第7話 女の子はお母さんと仲良くできると幸せになれるんだって
第7話 女の子はお母さんと仲良くできると幸せになれるんだって
河川氾濫への備蓄計画を任された日の夜、アガーテは半年ぶりに侯爵邸の裁縫室へ入った。母から冬用の外套を選ぶよう呼ばれたためだが、長椅子には三着どころか八着も並べられている。青灰色、葡萄色、深緑色と色は違っていても、裾の長さも襟の形も、アガーテが普段着ているものとほとんど同じだった。
窓辺には、母が庭から切ってきた白い山茶花が飾られていた。花瓶の横には半分だけ皮をむいた梨があり、果肉が薄茶色に変わっている。香油と乾いた布の匂いの中へ、暖炉で焼いている胡桃の香りが混じっていた。
「深緑がよいと思うわ。去年の青い外套は、お顔が白く見えすぎましたもの」
母のリヒルデは、アガーテの返事を待たず、深緑色の外套を肩へ掛けた。金茶色のドレスの袖には、真珠の釦が十二個並んでいる。髪には薔薇の香油を使っているらしく、身を寄せられると甘い香りが強くなった。
「私は、青灰色を見たいのですが」
「青灰色は地味すぎます。王太子殿下の隣へ立つのですから、少し華やかな色になさい」
「まだ婚約は保留中です」
「だからこそよ。弱って見えたら、別の令嬢が入り込むでしょう」
「服の色で婚約の行方は決まりません」
「決まらなくても、深緑になさい。あなたは昔から、色を選ぶのが下手だったもの」
リヒルデは留め金まで自分で掛け、裾を左右へ引いた。アガーテは腕を下ろしたまま鏡を見た。深緑は嫌いではないが、選んだ覚えもない服を褒める言葉が見つからなかった。
「殿下とは、きちんとお話しできているの?」
「研修中ですので、毎日お会いしております」
「仲直りしたの?」
「喧嘩をしたわけではありません」
「婚約を保留されたのでしょう。殿下にもっと頼って、かわいらしく振る舞えばよかったのよ。女の子は、お母さんと仲良くできると幸せになれるんだって。私の言うことを聞いていれば、大丈夫よ」
アガーテは外套の留め金へ指をかけた。幼いころから何度も聞かされた言葉だった。髪を結うときも、家庭教師を選ぶときも、夜会用の靴を決めるときも、母は同じことを言った。
「それは、誰がおっしゃったのですか」
「何が?」
「女の子は母親と仲良くできれば、幸せになれるという話です」
「さあ。私の母だったかしら。昔から言うでしょう」
「私は初めて、誰が言ったのか尋ねました」
「そんなことを気にして、どうするの」
リヒルデは外套を脱がせ、今度は葡萄色を持ち上げた。選ばなかった服は侍女へ渡され、長椅子の端へ重ねられていく。アガーテは腕を通さず、室内を見渡した。
壁際の棚に、小さな籐の裁縫箱があった。蓋には、子どもの字で「アガーテ」と書かれた布札が縫いつけられている。赤い糸が途中で足りなくなったのか、最後の文字だけ茶色だった。
「その裁縫箱が、まだあったのですね」
「捨てるほど傷んでいませんもの。あなたは裁縫をすぐにやめてしまったけれど」
アガーテは箱を膝へ載せた。中には色褪せた糸巻き、錆びた指ぬき、先端の曲がった針が入っている。その下から、掌ほどの人形用の服が出てきた。
薄桃色の服は、右の袖だけが少し長かった。襟には小さな白い花が刺繍され、縫い目は後半だけ細かく均一になっている。前半の歪んだ縫い目は幼いアガーテが作り、後半は母が仕上げたものだった。
「これを覚えていますか」
「もちろん。あなたが袖を左右違う長さに縫ったのよ。泣いて針を放り出したから、私が完成させたの」
「私は、泣いておりません」
「泣いたわよ」
「袖をほどいて縫い直したいと言いました。お母様が、時間の無駄だからと針を取り上げたのです」
「そんな昔のこと、よく覚えているわね」
「そのあと、私は裁縫をやめました」
「不器用だったからでしょう。不得意なことを無理に続けなくてもよいのよ」
「私が不得意だと、いつ決まったのですか」
アガーテの声が強くなり、暖炉で胡桃が一つ弾けた。侍女が火掻き棒を取り、網の端へ転がった胡桃を戻す。焦げた殻から細い煙が上がった。
「何を怒っているの。私はあなたが困らないよう、手伝っただけでしょう」
「なぜ、一緒にほどいてくださらなかったのですか」
「私が縫ったほうが早かったからよ」
母の答えは、アガーテが何度も口にしてきた言葉と同じだった。説明するより自分で行ったほうが早い。間違いを直させるより、正しいものを渡したほうが確実だ。
アガーテは人形の服を裏返した。自分が縫った部分は糸が何度も絡み、母の部分には乱れがない。どちらが優れているかは、子どもが見ても分かった。
「お母様は、何でも途中で取り上げました。髪を自分で結びたいと言っても、遅いからと櫛を取った。台所で卵を割れば、殻が入るからと追い出した。計算を間違えれば、私の紙へ正しい答えを書いた」
「あなたのためでしょう」
「それなのに、一人でできるようになれと言いました」
「いつまでも子どもでは困りますもの」
「私は、いつ練習すればよかったのですか」
リヒルデの手から、葡萄色の外套が長椅子へ落ちた。真珠の留め金が木へ当たり、軽い音を立てる。侍女たちは顔を見合わせ、焼けた胡桃の皿を持って隣室へ移った。
「あなたは、立派に育ったでしょう。王宮で誰よりも仕事ができると聞いているわ」
「誰にも任せず、全部自分でする人間になりました」
「それの何がいけないの」
「私と働けば、みんな辞めるそうです」
母は何も言わなかった。窓辺の梨から、甘い汁が皿へ流れている。白い山茶花の花弁が一枚落ち、変色した果肉へ貼りついた。
「殿下が、そう言ったの?」
「王太子府の職員三十四人へ調査した結果です。母親の言うことを聞いて育った娘は、幸せになるはずではなかったのですか」
「私のせいにするの?」
「今のは、言い過ぎました」
アガーテはすぐに言い直した。母から針を取り上げられたことと、部下の仕事を奪ったことは同じではない。大人になったあとも続けたのは、自分の判断だった。
「お母様だけの責任ではありません。けれど私は、全部やってあげるか、できないなら勝手にしなさいと言うか、その二つしか知りませんでした」
「私だって、母親から何も教わっていないわ」
リヒルデは長椅子へ座った。金茶色のドレスの裾が外套へ重なり、真珠の釦が一つ、糸だけでぶら下がっている。先ほどまで気づかなかったのか、指で何度も触った。
「あなたが泣くと、どうすればよいか分からなかったのよ。手を出せば泣きやむ。けれど大きくなっても私を頼ると、今度は腹が立った。母親なのに、そんなことも教えられなかったの」
「私は泣いていないと、何度も言いました」
「泣いていたわ」
「目に糸屑が入ったのです」
「あなた、五歳のころから言い訳だけは立派だったのね」
二人は人形の服を見た。右の袖が左より指一本分長い。リヒルデが仕上げた襟の白い花も、一輪だけ上下が逆になっていた。
「お母様も、間違えております」
「どこが?」
「この花です。茎が上を向いています」
「そういう種類の花よ」
「そのような花はありません」
「昔の刺繍なのだから、今さらよいでしょう」
リヒルデは裁縫箱から糸切り鋏を出した。刃に錆があり、二度動かしても開かなかった。アガーテが油を差すよう侍女へ頼もうとすると、母が鋏を横へ置いた。
「今日はもう遅いわ。使用人にほどかせましょう」
「いいえ。私が縫ったところは、私がほどきます」
「では、私は何をすればよいの?」
「お母様が縫ったところを、ほどいてください」
「全部ほどくの?」
「左右の袖が同じ長さになるところまでです」
「面倒ね」
「はい」
「あなたは明日も仕事でしょう」
「一晩で完成させる必要はありません」
アガーテは人形の服と錆びた鋏を裁縫箱へ戻した。母は深緑色の外套を指でつまみ、これだけは持ち帰るようにと言った。アガーテは断ろうとしたが、青灰色の外套も一緒に借りることを条件に受け取った。
翌朝、アガーテは青灰色の外套を着て王宮へ向かった。裁縫箱は馬車の座席へ置き、膝の上には河川氾濫への備蓄計画書を載せている。鞄には亀裂の入った栗と、相談先を記す黄色い紙が入っていた。
川沿いの三つの村へ食料、毛布、薬を届けるため、アガーテは前夜までに計画を作っていた。必要量、保管場所、輸送経路、担当者まで記した計画書は、五十頁に及ぶ。以前の彼女なら、そのままヨアヒムの署名を得て実行へ移していただろう。
今回は、村長、荷馬車組合、修道院、橋の管理人を王宮へ招いた。相談した相手の名と反対意見を、黄色い紙へ書くためだった。アガーテは、自分の案に多少の修正は入っても、基本はそのまま採用されると考えていた。
「まず、東の街道を使い、荷馬車十二台で備蓄品を運びます」
会議室の長机には、川と村を描いた大きな地図が広げられていた。窓辺には赤い山茶花が一輪あり、花瓶の水へ葉が二枚落ちている。村長たちは厚い毛織りの上着を脱がず、湯気の立つ生姜茶を両手で持っていた。
「東の街道は、冬には使えませんよ」
一人目の村長が言った。
「道幅は十分あります」
「幅ではなく、坂です。雪が降れば馬車が上れません」
「昨年の記録では通行できています」
「昨年は雪が少なかった。三年前には二台、谷へ落ちました」
アガーテは黄色い紙へ「積雪時、東街道使用不可」と書いた。まだ一つ目の修正である。別の道へ変えれば済むと考えた。
「では、南の橋を渡ります」
「その橋は、大型の荷馬車が通れません」
橋の管理人が答えた。
「幅は足りています」
「橋の幅は足りても、たもとの曲がり角を通れません。小型馬車なら行けます」
「小型馬車を増やします」
「馬が足りません」
荷馬車組合の長が口を挟んだ。口髭の片側だけが生姜茶で濡れている。本人は気づかず、地図の上へ身を乗り出した。
「王都から借りればよいでしょう」
「冬の王都では、薪運びにも馬を使います。すぐには貸してもらえません」
「では、近隣の農家から――」
「農家は冬支度に馬を使います」
「何もできないという話を聞くために、集まっていただいたのではありません」
アガーテは声を強くした。村長たちが黙り、修道院から来た年配の女性が生姜茶を一口飲んだ。茶の中に入っていた薄切りの林檎が、鼻先へ張りつきそうになっている。
「アガーテ様。できない理由を聞かなければ、できる方法も探せません」
ネリーが隣から言った。若草色の制服の上へ、毛糸の茶色い胴着を重ねている。三輪の糸菊のうち、目玉焼きに見える花だけが襟の下へ隠れていた。
「では、コルベル文官に進行をお任せします。皆さんでお決めください」
アガーテは計画書を閉じた。母へ向けた言葉が、今度は自分の口から出た。私が決めた案を受け入れないなら、あとは勝手にすればよい。その考えが胸元まで来て、裁縫箱の人形服を思い出した。
「全部取り上げるか、全部置いていくか、その二つしかないのですか」
ネリーが言った。会議室の全員が、アガーテを見ていた。鞄の中で亀裂の入った栗を握ろうとしたが、今日は手が届かなかった。
「では、私はどこまで手伝えばよいのですか」
「それを決めるために、相談するのではありませんか」
アガーテは計画書をもう一度開いた。東の街道を使う案には線を引かず、横に「少雪時のみ」と書いた。南の橋については、小型馬車を村ごとに何台用意できるか確認することにした。
話し合いを続けると、修道院の倉庫は前年の雨漏りで半分しか使えないことが分かった。毛布を運ぶ予定だった馬車は、冬には炭の輸送へ使われる。川沿いの村には干した豆が多く残っているが、塩が不足していた。
アガーテの計画書は、頁をめくるたびに書き込みで埋まった。輸送経路は三本から五本になり、保管場所も変更された。食料の内容まで変わり、最初の案で残ったのは、必要な毛布の総数くらいだった。
「これでは、私が作った計画とは言えません」
会議のあと、アガーテは黄色い紙を見ながら言った。相談相手の欄には八人の名があり、反対意見は裏面まで続いている。変更した箇所は、数えることを途中で諦めた。
「はい。でも、実際に使える計画になりました」
ネリーは完成した計画書の表紙へ、会議に参加した者全員の名を書いた。自分の名を一番下へ書き、羽根ペンをアガーテへ渡す。軸には新しい噛み跡が一つ増えていた。
「アガーテ様のお名前は、どこへ書きますか」
「最初に書くものではないのですか」
「相談した順なら、最後です」
「では、最後へ書きます」
アガーテはネリーの下へ署名した。余白が狭く、いつもの大きな署名は入らない。少し小さく書くと、最後の一文字がネリーの糸菊に似た形になった。
侯爵邸へ戻ると、裁縫室の机に人形服が置かれていた。母が先に、襟の白い花を一つほどいている。茎が上を向いていた花だった。
「袖ではなく、そこからほどいたのですか」
「間違いを見つけられたままなのが、気になったのよ」
「相談せずに始めましたね」
「あなたも、子どものころは相談せずに布を切ったわ」
「お母様に似たのでしょう」
リヒルデは口をへの字にしたが、席を立たなかった。アガーテは深緑の外套を脱ぎ、青灰色の外套を椅子へ掛ける。どちらを着ていくか決められず、朝は途中で着替えたのだ。
「女の子は、母親と仲良くできれば幸せになれるのではなかったのですか」
「今日も、その話をするの?」
「仲良くするとは、言うことを聞くことですか」
「昔は、そう思っていたかもしれないわ」
「今は?」
「一緒に袖をほどけるくらいで、よいのではない?」
母は錆びた鋏ではなく、新しい糸切りを二本用意していた。片方をアガーテへ差し出し、自分は長すぎる右袖を持つ。二人で同じ糸を切ろうとして、指先がぶつかった。
「お母様は、反対側から始めてください」
「また私へ命令するのね」
「では、どちら側から始めたいですか」
「右袖よ。長いほうが気になるもの」
「私もです」
「それなら、あなたは左から始めなさい」
「なぜですか」
「二人で同じ袖に集まったら、また指がぶつかるでしょう」
アガーテは左袖を手に取った。こちらは短いため、本当はほどく必要がないかもしれない。けれど裏側を見ると、幼い自分が絡ませた糸が、今も小さな塊になって残っていた。
全部を直すかどうかは、まだ決めなかった。母も途中で使用人へ渡すかもしれないし、アガーテも仕事が忙しくなれば、裁縫箱を閉じるかもしれない。それでも二人は、その夜、左右の袖から三針ずつ糸をほどいた。
帰り際、アガーテは人形服を裁縫箱へ戻さず、自分の鞄へ入れた。赤い毛糸の布袋と黄色い相談用紙の間へ挟むと、長い右袖だけが鞄の口から少しはみ出した。




