18 枯れる、借りる、香る
「――ィア、ナディア」
すぐ近くで彼の声がする。体がふわふわと揺れている。慣れない浮遊感が気持ち悪くて地面に足をつきたいが、自分の足がどこにあるのかわからない。
「ナディア」
――何か言わなくちゃ。
「すみません、だいじょ――」
「嘘言え。大丈夫じゃない。顔が真っ青だ」
うまく息が吸えない。
「すみませ……」
話すことさえ億劫で、文を最後まで終わらせることができない。
「まずいな」
彼が「道を開けてくれ!」と叫ぶ声が聞こえた。
誰かに押さえつけられているのではないかと思うほど瞼が重い。なんとか片目だけこじ開けて状況を確認しようとしたが、見えたのは人垣とタリクの顔だった。見慣れない角度だ。顎を下から見上げている。鼻の穴も見える。
――ん。
重さに負けて目を閉じた。
――ん? 鼻の穴?
その段になってようやく、自分がタリクに抱きかかえられていることに気付いた。
「で、でんか。あの、じぶんで――」
「魔力枯渇を起こしてるんだ。自分で歩けるはずないだろう。大人しくしてろ」
――あ。これが枯渇。
魔力を使い果たしてしまったときの症状だ。授業で学びはしたが、自分の身に起こるのは初めてだ。回復方法は休息しかないが、逆に言えば、休息していれば回復する。
――情けないなぁ。
「殿下、代わりに私がナディア殿をお運びします」
「いや、いい。私が運ぶ。この異常事態に文句を言う者は出まい。すまないが、学校の医務室に事態を知らせておいてくれないか。ひと晩休めばある程度は回復するだろうが――」
護衛らしき声との会話が聞こえてくるが、目を開けられない。
やがて体が揺れ始め、タリクが歩いているとわかった。
――ごめんなさい。
そう言いたいのに、口を開けそうもない。
ただじっと、彼の腕に揺られていた。
――魔術で運べばいいのに。どうして抱きかかえて運んでくれるんだろう。重いだろうに。
そこで意識が途切れた。
*****
目を覚ますと、そこは医務室だった。
外が明るい。
医務室の位置と窓の方角から朝だと理解し、慌ててベッドを下り――ようとしたところで低い声に「君は何をしているんだ?」と咎められた。声の主はタリクだ。衝立の向こうにいたらしい。
「あの……わたし、何日眠って……?」
「ひと晩だけだ」
ということは祭典の翌日だ。
よかった、授業に間に合う。
「授業に行かなくては」
「授業に出られるような状態だと思ってるのか? 魔力枯渇を起こしたんだぞ。普段の勉強にグループ課題、式典の練習でろくに寝ていなかっただろう。その上、魔力の制御が難しい砂漠でフィオレンシアのために大量の魔力を消費したとあれば、そうなっても無理はない。一体いくつ変装の術をかけたんだか」
そう言われると、いくつ術をかけたのか自分でも覚えていない。とにかくハサン卿にバレないように、解けないように、かなり厳重に重ね掛けをした覚えはある。
――でも授業には出ないと。
だいじょうぶ、と言いながら立ち上がろうとしたが、失敗してベッドに尻もちをついた。
「大丈夫じゃないから、大人しく寝ているんだ」
「でも……演習の授業が……出席点が厳しいので、出ないと成績が……しけんがちかいし、ちゃんと――」
眩暈で座っていられなくてベッドに倒れ込む。
――「ちゃんと」、なんだっけ。
何の話をしていたのかを見失いそうになっていたら、彼の魔力の匂いに包まれた。
「仕方ない。私の魔力を使え」
「……え?」
思考がかすむせいで彼が何を言っているのかわからなかった。
「授業で教わったろう。使い手は使い魔から魔力を吸いあげることができる」
そうそう、授業で級友が「それは隷属では」と言っていた、使い魔からの魔力供給だ。
「でも……そうすると、殿下の魔力が」
「今日は私の授業はないから、君の授業にスナネズミの格好でついて回るだけだ。ポケットの中で眠らせてもらえれば支障はない」
「そ、そんなことできません」
「だが、授業を休みたくないんだろう? 他に選択肢はない。この魔石から魔力を拝借したら、母が『なにごとか』とすっ飛んできそうだからな」
「……それは大歓迎ですが……?」
そう言うと、狭い視界のほとんどを埋めているタリクの目が細められた。
「君はそうだろうな。”大好きなルル様”に会えるんだから。だが、私は学院に母が乗り込んでくるのは絶対に御免なんだ。君が吸い取らないなら私のほうから送り込むまでだ。枯渇に至ると魔力を吸い取る力すら残らないというが、ひと晩でそのくらいは回復しただろう。医務官が戻る前に、早くしろ」
そう言って手を差し出してくる。彼は真剣だ。
そして授業には出なければならない。
ナディアは腹をくくり、彼の手を取った。
魔力を借りるのは初めてだ。でも不思議と、どうすればよいかは分かった。感覚を共有するときに辿った魔力回路をたどり、いつもかすかに流れ込んでくる彼の感情の糸のようなものを手繰り寄せた。
タリクの手首の紋様が赤く光る。
――ごめんなさい、少しだけお借りします。
手繰り寄せたものを体に引き込むとすぐに、冷えていた四肢に熱が満ちた。
魔力が流れ込んでいる。
瞼が軽くなり、視野が広がり、耳が廊下の喧騒を拾い、体が軽くなる。
「すみません、殿下。ありがとうござ――」
礼を言おうと顔を上げた瞬間、彼の体がぐらりと揺れ、その場に片膝をついた。
「殿下っ申し訳ありません!」
慌てて支え起こそうとしたが、彼はナディアの方に手のひらを向け「大丈夫だ」と言う。
「『吸え』なんて気軽に言ってしまった。魔力量の差を考えていなかった。君を満たすには私では足りないな」
「ごごごごめんなさい、たたた立てますか?」
「立てる」
そう言って立ち上がるが、息が荒いし、唇からは血の気がすっかり引いている。
「どどどどどどどうしよう、魔力を少し戻し――」
「大丈夫だ。スナネズミになるからポケットに入れておいてくれ。言っておくが、今の私より昨晩の君の方が数倍ひどい状態だったんだからな」
そう言い残してスナネズミになる。
ナディアは彼をそっとポケットにしまい、戻って来た医務官に回復した旨を伝え、医務室を出て授業へ向かった。
演習の授業で魔術を使った。もしかして、と思ったが、何度目かで確信した。自分が放った術から、焼けた岩肌に夕立が触れたときの匂いがする。彼の魔力を借りたからだろう。普段は自分の魔力の匂いは感じないので、術を放つ度に匂いに包まれるのは不思議な感覚だ。
――なんだか殿下に守られているような気がする。
そんなことを考えながらポケットの中を覗いた。
スナネズミが眠っている。
退屈で眠っているときと違い、今は眉間にしわを寄せて苦しそうだ。
――ごめんなさい。
スナネズミなので顔色はよくわらかないが、医務室での彼の青白い顔を思い出す。
――いつも平然としている人が、そこまで消耗するなんて。
いつも青い顔をして眠っている母の姿と重なって胸が痛んだ。
――お母さんの病気も、もしかしたら魔力を吸い取られてしまうような性質の病気なのかもしれな――
ハッと、ナディアは息を呑んだ。
心臓が跳ね、ドクドクと耳の奥で鼓動が聞こえる。
タリクの顔。
いつも苦しそうにしていた母の顔。
自分から香る彼の匂い。
母と同じ匂いを漂わせる人。
胸を突き上げるような衝撃に息が詰まる。
魔力を吸いあげられて魔力不足になった使い魔……?
まさか。まさか母は――




