19 震える手
タリクはナディアを探して歩いていた。
図書館にいるはずだ。使い魔の絆で彼女を近くに感じる。が、いつも座っている場所にはいない。
――どこだ。どこへ行った。
授業が終わるなり彼女は自分を寮へ連れ帰り、巣箱に置いてくれた。すさまじい疲労感に動くことができずに巣箱でしばらく眠り、目を覚ましたときにはナディアの姿はなかった。
タリクが早足なのは、彼女の感情のうねりを感じているからだ。
――なんなんだ、これは。
タリクがナディアと離れたときに感じる言いようのない不安とはまた違う、憤りのような、焦りのような、こみ上げてくるそれらをなんとか落ち着けようと苦心しているような、妙な感情だ。
何かがあったのだろう。また誰かに傷つけられたのだろうか。
ともかく彼女の顔を見て何があったのかを確かめるために、タリクは急いでいる。
小柄な姿は図書館の地下にある古い書架の隙間で見つかった。可動式の梯子に座り込み、本をめくっている。彼女が本を手にしているのは珍しいことではないが、開いたページを睨む表情に鬼気迫るものがあった。
そして彼女の周囲には、放り投げでもしたのかというほど乱雑に本が積み重ねられている。
「一体どうしたんだ。本を大切に扱う君らしくもない」
彼女のすぐそばに落ちている本を拾いながら、そう声をかけた。
本から顔を上げた彼女の目は血走っている。初めて見る表情だ。
「……誰に何をされた?」
そう鋭く問うと、ナディアは首を横に振った。
誰かに何かをされたわけではない、ということらしい。
「それならどうした?」
ナディアが口を開く。が、声が出て来ない。
彼女の前にしゃがみこみ、すぐ近くから瞳を覗き込む。目が合わない。
「枯渇が後を引いているのか? 気分が悪いなら――」
首を横に振る。
「では、私にできることは何かあるか?」
問いを変えた。
ナディアの瞳が揺れた。縋るような目だ。
タリクはごくりと唾を呑んだ。
「……殿下のお力を……お貸しいただけますか」
声が震えている。
いつも「大丈夫」と言う彼女が頼ってくるなんて。
――只事ではないな。
「もちろんだ。何をすればいい?」
「王宮の図書室へ連れて行っていただけませんか」
「……何か知りたい事があるんだな? このあと授業は――ないな。ついて来い」
彼女をつれて王宮まで歩き、図書室に案内した。学院の図書館よりも充実した蔵書数を誇っている。
――いつか案内したいとは思っていたが。想像していたのとは違った形になったな。
彼女は無表情に書架に歩み寄る。
ほどなく、探していた資料が見つかったらしい。
書架の前に立ったまま薄い紙束を読み、ひっくり返してもう一度読む。そして何度も何度も、同じ箇所を読む。
小さな手が震えている。その震えはどんどん大きくなって、そのうち資料を握っていられないほどになった。
それを見て、タリクは華奢な手からそっと資料を取り上げた。
「ナディア、ここへ座って。一度深呼吸をするんだ」
手近な椅子を動かして彼女のほうへ寄せると、彼女は大人しくそこに腰を下ろした。
ふううう、と深く息を吐いた彼女に問いかける。
「話せるか?」
自分が動揺しているのか、それとも、彼女の動揺を感じ取っているだけなのか、あるいはその両方か。
答えを待った。時間にして数十秒だろう。なのに永遠かと思うほど長く感じた沈黙のあと、ゆっくりと小さな唇が開く。
「母からはかすかな魔力の匂いしか感じたことがないんです。まだ起き上がれていた頃も、せいぜい小さな蝶を作って飛ばしてくれるくらいでした」
――母? 急になんの話だ?
「でも、叔母はいつも『姉さんは優秀だったのよ』と。母がいかに優れた魔術師だったかを話してくれました。だからずっと不思議だったんです。体が弱ると魔力も減ってしまうのかなと。でも――」
ナディアは震える息を大きく吸い込んだ。
「――もしも、逆だったとしたら? 身体が弱ったから魔力が減ったのではなく、魔力が減ったから体が弱ったのだとしたら。もしも……もしも、魔力を誰かに吸い取られているとしたら」
「一体……」
「使い魔として魔力を吸い取られ続けている人間がどんな姿になるか、誰も知らない。だからどの医者に見せても原因不明だったのだとしたら?」
大きな瞳の表面に涙の膜が張る。それが今にもこぼれそうなのを見ながら、タリクは彼女の言葉を理解しようと必死に頭を働かせた。
「つまり……」
「授業で教授がおっしゃっていた『供給役』にされているとしたら」
教授は「使い魔に供給役を担わせて安定的に魔力を得たいと思ったら、ドラゴンくらいの魔力量の生物を使い魔にしなければなりません」と言っていた。魔力を吸われた使い魔は休息をとらなければならない。その間は使い魔としての役割は期待できないから、供給役を担わせるメリットはない、と締めくくられていた。
だがもしも使い魔が多くの魔力を持つ人間で、そもそも使い魔としての能力を一切期待されていないとしたら。純粋に魔力の供給役としての役割だけを担わされているとしたら。
タリクの背筋が寒くなった。
「人間を使い魔にしてはならない」というのは魔術師の歴史のごく初期に定められた法のひとつだ。この国のみならず、世界各地で同様の法が存在する。長い歴史の中で禁忌を犯した者もいた。好奇心が悲劇を招いた例が大半だった。だが有史以来「供給役のために」なんていう残酷な例があったという話を聞いたことはない。
「そんなまさか。一体誰がそんなことを……」
「殿下の魔力をお借りしたときに術を使ったら、殿下の魔力の匂いがしたんです。つまり、もしも母の魔力を吸い取っている人がいるならば、その人からは母の魔力の匂いがするはずです」
頭を雷で撃たれたようだった。
「ハサン卿、か……」
「フィオが言っていたのを覚えてらっしゃいますか? ハサン卿は学院での成績が芳しくなく、魔術団に入ってから頭角を現した、と」
「つまり……その頃に母君がハサン卿の使い魔にされた可能性がある、ということだな」
冷静に聞かねばと思うが、感情のうねりに飲み込まれそうになる。
――冷静になれ。
目をつぶり、自分にそう言い聞かせる。
感情に呑まれている場合ではない。
「我々の手には負えないな。両親に話そう」
ナディアがこくんと頷いた。
「二人とも不在にしているので、戻り次第伝えるとして……母君とハサン卿の接点についてはすぐに調べよう」
書架の隙間にある縦長の小さな窓から外を見た。すでに星が見える。
「学院の閉門時間がせまっているな。どうする? 寮に外泊届を出すか? それなら王宮に部屋を用意させる」
ナディアは首を横に振った。
「いいえ、そこまでご迷惑をおかけするわけには。明日も授業ですし。寮に戻ります」
「わかった。それなら先に戻っていてくれるか。何か分かり次第、報告する」
そう告げると彼女は頷いた。
サマーリに彼女を見守るよう頼んで別れ、王宮に詰めている護衛に話を聞きに行く。詳細を明かさず尋ねたが、すぐに詳しいことがわかった。もっと言うなら、あまりにもすぐにわかりすぎた。
タリクが「ナディアの母君だが」と言うなり分厚い資料を取り出した護衛を相手に、タリクはため息をついた。
「……すでに調べてあった、というわけか」
「殿下をお守りするのが我々の使命です」
「だからナディアの素性も調べた? 家族のことも? 彼女自身が知らないことまで?」
「殿下の安全に必要な限りは」
護衛は悪びれない。
職務を全うしただけの彼を責めるわけにもいかない。その調査が誰の命でなされたかは明らかだからだ。
――父は抜け目のない人だな。
ナディアに対して終始友好的な姿勢を崩さなかったが、その陰で、タリクを取り巻く人間として安全かどうかを徹底的に洗っていたらしい。
――どうりでナディアの故郷を訪れるときに反対されなかったわけだ。一家のことを調べ上げてあったから、護衛を残して家に入っても何も言われなかったのだな。
「……ナディアの父親のことも?」
「父親が誰かを確実に知る方法はありませんが、母親が王都を出て共に暮らしていた相手はわかっています」
彼女の叔母ライラですら知らないと言っていた。
ナディアより先に知りたくない。
が。
真実をたしかめるためには、たぶん知るべきなんだろう。
――すまない、ナディア。君の人生に土足で踏み込むことを許してくれ。
護衛から受け取った資料と図書室で探した資料とを持って王宮の自室に籠った。自室の机に向かうのなどいつ以来か。数時間かけ必要な情報を得て学院に戻った。すでに真夜中を過ぎていたが、ナディアの部屋には明かりが灯っていた。
窓から中に入る。
ナディアはベッドの端に座って壁を見つめていた。
スナネズミから人間に戻った自分を見て、視線で急かしてくる。
「まずハサン卿のことだが。魔術団の記録を遡った。フィオレンシアが言ったとおりだった。ギリギリの成績でなんとか魔術団への入団を果たし、凡庸どころかお荷物だったが、ある年を境に一気に出世している」
「いつ頃のことですか?」
「十五、六年前から快進撃が始まったようだった」
「私が生まれた頃……ちょうど母が病になった頃です。母との間に面識は?」
タリクは頷いた。
「魔術団で同じ部署に勤めていたことがあったようだ」
ナディアの口から「アァ」というような声が漏れた。
口を覆う手が震えている。
彼女のそんな姿を見るのが、こんなにも胸を抉るとは。
小さな手を握り、震える肩を抱きしめたい。だが、すべきではないとわかっている。代わりに「手繰りの術」を使った。遠くのものを取るのに便利な古典魔術だ。魔力の手を彼女に寄り添わせると、震えが少し落ち着いた。
「母を……救えるかもしれない」
ナディアはそう呟いた。
その小さな体の中で、今しがた彼女自身が口にした希望と、自身の仮説を疑う気持ち、ハサンに対する怒り、様々な感情がうねっているのを感じる。
そんな彼女にそれ以上は話せなかった。確信のないことで苦しめたくなかった。タリクは沈黙を選んだ。
当時すでに妻を亡くしていたハサンはナディアの母に好意を寄せていたらしく、ナディアの祖父からの結婚許可も取り付けていた。が、ナディアの母はハサンとの結婚を拒んで別の男と共に王都を出た。それぞれヌジュームの学校と天文台で職を得て二人で暮らしていたが、一年ほど経ったある日、男が消えた。
護衛から渡された資料には、ナディアの母が王都の友人に宛てた手紙が入っていた。
『彼が自分の意志で失踪したのだろうと、誰も真剣に取り合ってくれないの。彼に限ってそんなことはあり得ない。八方手を尽くして探しているから、些細なことでも何かわかったら知らせてほしい。お願い』
そんなことが震える字で綴られていた。
『先日、あの男が突然訪ねてきたの。父の差し金かしら。嫌な予感がするのよ』
とも。
――ナディア、もしかすると君の父親は……




