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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第35話 立ち止まる階段

 開店前のCafé Mélodieは、まだ静かだった。


 理織は窓際の席を拭いていた。


 テーブルの上には何もない。


 カップの跡も、原稿の紙も、誰かが置いていった本もない。


 それでも、そこにはいくつもの気配が残っている気がした。


 優が音を鳴らした場所。


 樹が原稿を広げた場所。


 華が視線を止めた場所。


 理織は布巾を動かす手を止めた。


 華の言葉が、胸の奥に残っている。


 分からないなら、立ち止まりなさい。


 立ち止まることは、逃げることとは違うわ。


 あの言葉は、厳しかった。


 でも、突き放す言葉ではなかった。


 理織はカウンターに戻り、スマホを見た。


 樹からの連絡はない。


 理織は自分から送ろうとして、やめた。


 原稿の続きが気になる。


 樹が書けているのかも気になる。


 あの人が、また白い画面の前で止まっていないかも気になる。


 けれど、それが読者としてなのか、もう分からなかった。


 分からないまま近づけば、また誰かを傷つけるかもしれない。


 優の顔が浮かんだ。


 あの部屋の外にいたのに、と言った優。


 華の視線が浮かんだ。


 優を守る母親の目。


 分からないなら、今日は近づかない。


 理織はスマホを伏せた。


 近づくための一段を、今は上がってはいけない気がした。


     ◇


 大学の練習室で、優は鍵盤に向かっていた。


 隣には香がいる。


 香はギターを抱え、優の音を聞いていた。


 以前のように軽く合わせるというより、優の音がどこへ行こうとしているのかを確かめるように、声を出さずに弦を押さえている。


 優は短い旋律を弾いた。


 一度止まりかける。


 けれど、指は完全には止まらなかった。


 迷いながら、次の音へ行く。


 香は小さく頷いた。


「今日は止まってないね」


 優は鍵盤から指を離した。


「そう?」


「うん。迷ってるけど、進んではいる」


「迷ってる音って、褒められてるのかな」


「止まってるよりは褒めてる」


「微妙だな」


「優にはそれくらいがちょうどいい」


 香はそう言って、軽く笑った。


 優も少しだけ笑う。


 以前より自然には笑えない。


 でも、笑えないわけでもなかった。


「父さんと話した」


 優が言った。


 香は驚いた顔をしなかった。


「うん」


「アトリエの前まで行った」


「中には?」


「入らなかった」


「そっか」


 香はそれだけ言った。


 優は少しだけ香を見る。


「それでよかったのかな」


「知らない」


「またそれ」


「だって、私が決めることじゃないし」


 香はギターの弦を軽く鳴らした。


「でも、入らなかったんじゃなくて、入らないって決めたんでしょ」


 優は鍵盤を見た。


「今は、入りたくなかった」


「じゃあ、それでいいじゃん」


「そんな簡単かな」


「簡単じゃないから、そう言えたんでしょ」


 香の言葉に、優は黙った。


 父に言えたこと。


 まだ入らないと、自分で決めたこと。


 その意味を、優自身もまだ整理できていない。


「逃げたのとは違うと思うけど」


 香が言った。


 優は顔を上げる。


「逃げたのと?」


「うん。逃げる時って、だいたい自分でも分からないふりするじゃん」


「香もするの?」


「するよ。めちゃくちゃする」


 香は少し笑った。


「でも優は、入りたくないって言えたんでしょ。だったら、それは止まったんだと思う」


「止まった?」


「うん。ちゃんと自分で」


 優は、その言葉を聞いて鍵盤に指を置いた。


 止まること。


 進まないこと。


 それが全部、逃げになるわけではない。


 そう思えたら、少しだけ息がしやすかった。


「分からないことばっかりだ」


「分からないなら、分からないままで弾けば?」


「それ、雑じゃない?」


「雑じゃないよ。音楽っぽいじゃん」


「便利だな、音楽」


「便利じゃないよ。面倒くさいよ」


 香は笑って、すぐに真面目な顔に戻った。


「でも、全部分かってからじゃないと弾けないなら、たぶん一生弾けない」


 優は、ゆっくり頷いた。


 理織のことは、口にしなかった。


 まだ触れたくなかった。


 香は、それに気づいている。


 けれど聞かなかった。


 その優しさが、今はありがたかった。


 同時に、少しだけ痛かった。


「もう一回やる?」


 香が聞く。


「うん」


 優は鍵盤に指を置いた。


 今度は、さっきより長く音が続いた。


 迷いながら。


 止まりそうになりながら。


 それでも、次の音へ進んでいった。


     ◇


 夜、樹はアトリエにいた。


 画面には、昼から一文字も増えていなかった。


 ノートパソコンの白い光が、机の上を照らしている。


 数行だけの文章。


 その下で、カーソルが点滅していた。


 彼は帰りたかった。けれど、帰っていいと言われるのを、ずっと待っていた。


 樹はその一文の先に進めなかった。


 華の声が残っている。


 優の痛みは、あなたの原稿の材料じゃない。


 理織の声も残っている。


 綺麗でした。


 でも、少し遠い気がしました。


 優の声も残っている。


 父さんに、入っていいって言ってほしかったんだと思う。


 どの言葉も、樹の中で消えなかった。


 書こうとすれば、誰かの痛みに触れる。


 触れなければ、また綺麗なだけの文章になる。


 樹は画面から目を離した。


 机の上には、華の赤字原稿をまとめたファイルがある。


 その横には、理織が整理した資料の束。


 そして、写真の箱。


 どれも、樹が一人で向き合えなかったものだった。


 華は、自分の逃げ道を塞ぐ。


 理織は、読者として置いていかれた場所を教える。


 優は、自分が置いてきた場所を見せる。


 その三つの声の前で、樹は書けなくなっていた。


 樹はスマホを手に取った。


 理織の名前を開く。


 何も打てないまま、画面を見つめる。


 読んでほしい。


 そう思った。


 けれど、その言葉を「読者として」と包んで送ることが、もうできなかった。


 読者として。


 そう言えば、許される気がしていた。


 けれど、もうその言葉だけで済むとは思えなかった。


 樹はスマホを伏せた。


 連絡はしなかった。


 それでも、部屋の中にいると息が詰まった。


 外へ出よう。


 少し歩くだけだ。


 頭を冷やすだけだ。


 樹はそう思った。


 けれど、玄関で靴を履いた時、自分がどこへ向かおうとしているのか、分かってしまった。


 Café Mélodie。


 理織のいる店。


 樹は玄関で立ち止まった。


「……だめだな」


 小さく呟く。


 それでも、靴を履いた。


 鍵を手に取り、アトリエの扉を開けた。


     ◇


 閉店後、理織は明日の仕込みをしていた。


 カウンターの下の棚を開け、いつもの木製トレーを探す。


 なかった。


 スプーンやミルクピッチャーを置くための、浅いトレーだった。


 昼の混雑時には必ず使う。


「あれ……」


 理織は棚の奥まで探した。


 洗い場の横も、レジの下も、窓際の予備棚も見た。


 それでも見つからない。


 しばらく考えて、思い出した。


 坂本先生のアトリエだ。


 資料を分けた時、付箋やクリップを置くために持っていった。


 そのまま、置いてきてしまったのだ。


 取りに行くだけ。


 理織はそう思った。


 店の備品を取りに行くだけだ。


 けれど、その言葉が言い訳に聞こえた。


 朝、自分から近づかないと決めたばかりだった。


 なのに夜になって、近づくための理由が見つかってしまった。


 理由があることが、こんなに怖いとは思わなかった。


 華の声が蘇る。


 分からないなら、立ち止まりなさい。


 立ち止まることは、逃げることとは違うわ。


 理織は、トレーのない棚を見つめた。


 明日、別のもので代用することはできる。


 今すぐ必要なわけではない。


 樹に連絡して、次に店へ来る時に持ってきてもらうこともできる。


 それでも、取りに行く理由はあった。


 理由はあった。


 だからこそ、怖かった。


 用事があるから行くのか。


 用事があることにして、会いに行こうとしているのか。


 理織には、その境目が分からなかった。


 スマホを手に取る。


 坂本先生、と打ちかける。


 この前のトレーを取りに行ってもいいですか。


 そこまで打って、消した。


 連絡をすれば、用件になる。


 用件にすれば、会いに行くことが自然になる。


 その自然さに、逃げ込もうとしている気がした。


 理織はスマホを伏せた。


 それでも、トレーは必要だった。


 必要だったから、行く。


 そう言い聞かせる。


 理織は店の鍵をかけた。


 夜の空気は、昼よりも冷えていた。


 駅へ向かう道と、アトリエへ向かう道。


 理織はしばらく、その分かれ目に立っていた。


 行かないこともできる。


 明日でいい。


 樹に持ってきてもらえばいい。


 けれど、自分で取りに行こうとしている。


 そのことからは、もう目を逸らせなかった。


 トレーを取りに行くだけではない。


 でも、会いに行くだけでもない。


 そのどちらでもあるから、怖かった。


 理織は小さく息を吸い、アトリエの方へ歩き出した。


 商店街の灯りが、歩道にぼんやりと落ちている。


 歩きながら、理織は何度も自分に言い聞かせた。


 トレーを取りに行くだけ。


 店の備品を取りに行くだけ。


 でも、歩くほど、その言葉は薄くなっていった。


     ◇


 樹のアトリエがある建物の前に着くと、理織は足を止めた。


 三階の廊下に、薄い灯りがある。


 あの日、自分はあの階段を上がった。


 そして、優もあの階段を上がった。


 でも、優は中へ入らなかった。


 トレーを取りに来ただけ。


 理織はもう一度、自分に言い聞かせた。


 けれど、手ぶらで帰ることもできた。


 明日でよかった。


 樹に連絡して、店に持ってきてもらうこともできた。


 それでも自分でここまで来た。


 その事実が、言い訳を少しずつ薄くしていく。


 理織は建物の入口に立った。


 階段が見える。


 古いコンクリートの階段。


 一段目に、足をかける。


 そこで止まった。


 上がってはいけない。


 そう思った。


 上がりたい。


 そうも思った。


 胸の中で、二つの気持ちがぶつかる。


 その時、上から足音がした。


 理織は顔を上げた。


 階段の上から、樹が降りてくる。


 樹も、理織に気づいて足を止めた。


「山瀬さん」


 樹の声が、階段に静かに響いた。


 理織は慌てて頭を下げた。


「すみません。店のトレーを置き忘れていて」


「トレー……ああ、資料を分けた時の」


「はい。取りに来ただけのつもりでした」


 言ってから、胸が痛んだ。


 だけ。


 その言葉が、今は嘘に近かった。


 理織は階段を見たまま、続けた。


「でも、たぶん、それだけじゃありません」


 樹は数段上で止まったまま、少し黙った。


 それから、苦く笑った。


「私も、散歩に出るだけのつもりでした」


 理織は顔を上げる。


「でも?」


「たぶん、それだけではありません」


 樹は鍵を手にしていた。


 外へ出る途中だったのだと分かった。


 どこへ行こうとしていたのか。


 聞かなくても、理織には分かる気がした。


 Café Mélodie。


 自分のいる店。


 二人とも、用事を持っていた。


 でも、用事だけではなかった。


 互いの方へ動いていた。


 けれど、まだどこにも着いていない。


 階段の途中で止まっていた。


「上がりますか」


 樹が言った。


 その声は穏やかだった。


 けれど、迷いもあった。


 理織は階段の上を見た。


 アトリエの扉。


 原稿。


 白い画面。


 写真の箱。


 樹が書けない自分でいられる場所。


 そして、優がまだ入らないと決めた場所。


 理織は首を横に振った。


「華さんに、立ち止まりなさいって言われました」


 樹は目を伏せた。


「華らしいですね」


「逃げることとは違うって」


「それも、華らしい」


 理織は、一段目から足を下ろさなかった。


 上がらない。


 でも、すぐに帰ることもできない。


「だから今日は、ここで止まります」


 樹はその言葉を受け止めるように、しばらく黙った。


 それから、鍵を握った手を少し下ろした。


「私も、ここで止まります」


 二人は階段で向かい合っていた。


 理織は下の段。


 樹は数段上。


 同じ場所にいるようで、同じ高さにはいない。


 その距離が、今の二人には必要だった。


     ◇


「原稿の続きが気になりました」


 理織は、正直に言った。


 樹は階段の手すりに手を置いた。


「読者として?」


 理織はすぐには答えられなかった。


 それだけなら、よかった。


 そう言えたら、もっと簡単だった。


「それだけなら、よかったんですけど」


 理織は言った。


 樹は黙っていた。


 理織は続ける。


「坂本先生が、書けているのか気になりました」


「それは、読者としてではない?」


「分かりません」


 理織は首を横に振った。


「分からないから、怖いです」


 樹は、その言葉に小さく頷いた。


「私は、あなたに読んでほしいと思いました」


 理織は顔を上げた。


 樹の表情は、いつもの作家の顔ではなかった。


 弱さを隠しきれない、一人の人の顔だった。


「作家として、と言えば許される気がしていました」


 樹は自嘲するように言った。


「読者に意見を聞きたいだけだと」


 理織は息を呑む。


「私もです」


 樹が理織を見る。


「読者として、と言えば大丈夫な気がしていました」


 理織は言った。


「原稿が気になるだけだと。坂本先生の言葉が戻るところを見たいだけだと」


「それだけではない」


 樹の声は低かった。


 理織は、小さく頷いた。


「はい」


 その一言だけで、階段の空気が変わった気がした。


 恋という言葉は出ていない。


 好きという言葉もない。


 けれど、読者と作家だけではもう足りないことを、二人とも分かってしまった。


 だからこそ、動けなかった。


「私は、優の父親です」


 樹が言った。


「分かっています」


「分かっているのに、あなたに頼りたくなる」


 理織は何も言えなかった。


 樹は続ける。


「書けない時に、あなたの言葉を思い出す。あなたに読んでほしいと思う。あなたなら、遠いと言ってくれる気がする」


 樹は一度、言葉を切った。


「それが、怖い」


 理織の胸が痛んだ。


「私も怖いです」


 樹は理織を見る。


「私は、優くんの痛みを知っているのに、ここに来てしまいました」


 理織は階段の一段目を見る。


「優くんがまだ入らないと決めた場所に、また上がろうとしていました」


「山瀬さん」


「だから」


 理織は顔を上げた。


「今日は上がらない方がいいと思います」


 樹はゆっくり頷いた。


「はい」


 その返事に、理織は救われた。


 引き止められたら、揺れていたかもしれない。


 上がってしまったかもしれない。


 だから、樹が頷いてくれたことがありがたかった。


 同時に、寂しかった。


     ◇


 階段の上から、誰かが降りてくる気配がした。


 別の部屋の住人だろうか。


 理織は道を空けようとして、横に避けた。


 足元が狭かった。


 身体がわずかに傾く。


 樹が反射的に手を伸ばしかけた。


 理織も、思わず手を出しそうになった。


 けれど、触れる直前で二人とも止まった。


 数センチの距離。


 手は届く。


 届いてしまう。


 その近さが、今は危うかった。


 降りてきた住人が二人の横を通り過ぎる。


 足音が遠ざかる。


 それでも、二人はしばらく動けなかった。


 樹が手を下ろした。


「だめですね」


 理織は息を吐く。


「何がですか」


「名前のないものほど、近づき方を間違える」


 理織は、その言葉を受け止めた。


 名前のないもの。


 読者と作家。


 店長と客。


 優の父と、優の好きな人。


 どの名前も正しい。


 けれど、どの名前も足りない。


「名前をつければ、間違えないんでしょうか」


 理織が聞くと、樹は首を横に振った。


「つけたら、戻れなくなる気がします」


 理織は黙った。


 戻れなくなる。


 その言葉が、胸に沈む。


 今なら、まだ戻れるのか。


 読者と作家に。


 店長と客に。


 優を傷つけない距離に。


 そう考えても、答えは出なかった。


 戻れるかどうかではなく、もう戻り方が分からなくなっているのかもしれない。


「坂本先生」


「はい」


「私、今日は帰ります」


 樹は頷いた。


「はい」


「トレーは……また今度でいいです」


「分かりました。次に店へ行く時に持っていきます」


「お願いします」


 それで用件は済んだ。


 本当なら、これで帰れる。


 けれど、理織はもう一つだけ言葉を置いた。


「次に原稿を読む時は、ちゃんと距離を決めてからにしましょう」


「そうですね」


 理織は階段の下を見る。


 帰る道がある。


 上がる道もある。


 でも、今日は下りる。


「でも、読みたくないわけではありません」


 言ってから、胸が痛んだ。


 それは言わなくてもよかったかもしれない。


 けれど、嘘もつきたくなかった。


 樹は静かに答えた。


「私も、読んでほしくないわけではありません」


 二人の間に、沈黙が落ちた。


 それは優しい沈黙ではなかった。


 苦しい沈黙だった。


 それでも、今はその苦しさが必要なのだと思った。


 理織は一段目から足を下ろした。


 完全に階段の外へ出る。


 樹は上にも戻らず、下にも降りず、階段の途中に立っていた。


 鍵を握ったまま。


 扉へ戻らずに。


 理織は階段の下から、樹を見上げた。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 その挨拶は、いつもの店で交わすものより遠かった。


 けれど、遠いからこそ守られるものもある気がした。


 理織は背を向けた。


 歩き出す。


 建物の外へ出ると、夜の空気が頬に触れた。


 冷たかった。


 でも、その冷たさで息ができた。


     ◇


 樹は、階段の途中に残っていた。


 理織の足音が遠ざかっていく。


 鍵を握った手に、力が入っている。


 上へ戻れば、アトリエがある。


 下へ降りれば、理織の後ろ姿がまだ見えるかもしれない。


 どちらにも行けなかった。


 優の父である自分。


 作家である自分。


 理織に頼りたい自分。


 どれも同じ自分なのに、一つにできなかった。


 樹は階段に腰を下ろしかけて、やめた。


 座ってしまえば、立ち上がれなくなる気がした。


 華の声が蘇る。


 立ち止まることは、逃げることとは違うわ。


 華は理織にそう言ったのだろう。


 けれど、その言葉は樹にも向けられている気がした。


 樹はゆっくり息を吐いた。


 そして、アトリエへ戻るために階段を上がった。


 今日は書けないかもしれない。


 それでも、理織を追わなかった。


 追わないことだけは、今日の自分にできたことだった。


     ◇


 理織は、駅へ向かって歩いていた。


 足元に、街灯の光が落ちている。


 スマホは見なかった。


 樹に連絡する言葉もない。


 優に話す言葉もない。


 華に返す答えもない。


 ただ、階段の途中で止まったことだけが、胸に残っていた。


 朝、自分から近づかないと決めた。


 夜、その決意を揺らす理由が見つかった。


 トレーを取りに行く理由はあった。


 でも、その理由だけではなかった。


 だから、上がらなかった。


 階段は、上るためにある。


 けれど、今は上らないことにも意味があった。


 近づきたい気持ちを抱えたまま、理織は一段目から足を下ろした。


 樹もまた、鍵を握ったまま扉へ戻らなかった。


 立ち止まることは、逃げることとは違う。


 華の言葉が、二人の間に静かに残っていた。


 その階段の途中で、まだ名前のないものだけが、ゆっくり息をしていた。

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