐに消せる。

 まだ誰にも正式に言っていない。

 理織にも聞かせていない。

 ただの候補だと言えば、それで済む。

 香の言葉を思い出す。

 名前つけたら、逃げられないよ。

 理織の言葉も思い出す。

 曲名って、ちょっと手紙みたいだよね。

 優はその文字を見つめた。

 手紙なら、宛名がある。

 音なら、行き先がある。

 では、この旋律は誰へ向かっているのか。

 答えは、もう分かっている気がした。

 けれど、まだはっきりとは言えなかった。

 優は曲名の横に、小さく文字を書き足した。

 仮。

 君への旋律(仮)。

 まだ決めたわけではない。

 まだ認めたわけでもない。

 そう言い訳するための一文字。

 それでも、優はその名前を消さなかった。

 名前をつけることは、音の行き先を決めることに似ていた。

 まだ、はっきり言えるわけではない。

 それでも、その音が誰へ向かっているのかを、優はもう知っていた。

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