第9話 相手を否定しない。肯定する練習
第9話 相手を否定しない。肯定する練習
王宮の中庭で、山茶花の赤い花が夜露を含んでいた。石畳には落ちた花弁が貼りつき、掃除係のマルタが竹箒で一か所へ集めている。アガーテは青灰色の外套を着て、その脇を足早に通り過ぎようとした。
「今日は赤い外套ではないのですね」
マルタに声をかけられ、アガーテは足を止めた。侯爵邸から借りてきた外套は深緑色であり、赤ではない。すぐに訂正しようとしたが、今朝ヘルミーネから与えられた課題を思い出した。
「そう見えましたか」
「昨日は暗かったので、赤に見えたのかもしれません。赤い外套も似合うと思いますよ」
「赤は仕事着には派手です」
言った直後、マルタが箒を止めた。否定から入らないこと。それが今日の課題だった。相手の話に誤りがあっても、最初の一言では訂正せず、受け取ったことを示さなければならない。
「今のは、やり直してもよろしいですか」
「私は構いませんよ。箒も逃げませんから」
「赤い外套も似合うと言ってくださったのですね。ありがとうございます。そのあとで申し上げますが、昨日の外套は深緑色です」
「昨日から面倒な話し方を習っているのですね」
「本日からです」
「それは大変だ。赤でも緑でも、暖かければよいと思いますけれどね」
マルタは山茶花の花弁を籠へ入れた。そのうち一枚がアガーテの靴へ載ったが、彼女はすぐには払わなかった。赤い花弁をつけたまま研修室へ向かうと、途中で会ったネリーが靴を二度見した。
研修室では、ヘルミーネが朝食の黒パンへ山羊乳のチーズを塗っていた。薄く塗るつもりが、端に大きな塊が残っている。窓辺の黄色い菊は花を終え、茶色くなった種の部分だけが鉢に残されていた。
「否定しないとは、間違いを認めることではありません」
ヘルミーネは黒パンを半分に折った。チーズが間から押し出され、皿へ落ちる。彼女は匙ですくい、またパンへ載せた。
「相手の話を最後まで聞き、受け取ったことを伝えてから、自分の意見を述べるのです」
「誤った情報を肯定すれば、誤解を広げます」
「情報ではなく、その人がそう考えたことを受け取ってください」
「意味が分かりません」
「今、私の説明を否定しましたね」
「分からないものを、分かったとは言えません」
「では、『私はまだ理解できていません。別の例をいただけますか』と言えばよいのです」
アガーテは鞄から、長い右袖を持つ人形の服を取り出した。昨夜、母と三針ずつ糸をほどいたが、まだ左右の長さは違っている。白い花の刺繍は残し、茎のような緑の糸にも手をつけなかった。
「母は、この刺繍を花だと言いました。私には、上下を間違えた花に見えます。その場合も、肯定するのですか」
「『お母様には花に見えるのですね』と言えます」
「ずるい言い方です」
「それも否定です」
「では、何と言えばよいのですか」
「私の言い方が、あなたにはずるく聞こえたのですね」
アガーテは口を閉じた。ヘルミーネは、皿へ落ちたチーズをもう一度パンへ載せようとした。今度は匙から外れ、卓上へ落ちた。
「三度目です」
「見ていたのですか」
「布巾をお使いになってはいかがですか」
「そうですね。もっと早く言ってください」
「ご自分でできると思い、待っておりました」
「待つ場所を間違えています」
二人が話しているところへ、ヨアヒムとネリーが入ってきた。ヨアヒムは濃紺の上着の下へ厚い毛糸の胴着を着ている。前後を逆に着たらしく、首元から留め紐が一本のぞいていた。
「殿下、その胴着は前後が逆です」
「朝から首が苦しいと思っていた」
「どうして誰も教えなかったのですか」
「侍従が言いかけたが、急いでいたので、あとにしてくれと言った」
「着替えるときに気づくでしょう」
「アガーテ様。最初に否定しない練習です」
ネリーが小声で注意した。若草色の制服には四輪目の糸菊が増えている。今回は花弁が一枚だけ青く、残りは黄色だった。
アガーテは、ヨアヒムの胴着を見た。前後を間違えることを肯定する言葉など思いつかない。迷った末、首元から出た紐を指した。
「首が苦しかったのですね」
「ああ」
「その原因は、胴着を前後逆に着たからだと思います」
「見れば分かる」
「私にも、分かりました」
「二人とも、今朝は妙な話し方だな」
ヨアヒムは衝立の後ろへ行き、胴着を着直した。戻ってくると、首元は楽になったものの、髪が片側だけ跳ねていた。アガーテはそれを指摘せず、ネリーも口元を押さえて黙っている。
「河川上流から報告が届きました」
ヨアヒムは机へ地図を広げた。昨夜から降り続いた雨により、北部の川が増水している。二つの村では避難の準備を始め、修道院も備蓄庫を開けたという。
「洪水になるほどの雨量ではありません」
アガーテは地図の横に置かれた観測記録を読んだ。過去十年の平均より多いが、堤防が決壊した年には及ばない。まだ警備隊を動かす段階ではないと判断した。
「上流の山では、昨日から雪が降っております」
ネリーが別の報告書を差し出した。
「雪なら、川の水量は増えません」
「今朝から気温が上がり、雪解け水が流れ込んでいるそうです」
「その情報は、誰からですか」
「川沿いの水車小屋です。水車が通常より速く動き、軸が一本折れました」
「水車の故障と洪水を一緒に考えるのは、早すぎます」
「アガーテ様」
ヘルミーネに呼ばれ、アガーテは口を止めた。まず、相手の話を受け取らなければならない。
「水車小屋では、川の流れが速くなったと見ているのですね」
「はい」
「私は、これだけでは避難が必要か判断できません。橋の管理人と、上流の村へ確認してください」
ネリーは頷き、伝令室へ向かった。アガーテは地図を見ながら、鞄の中の亀裂が入った栗を握った。自分の判断では、まだ大事にはならない。それでも以前とは違い、その判断だけで待機を命じることはできなかった。
一時間後、橋の管理人から連絡が届いた。北の石橋では、水面までの高さが昨日より腕一本分縮まっている。さらに上流の村では、川沿いの道へ水が入り始めていた。
「警備隊へ連絡します」
ヨアヒムが立ち上がった。
「お待ちください。まだ石橋は通行できます」
アガーテは止めた。早すぎる避難は、農家の仕事を中断させ、家畜の移動にも負担をかける。空振りに終われば、次回の避難指示を信じてもらえなくなる可能性もあった。
「アガーテ様。危険が確定するまで待つのですか」
ネリーの前歯が、羽根ペンの軸へ触れた。かり、という音が一度する。アガーテはその音に反応し、口調を強めた。
「だから、あなたは経験が浅いのです。恐れて早く動けばよいというものではありません」
ネリーの肩が動いた。羽根ペンを机へ置き、報告書を両手で押さえる。ヘルミーネは何も言わず、アガーテを見ていた。
「今の言い方は、撤回します」
アガーテは栗を強く握った。亀裂が広がり、中で硬い実が動いた。
「あなたは、早く避難させるべきだと考えたのですね。理由を聞かせてください」
「前回、上流の道へ水が入った三時間後に、木橋が流されています。今回は雪解け水もあります。避難開始まで一時間、家畜を高台へ移すには、さらに二時間必要です」
「その記録を持っていますか」
「こちらです」
ネリーは昨年の水害記録を差し出した。アガーテが計画を作った際、村長から受け取った資料だった。自分も読んだはずだが、木橋が流された時刻と、家畜の移動時間を結びつけていなかった。
「分かりました。警備隊へ連絡してください。ただし、避難命令ではなく、村長の判断で避難を始められる警戒段階とします」
「はい」
「ネリー」
「何でしょうか」
「知らせてくれて、ありがとうございます」
ネリーは返事の代わりに、羽根ペンを前歯から離した。噛み跡のついた軸を布で拭き、伝令書を書き始める。アガーテは、その隣で各地へ渡してある判断権限を確認した。
正午を過ぎるころ、雨脚が強くなった。窓硝子へ水が当たり、庭の山茶花は花ごと枝を揺らしている。厨房から届いた昼食は、蕪と豆のスープ、黒パン、燻製肉だった。
誰も食堂へ行けず、地図を広げた机の端で食べた。アガーテのスープは、報告書を三枚読む間に冷えた。表面には薄い脂が浮き、匙を入れると細かく割れた。
「温め直させよう」
ヨアヒムが言った。
「必要ありません」
「冷たいだろう」
「食べられます」
「そうか。君は冷えたスープでも構わないのだな」
「構わないわけではありません。時間を優先しています」
「否定から入りましたね」
ネリーが黒パンを燻製肉の汁へ浸しながら言った。
「これは事実の訂正です」
「まず、殿下が気遣ってくださったことを受け取るのではありませんか」
「そうでした。殿下、温め直そうとしてくださったのですね。ありがとうございます。ですが、このままいただきます」
「ずいぶん長い昼食になるな」
ヨアヒムは笑い、アガーテの椀へ自分の黒パンを半分入れた。浸せば温度が下がったことを気にせず食べられるという。黒パンはすぐに汁を吸い、匙で持ち上げる前に崩れた。
「余計に食べにくくなりました」
「そうか。よい方法だと思ったのだが」
「殿下には、よい方法に思えたのですね」
「それは肯定ではなく、嫌味ではないか?」
「違いが、まだ分かりません」
三人が冷えたスープを食べ終える前に、伝令が駆け込んできた。北の木橋が流され、石橋も大型馬車の通行が難しくなったという。西岸の村へ向かう予定だった食料馬車が、川の手前で止まっていた。
アガーテは地図へ手を伸ばした。迂回路を指示しようとして、指を止める。以前の計画では、橋が使えない場合の判断を荷馬車組合へ渡していた。
「御者たちは、どうすると言っていますか」
「南の丘を越える道へ向かいたいとのことです。ただし、泥が深く、馬車二台を置いて荷を分ける必要があります」
「食料が減ります」
「干し豆を優先し、毛布は修道院の備蓄を借りたいそうです」
アガーテは、毛布の保管数を頭の中で確認した。修道院には予定より少ないものの、村人へ配る分はある。自分なら食料と毛布の両方を運ぶ方法を探すが、その間にも水位は上がる。
「御者の案を採用してください。修道院には、村長から借用を依頼してもらいます」
「王宮から命じなくてよいのですか」
「現地で決められるよう、権限を渡してあります」
伝令は一礼し、濡れた外套の裾から水を垂らしながら出ていった。床には泥の足跡が残った。マルタが布と桶を持って現れたが、報告書を抱えて走る者たちを見て、拭くのを後にすると壁際へ寄った。
午後、王宮と上流の伝令が一時途絶えた。川沿いの道が使えず、伝令馬も戻ってこない。アガーテは地図の前に立ち、空白の地域を何度も指でなぞった。
「こちらから騎士を送ります」
「道が危険です」
エーミルが止めた。紺色の上着の肘には、娘が縫った白い星が残っている。今日は飛び出していた糸がなく、少し形が小さくなっていた。
「状況が分からないまま待つのですか」
「現地には、村長と警備隊員がいます。避難所を開く権限も、備蓄を使う権限も渡しました」
「それでも、誤った判断をするかもしれません」
「はい」
「取り返しがつかなかったら、どうするのです」
「その責任を負うために、権限を渡した記録を残しました。現地の者だけを責めることはできません」
アガーテは口を開いたが、反論が出なかった。失敗させるために任せるのではない。判断に必要なものを渡し、失敗したときには責任を一人へ押しつけない。それが今まで自分にできなかったことだった。
「エーミル文官長は、待つべきだと考えているのですね」
「はい。今、騎士を送れば、その騎士を救助する者まで必要になります」
「分かりました。日暮れまで待ちます」
アガーテは地図の前から離れた。腰の鞄から人形の服を出し、長い右袖へ触れる。母とほどいた糸の跡が、小さな穴になって残っていた。
日が落ちる前、北の丘を越えて伝令が到着した。西岸の村では、村長が独自に避難を開始し、修道院が備蓄庫を開けていた。荷馬車組合は馬車を軽くして食料を運び、警備隊は家畜を高台へ移している。
王宮から新たな命令は一つも届かなかった。それでも、誰も命令を待って立ち尽くしてはいなかった。各自が事前に決めた範囲で判断し、足りないところを近くの者へ尋ねていた。
「私たちは、何もしておりません」
アガーテは地図に並んだ報告札を見た。赤は避難所、青は食料庫、黄色は通行可能な道を示している。札を置いたのはネリーで、報告を分類したのはエーミルだった。
「何もしていないわけではない」
ヨアヒムが答えた。胴着は正しい向きになっているが、朝から跳ねた髪はそのままだった。
「君は、村長たちへ事前に相談した。反対意見を受けて経路を増やし、現地へ判断権を渡した。それが今日、役に立った」
「ですが、私が直接助けた者は一人もいません」
「君が全員を動かしたのではない。全員が自分で動けるようにした。それでよいのではないか」
アガーテはすぐに答えなかった。地図の端には、最初に自分が作った輸送経路が薄く残っている。その三本はいずれも、今日の増水で使えなくなっていた。
「はい。それでよかったのだと思います」
窓の外では、雨が弱くなっていた。マルタが床の泥を拭き、濡れた布を桶の縁へ掛けている。山茶花の花弁が一枚、誰かの靴について室内まで運ばれ、地図台の下へ落ちていた。
夜になり、避難した村人へ温かい豆の煮込みが配られたという報告が届いた。塩は少なかったが、修道院が干していた香草を加えたため、子どもたちも食べたという。家畜も数頭が足を傷めたものの、高台へ移されていた。
「村長から、アガーテ様へ伝言があります」
伝令が濡れた紙を差し出した。泥のついた指で書かれ、文字はところどころ滲んでいる。
「何と?」
「王宮から余計な命令が来なかったので、助かったそうです」
室内で何人かが笑った。アガーテは最初、自分の働きを否定されたように感じた。だが紙を受け取り、滲んだ文字をもう一度読んだ。
「余計な命令が来なくて、助かったのですね」
今度は言い直さなかった。伝令は頷き、暖炉の前で外套を脱いだ。裏地から小さな木の葉と、潰れた赤い実が落ちた。
アガーテは、黄色い相談用紙の最後の欄へ書き込んだ。
――現地の判断を否定せず、結果を待った。
その下へ、少し迷ってから一文を加えた。
――待つことは、何もしないことではなかった。
書き終えると、鞄の中の栗を取り出した。亀裂から殻が割れ、中の実が二つに分かれている。食べられる状態ではなかったが、アガーテは捨てず、人形の服と一緒に黄色い紙で包んだ。




