第8話 茎が上を向いている花もある
第8話 茎が上を向いている花もある
アガーテは、人形の服に刺繍された白い花を指先で押さえた。五枚の花弁の上から緑色の茎が伸びている。母が上下を間違えたのだと思い、糸切り鋏を差し込もうとした。
「お母様も、間違えております」
リヒルデは、焼いた胡桃の殻を皿へ置いた。金茶色のドレスの胸元には、先ほど食べた梨の汁が一滴ついている。侍女が布巾を持ってきたが、母は気づかず、人形の服を受け取った。
「どこが?」
「この花です。茎が上を向いています」
「そういう花もあるわよ」
「花は茎の先に咲くものでしょう。茎が花より上にあるのは不自然です」
「では、庭へ行きましょう」
「今からですか」
「あなたは昔から、間違いを見つけると食事の途中でも人を立たせるでしょう。今日は私が立たせます」
リヒルデは残っていた胡桃を一粒つまみ、口へ入れた。アガーテにも一粒渡そうとしたが、焦げたものを選んでしまい、自分の皿へ戻す。もう一つ割ると、中身が粉になって絨毯へ落ちた。
「胡桃は、外から中身が分かりませんね」
「急に何の話?」
「以前、ゴドフロワも同じことを言っていました」
「その方は、胡桃の専門家なの?」
「庶務官です」
「王宮には変わった役職があるのね」
母は厚い肩掛けを羽織り、燭台を持って廊下へ出た。アガーテも青灰色の外套を着て、人形の服を手に続いた。夜の侯爵邸は昼より静かで、厨房のほうから食器を洗う音と、焼いた林檎の甘い匂いが流れてきた。
裏庭へ出ると、石畳に薄い霜が降りていた。白い山茶花の花弁が暗い土へ散り、踏むと柔らかな音がする。リヒルデは燭台を低く持ち、古い温室の扉を開けた。
温室の中には、冬を越すために移された鉢植えが並んでいた。ローズマリー、月桂樹、赤い実をつけた唐辛子の間に、細い葉を伸ばした白い花が咲いている。花の中央から黄色いしべが上へ伸び、白い花弁が星のように開いていた。
「これは玉簾よ。茎そのものは下にあるけれど、花の中から上へ伸びるところがあるでしょう」
「それは茎ではなく、しべです」
「刺繍をしたとき、私は十歳だったの。茎としべを正しく縫い分けられるほど、上手ではなかったわ」
「お母様が十歳のときに刺した花なのですか」
「そうよ。あなたの服へ縫い直したの。私の母から、上を向いた茎は間違いだと言われた刺繍よ」
アガーテは人形の服と白い花を見比べた。刺繍は玉簾には似ていない。花弁は丸く、緑色の一本だけが不格好に上へ飛び出している。
「やはり、茎には見えます」
「では、釣鐘草だったことにしましょう。花が下を向けば、茎は上にあるわ」
「花の形が違います」
「あなたは、母親の思い出にも修正を入れるのね」
「違うものを同じとは言えません」
「それなら、何の花か分からない花でよいでしょう」
リヒルデは燭台を棚へ置いた。炎が揺れ、玉簾の白い花弁へ橙色の光が映る。鉢の土は乾いていたが、母は水差しを探そうとしなかった。
「水をやらなくてよいのですか」
「庭師が朝に確認するわ」
「今、乾いていると分かりました」
「だからといって、夜に水をやりすぎると根が冷えるでしょう。私は花の世話に詳しくないから、庭師へ任せているの」
「お母様にも、任せられることがあるのですね」
「失礼ね。薔薇の剪定に口を出して、三年続けて花を減らしてから諦めたのよ」
「三年もかかったのですか」
「あなたより早いかもしれないわ」
アガーテは返事をせず、人形の服を裏返した。母が縫った白い花の裏には、緑の糸が何度も交差している。表からは一針に見えた部分に、裏では六本もの糸が絡んでいた。
「ほどきますか」
アガーテが尋ねると、リヒルデは首を横へ振った。
「その花は残しましょう」
「上下が間違っているかもしれません」
「間違っていても、私が十歳で縫った花よ。あなたの人形には不格好だけれど、私の針を取り上げた母へ見せたかった花でもあるの」
「お祖母様も、途中で取り上げたのですか」
「ええ。私が刺繍を間違えるたび、貸しなさいと言ったわ。だから私は、あなたには最初から失敗させないほうが親切だと思ったの」
「同じことをなさったのですね」
「そうね。自分が嫌だったことを、少し言い方を変えて、あなたへ渡したのね」
温室の硝子へ、細かな雨粒が当たり始めた。リヒルデは肩掛けの前を閉じ、アガーテの外套の襟も直そうと手を伸ばす。途中で手を止め、そのまま下ろした。
「襟が曲がっているわ」
「自分で直します」
「そう」
「ですが、後ろは見えません。確認してください」
アガーテは自分で留め金を外し、襟を直した。母は背後へ立ち、右側がまだ折れていると教えた。手を出さず、言葉だけで伝えるため、三度もやり直すことになった。
「まだ曲がっていますか」
「今度は左が高いわ」
「最初から直していただいたほうが早かったですね」
「でも、次は自分でできるでしょう」
「次も確認はお願いします」
「いつまで?」
「できるようになるまでです」
リヒルデは、そこで初めて襟の後ろを軽く押した。全部を直すのではなく、折れた部分だけを指で示す。アガーテがそこを引くと、左右が同じ高さになった。
二人は温室を出る前に、玉簾の鉢へ「土が乾いています」と書いた木札を立てた。水をやるかどうかは、翌朝、庭師に判断してもらうことにした。リヒルデは木札の字を見て、花一鉢にまで報告書が必要なのかと笑った。
裁縫室へ戻ると、焼いた胡桃はすっかり冷えていた。半分むかれた梨には白い山茶花の花弁が貼りつき、汁を吸って半透明になっている。アガーテは人形の服を机へ広げ、母から糸切り鋏を受け取った。
「右袖はほどきます。左袖は、絡んだ糸だけ外します」
「白い花は?」
「残します」
「間違っているのに?」
「茎が上を向いている花もあります。それに、これは何の花か分からないのでしょう」
「そうね。何の花か分からない花よ」
リヒルデは白い花を指で撫でた。アガーテは緑の糸へ触れたが、鋏を入れなかった。人形の服には、幼いアガーテの歪んだ縫い目と、十歳のリヒルデが間違えたかもしれない花が、一緒に残った。




