第一章 透明な籠の中
病室を支配する消毒液とフェノールの混ざり合った匂いは、緩やかな死の匂いだ。生命の脈動を祝福する匂いではなく、それが少しずつ、確実に灰色の無へと擦り減っていく過程を無機質に告げる匂い。窓の外では、寒の戻りに震える桜の枝が、固く閉ざした蕾を硬直させていた。遠くの空で傾いていく春の陽光は、病室の薄汚れたレースカーテンを透過し、白いシーツの上に引き伸ばされた影を落としている。その影はまるで、この部屋の時間を永遠に押し留めようとする黒い鎖のようだった。
規則正しく、しかしどこか虚ろに響く心拍モニターの電子音。
ピコン、ピコン、ピコン。
その一拍一拍が、この部屋に残された僅かな生命の余白を削り出していく。
ベッドの上に横たわる少女、唯の顔には、かつて舞台の真ん中で眩いスポットライトを浴び、観客の歓声をその全身で受け止めていた頃の面影はどこにもなかった。かつて薔薇色に輝いていた頬は肉を削ぎ落とされ、頬骨のラインが惨めなほど浮き出ている。肌は生命の血通いを失い、土気色と灰色が混ざり合った死相の影に沈んでいた。
鼻からは酸素チューブが伸び、細い腕には何本もの点滴ラインが紫色に浮き出た静脈へと繋がれている。彼女は自らの意志で呼吸をしているのではない。機械が弾き出す数値、胸腔を強制的に押し広げる陰圧換気のシークエンスに従い、ただ呼吸という「現象」を繰り返しているだけだった。
息の詰まるような、残酷なまでの「延命」の日々。
唯は、生きている。
心拍数は48。血圧は78の42。数値の上では、彼女は間違いなくこの地上に存在していた。
けれど淳は、その姿を見るたびに、自らの胸孔に手を突っ込まれ、心臓をすり鉢でゴリゴリと擦り潰されるような激痛に苛まれていた。握りしめた拳の爪が手のひらに食い込み、痛みの感覚すら麻痺していく。
(これが……これが本当に『生きている』と言えるのだろうか? 僕が彼女から未来も、希望も、情熱も、そのすべてを奪い去った結果が……この静寂の牢獄だというのか……)
淳の脳裏に、津波のように押し寄せるのは「最初の世界」の記憶だった。
◇
最初の世界で、唯は十八歳の春にこの世を去った。
地元の小さなダンススクールで、唯は群を抜いて輝いていた。しなやかな肢体、音符の隙間をすり抜けるようなステップ、そして何より、躍動する喜びを隠しきれない真ん丸な瞳。彼女が踊る時、練習場の重苦しい空気は一瞬にして鮮やかな色彩で満たされた。
だが、高校三年の冬、突然の倒伏によって発覚した心筋の重篤な疾患が、すべての未来を打ち砕いた。拡張型心筋症――心臓のポンプ機能が急速に低下し、激しい運動どころか日常生活すら命がけとなる不治の病。
病室のベッドの上で、点滴の針を刺した手を小さく震わせながら、唯は淳の服の袖を握りしめた。瞳からぼろぼろとこぼれ落ちる大粒の涙。
「淳……お願い。私、分かってるの。もう長くないことくらい、自分の体だもの……分かってる。でもね、嫌なの。このまま何も残せずに、消毒液の匂いの中で消えていくなんて耐えられない。死んでもいい……死んでもいいから、私、最後に大好きなダンスを踊りたい。あの憧れてたコンテストのステージに立ちたいの」
「ダメだ唯! 医者だって絶対に安静にしろって言ってるじゃないか! 命より大切なダンスなんてあるわけないだろ!」
「あるよ!!」
唯は叫んだ。掠れた、けれど魂の奥底から絞り出された叫びだった。
「私にとってダンスがない人生は、生きているとは言わないの! ただ息をして、心臓が動いているだけの置物になりたくない……! 淳、お願い……私を助けて。私を……ステージに立たせて……」
あの時、淳は彼女の涙に耐えかねた。衰弱していく彼女の意志を拒むことができなかった。淳は愚かにも「彼女の願いを叶えることこそが愛だ」と自分を正当化し、主治医の厳重な制止を振り切って、真夜中の病院から唯を連れ出した。
二人だけの密かな練習。放課後の誰もいない体育館、ポータブルスピーカーから流れる旋律。唯はステップを踏むごとに胸を押さえ、荒い息を吐き、唇を紫に変えながらも、笑っていた。
そして、本番の日。
コンテストの舞台袖で、淳は祈るように手を合わせ、全身をガタガタと震わせながら彼女を見守っていた。照明が落ち、暗転したステージに一本の鋭いスポットライトが灯る。重厚なピアノの導入とともに音楽が響き渡った瞬間、唯は跳躍した。
それは、まるで生命の概念そのものが光の精霊へと姿を変えたかのような舞だった。観客の誰もが息を呑み、世界の時間が止まった。重力から解き放たれ、痛みを忘れ、彼女は誰よりも美しく、誰よりも残酷に輝いていた。
しかし、その代償はあまりにも即物的に、そして容赦なく訪れた。
曲の最後の残響が館内に溶けていくと同時、唯の体は糸の切れたマリオネットのようにステージの床へ崩れ落ちた。過剰な負荷がかかった彼女の心筋は悲鳴を上げ、二度と元のリズムを取り戻すことはなかった。緊急搬送されたICUで、彼女の命の灯火は数か月、あるいは数年咲いたはずの時間すらも削り取り、あっけなく消え去ったのだ。
「僕が……僕がダンスなんて踊らせなければ……僕が断ち切っていれば、唯は死なずに済んだのに!」
冷たくなった唯の棺に縋りつき、額を押し当てながら、淳は自分の愚かさを狂おしいほど呪った。彼女の最後の笑顔の美しさが、そのまま淳の胸を突き刺す研ぎ澄まされた刃となった。自責の念は夜ごと彼を苛み、胃を焼き、脳を溶かした。
その強烈な悔恨と、「やり直したい、彼女を救いたい」という狂気じみた念願が時空の理を歪めたのだろうか。
ある朝、淳が目を覚ますと、そこは十五歳の春――唯の病気が発覚するわずか一か月前の、過去の世界だった。




