第2話 誰にも頼らず働いてきたことが、私の罪なのですか
第2話 誰にも頼らず働いてきたことが、私の罪なのですか
翌朝、アガーテはいつもより一時間早く王宮へ着いた。夜明け前まで匿名調査を読み返していたため、目の下には薄い影ができていたが、白粉を重ね、濃い灰色の仕事着に青い帯を締めて隠した。机の引き出しには、昨夜折れた林檎の兎の耳が、薄紙に包んでしまってあった。
雨は上がっていた。中庭の石畳には水溜まりが残り、花壇では赤紫の孔雀草が細い茎を曲げている。庭師が箒で落ち葉を集めていたが、一枚掃くたびに風が二枚運んできた。
「今日は風の勝ちでございますな」
庭師が箒を立てて言った。アガーテは一度通り過ぎたものの、昨夜のヨアヒムの言葉を思い出して足を止めた。仕事に関係のない話へ、どう返せばよいのか分からなかった。
「増員を申請してはいかがですか」
「落ち葉掃きにですか」
「一人で終わらないのでしょう」
「夕方には風も飽きますよ。人より飽きっぽいのが、風のよいところです」
庭師は笑い、濡れた落ち葉を箒で押した。アガーテは何がおかしいのか考えながら、王太子府へ向かった。執務室の扉へ近づくと、内側から若い文官たちの声が聞こえた。
「昨日もネリーの書類を全部書き直したんだって?」
「そう。質問したら、勉強が足りないと言われたらしいよ」
「またか。ほんと、めんへらーほいほいだな」
「やめなよ、聞かれたらどうするの」
「誰のことか言ってないだろ。困っている人を見つけると、仕事ごと拾っていく人のことだよ」
アガーテは扉の前で首をかしげた。「めんへらーほいほい」という言葉には聞き覚えがなかった。下町で流行している菓子か、酒場の遊びだろうと考え、扉を開けた。
「おはようございます。めんへらーほいほいについて、あとで資料を提出してください」
話していた二人の文官が、同時に椅子から立ち上がった。一人はインク壺を袖で倒し、もう一人は飲みかけの山羊乳を咳と一緒に噴き出した。机の上に置かれていた干し葡萄入りの丸パンへ、黒いインクと白い乳が左右から迫った。
「ア、アガーテ様、おはようございます」
「おはようございます。新しい業務用語なら、意味を確認する必要があります」
「業務用語ではありません」
「では、菓子ですか」
「菓子でもございません」
「酒場の余興?」
二人は顔を見合わせた。片方が濡れたパンを布巾で包み、引き出しへ押し込む。乳とインクの混じった匂いが漂い、アガーテは鼻先を少し動かした。
「地方の言い回しです。大した意味はありません」
「そうですか。では、報告は不要です」
アガーテが自分の机へ向かうと、二人は大きく息を吐いた。背後で「気づいてない」「それが一番怖い」と小声がしたが、彼女は昨夜の件を話しているのだと思った。婚約保留がすでに職員へ知られたのなら、午前中に情報の出所を調べなければならない。
ところが、机の上には一枚の書類もなかった。いつもなら朝だけで十数件の決裁書が積まれている。磨かれた天板の中央には、昨夜食べなかった林檎の皿だけが置かれていた。
「本日の書類はどこですか」
北倉庫の在庫表を持ってきたエーミルが、アガーテの問いに立ち止まった。焦げ茶色の上着の釦は、白い糸ではなく黒い糸で縫い直されている。娘ではなく妻がやり直したのだろう。
「ヨアヒム殿下の指示です。アガーテ様には通常業務から離れていただきます」
「私に何もさせないおつもりですか」
「午前十時から、組織監察官との面談があります。それまでに私物をまとめてください」
「私物などありません」
「引き出しに紅茶の缶があるでしょう。薔薇の絵が描かれたものです」
「あれは来客用です」
「三年前、アガーテ様のお誕生日に私たちから差し上げたものです」
アガーテは引き出しを開けた。薔薇模様の紅茶缶、予備の手袋、乾いて硬くなった砂糖菓子、母から届いたまま封を切っていない観劇案内が入っていた。一番奥には、薄紙に包んだ林檎の耳がある。
「どうして、これを私物だとおっしゃるのですか。職場で使うものばかりです」
「観劇案内もですか」
「封筒の裏を計算用紙に使えます」
「その発想はなかったな」
エーミルは椅子を引き、アガーテと向かい合って座った。彼の手には北倉庫の在庫表があるが、差し出そうとはしない。アガーテはそれが気になり、話の途中で三度も紙の角へ視線を向けた。
「匿名調査の内容をご覧になりましたね」
「見ました。皆さんは、ずいぶんと私を恨んでいるようです」
「恨んでいるとは書かれていません」
「異動や退職を望むのは、同じことでしょう」
「アガーテ様は、昨夜もネリーの予算表を書き直しましたね。間違いを説明しましたか」
「説明するより、私が行ったほうが早かったのです。提出期限も迫っていました」
「期限は三日後です」
「国王府への提出は三日後ですが、内部確認に二日必要です」
「内部確認をするのは、アガーテ様お一人でしょう」
エーミルは在庫表を膝へ置いた。北倉庫の表紙には小麦粉を触ったような白い跡がついている。昨夜、自宅へ持ち帰り、朝食のパンを食べながら確認したらしい。
「私は、誰よりも早く出勤しています。皆さんが帰ったあとも、毎晩ここで働いています。間違った書類を直し、遅れた仕事を引き受け、殿下のご負担まで減らしてきました。それがいけないことだというのですか」
「いけないとは申しません」
「ならば、なぜ私だけが仕事を取り上げられるのです。遅い人や間違える人ではなく、終わらせてきた私が罰を受けるのは、おかしいでしょう」
声が執務室の奥まで届き、文官たちの羽根ペンが止まった。アガーテは視線を集めていると気づいたが、口を閉じられなかった。十年間、一度も遅刻せず、病気の日も薬を飲んで出勤した記憶が、冷たい林檎の皿と一緒に胸元へせり上がっていた。
「皆さんがご自分の仕事を正しくなされば、私が手を出す必要もなかったのです」
言葉が落ちると、ネリーが持っていた紙を床へ落とした。拾おうとかがんだ拍子に、耳へ差していた羽根ペンも転がった。噛み跡のついた軸が、アガーテの靴先まで滑ってくる。
アガーテはそれを拾った。返そうとしたが、ネリーは両手に書類を抱え、目を合わせない。昨日と同じ若草色の制服を着ており、七枚しかない糸菊もそのままだった。
「コルベル文官。ペンを落としました」
「ありがとうございます」
「予算表の件ですが――」
「文官長、郵便室へ行ってまいります」
ネリーはペンを受け取ると、エーミルの返事を待たずに出ていった。アガーテの手には、木を噛んだときについた細かな欠片が残っていた。
午前十時、アガーテはヨアヒムと共に南棟の小会議室へ入った。窓辺には黄色い菊の鉢が三つ並び、中央の一鉢だけ花が壁側を向いている。円卓には胡桃入りの焼き菓子と、湯気の立つ薄荷茶が用意されていた。
「菊の鉢を、窓のほうへ向けたのは誰ですか」
先に来ていた女性が、壁を向いた花を見ながら尋ねた。黒に近い紫色のドレスを着て、銀髪を首の後ろで束ねている。書類鞄には、何度も縫い直した跡があった。
「日当たりを均等にするためではありませんか」
アガーテが答えると、女性は鉢を半分だけ動かした。
「花は太陽のほうを向きます。人間は、誰のほうを向けばいいのでしょうね。私はヘルミーネ・ヴァイス。今日から、お二人の研修を担当します」
「お二人?」
「私も受ける」
ヨアヒムはアガーテの隣へ座った。今日は王太子の正装ではなく、灰青色の簡素な上着を着ている。袖口には朝食の卵の黄身らしき染みがあり、本人は気づいていなかった。
「なぜ殿下まで受けるのですか」
「君へ仕事を集中させた責任がある。君が夜中まで働いていると知りながら、よくやってくれていると褒めて終わらせた」
「私が望んで引き受けました」
「だから止めなくてよかったことにはならない」
「殿下まで私を無理に働かせたようにおっしゃれば、かえって私が惨めになります」
「そうではない。二人で間違えたなら、二人で学び直したい」
ヨアヒムが薄荷茶を飲み、顔をしかめた。砂糖と間違えて塩を入れたらしい。アガーテが新しい茶を頼もうとすると、彼は首を振り、胡桃の焼き菓子を一口かじった。
「甘いものと一緒なら、飲めないこともない」
「作り直してもらえばよいでしょう」
「厨房へ戻せば、見習いが叱られるかもしれない」
「塩と砂糖を間違えたのなら、叱られる必要があります」
「君は本当に容赦がないな」
「間違いを見逃すほうが、本人のためになりません」
ヘルミーネは二人の会話を聞きながら、鞄から二枚の白い紙を取り出した。紙には題名も罫線もなく、中央に小さな黒い点が一つある。製紙の途中で木屑が混じったらしい。
「最初の課題です。ご自分が分からないことを三つ書いて、明日の朝、私へ提出してください」
「何についてでしょうか」
「何でも結構です」
「範囲を指定していただかなければ、課題として成立しません」
「では、仕事でも生活でも、人についてでも結構です」
「三つだけですか」
「三つも書ければ十分でしょう」
アガーテは白い紙を持ち上げた。こんな課題なら、十分で終わると思った。しかし筆記台へ移って羽根ペンを持つと、最初の一行が書けなかった。
法律で不明な点があれば、法務官へ確認する前に法典を読む。予算について迷えば、過去十年の帳簿を調べる。外国の習慣が分からなければ、外交資料を読み、過去の使節へ聞き取りをする。調べれば分かることを「分からない」と書くのは、仕事を放棄するように思えた。
その日の夕方、アガーテは侯爵邸へ紙を持ち帰った。食卓には蕪のスープ、鱒の香草焼き、胡桃を入れた黒パンが並んだ。母が庭で摘んだ孔雀草を小瓶へ挿していたが、アガーテは紙を汚さないよう、花瓶を遠ざけた。
「その白い紙は何なの?」
母が鱒の小骨を皿の端へ並べながら尋ねた。小骨は六本あり、長さも向きもばらばらだった。アガーテは揃えたくなったが、自分の皿へ視線を戻した。
「研修の課題です。分からないことを三つ書くように言われました」
「まあ。それなら、私は昨日から探している灰色の靴下がどこにあるか分からないわ」
「洗濯係へお尋ねください」
「聞いたけれど、片方しかないの。靴下は片方だけで、どこへ行くのかしらね」
「そのようなことを書けば、監察官に呆れられます」
「では、あなたは何が分からないの?」
「それが分からないのです」
母は黒パンをちぎり、蕪のスープへ浸した。しばらくして、喉の奥で小さく笑う。アガーテが理由を尋ねても、「何でもないわ」としか答えなかった。
深夜になっても、白い紙には何も書けなかった。机の蝋燭を三度取り替え、法典と辞書を用意し、質問になりそうな事柄を探した。しかし、見つけるたびに自分で調べ、答えを書ける状態にしてしまった。
翌朝、アガーテは白紙を提出した。ヨアヒムの紙には、「アガーテがいつ眠っているのか」「文官長が自分へ直接相談しなくなった理由」「塩入りの薄荷茶を最後まで飲む必要があったのか」と書かれていた。
「最後の一つは課題を馬鹿にしていませんか」
「昨日から本当に分からない」
「塩を入れた時点で、飲む必要はありません」
「では、なぜ君は、冷えたパイを仕事机で食べたんだ?」
「食事を捨てるのは、作った者に失礼だからです」
「厨房で温めてもらえばよかった」
アガーテは返事をやめた。ヘルミーネはヨアヒムの紙を脇へ置き、アガーテの白紙を窓から入る朝日に透かした。中央の黒い点だけが、昨日より濃く見えた。
「本当に、何でも分かるのですか」
「分からない場合は、調べてから回答しております」
「それは、分からない時間を誰にも見せていないだけです」
「調べずに人へ尋ねるのは、怠慢ではありませんか」
「人に尋ねる前に何も考えないのは怠慢です。ですが、すべてを一人で調べ終えるまで口を閉ざすことは、相談ではありません」
「私は誰にも迷惑をかけないようにしてきました」
「本当に?」
ヘルミーネは鞄から、昨夜アガーテが書き直した予算表を取り出した。その下には、ネリーが作成した元の予算表もある。丸められていた紙には皺が残り、羽根ペンの軸を押しつけた丸い跡がいくつもついていた。
「あなたは、なぜ車輪が四台分しか書かれていないのか、ネリーに尋ねましたか」
「いいえ。六台必要だと分かっていたからです」
「二台は先月交換済みだそうです。ネリーは馬車係から報告を受けていました」
アガーテは自分の予算表を見た。六台分の車輪が、過不足のない美しい文字で記されている。そのうち二台分は必要がなく、彼女自身が予算を余計に計上していた。
「では、なぜ報告書を添付しなかったのです」
「ネリーは、説明しようとしたそうです。あなたが書類を取り上げたので、言えなかったと話しています」
「それでも、必要なことなら言うべきです」
「昨日、あなたは彼女に、何度謝れば仕事が終わるのかと言いましたね。叱られた直後に、さらにあなたの誤りを指摘できる人が、どれほどいるでしょう」
アガーテの指が、白紙の端を折った。真っすぐ折るつもりだったが、斜めに線がついた。直そうとして反対側へ折ると、白紙の中央に歪んだ三角形ができた。
「誰にも頼らず働いてきたことが、私の罪なのですか」
「罪の話はしていません」
「ならば、何の話です」
「あなたが、なぜ誰にも頼れなくなったのかという話です」
窓辺の黄色い菊は、昨日ヘルミーネが動かしたため、少しだけ室内のほうを向いていた。太陽へ向き直ろうとしているのか、細い茎が途中で曲がっている。アガーテはその一鉢を見たあと、自分の白紙へ目を戻した。
分からないことを書けと言われ、何も書けなかった。それなのに、自分が予算を間違えた理由も、ネリーが説明できなかった理由も、ヨアヒムが婚約を破棄せず保留にした理由も、きちんとは分かっていなかった。
アガーテは羽根ペンを取り、折り目のついた白紙へ一行だけ書いた。
――ネリーは、私に何を言おうとしていたのか。
書き終えると、インクの最後の一滴が落ち、文末に黒い染みができた。アガーテは新しい紙へ書き直そうとしたが、ヘルミーネがその紙を先に取り上げた。
「これは、このまま残しましょう」
「汚れています」
「ええ。あなたが、答えを知らないまま誰かへ見せた、最初の紙ですから」
ヘルミーネは折り目のついた紙を、青い紐で綴じた。アガーテは黒い染みが気になったが、取り返さなかった。鞄の中では、薄紙に包んだ林檎の兎の耳が、歩くたびに小さく音を立てていた。




