第1話 あなたと結婚すれば、みんな辞めます
第1話 あなたと結婚すれば、みんな辞めます
秋薔薇の香りが窓から入ってきたころ、王太子府の時計が八時を打った。執務室の長机には、青い紐で束ねられた決裁書が三列に積まれ、真鍮の燭台から垂れた蝋が白い皿の縁で固まっていた。アガーテ・ルーヴェンは葡萄色の仕事着の袖を肘までまくり、右手で署名をしながら、左手で次の書類を引き寄せた。
夕食の盆は、机の端に置かれたままだった。茸と鶏肉のパイはすっかり冷え、表面の脂が薄い膜になっている。料理番が添えた林檎には兎の形をした飾り切りが施されていたが、耳の片方が乾いて反り返っていた。
「アガーテ様、その書類はこちらで引き受けます。今日はもうお帰りください」
文官長のエーミル・バシュレが、焦げ茶色の上着を着直しながら声をかけた。彼の上着には、朝にはなかった白い糸屑が肩についている。出勤前、八歳の娘にほつれた釦を縫ってもらったものの、糸を切るところまでは任せられなかったらしい。
「残りは十二件です。説明する時間があれば、私が終わらせられます」
「しかし、明日の朝でも間に合うものが九件あります」
「今日できる仕事を明日へ残せば、明日の仕事にしわ寄せが来ます。バシュレ文官長は、北倉庫の在庫表を確認してください。三日前にお願いしたはずです」
エーミルは何か言いかけ、長机の上に置いた手を引いた。指には結婚指輪があり、その周りだけインクがついていない。彼は冷えたパイを見たあと、壁際で書類を抱えている若い文官へ目を向けた。
「ネリー、その予算表は提出したのか」
「はい。先ほどアガーテ様にお渡ししました」
ネリー・コルベルは、くすんだ若草色の制服を着ていた。襟元には小さな糸菊の刺繍があり、右側の一輪だけ花弁が七枚しかない。昨夜、寄宿舎で自分の制服に刺したものだが、途中で眠くなり、数を間違えたらしい。
アガーテは返事をせず、予算表へ目を落とした。宿舎の薪代、冬季手当、馬車の修繕費が項目ごとに記されている。二枚目まで読んだところで、彼女の羽根ペンが止まった。
「コルベル文官。ここへ来なさい」
「はい」
「六か所、誤りがあります。薪の値上がり分が反映されていません。馬車の車輪を四台分しか計上していませんし、暖炉掃除人への昼食代もありません」
「申し訳ございません。すぐに直します」
「結構です。私が直します」
ネリーが差し出した手を、アガーテは書類ごと避けた。若い文官に一つずつ説明すれば、同じ時間で三件の決裁ができる。明朝までに国王府へ提出する書類なのだから、教育に使ってよい仕事ではないと判断した。
「ですが、次は間違えないように、どこが違うのか教えていただけませんか」
「完成したものをあとで見れば分かるでしょう」
「前にも見比べたのですが、私の書き方とは全部違っていて……」
「分からないなら、もっと勉強なさい。王太子府は学校ではありません」
ネリーの前歯から、かり、と小さな音がした。緊張すると羽根ペンの軸を噛む癖があり、木の表面には細かな傷がいくつもついている。アガーテはその音が気に障り、とうとうペンを置いた。
「それもやめなさい。行儀が悪いわ」
「申し訳ありません」
「何度謝れば仕事が終わるのですか。あなたの謝罪を数えるために、給金を支払っているのではありません」
言い過ぎたと気づいたとき、ネリーは羽根ペンを背中へ隠していた。目元は濡れていなかったが、七枚しかない糸菊を左手で覆っている。エーミルが咳払いをし、窓辺へ歩いていった。
「今夜は冷えますね。庭師が、明け方には霜が降りるかもしれないと言っていました」
「そうですか」
「娘が鉢植えの金蓮花を外へ出したままなんです。帰ったら家中を起こすことになりそうですよ」
「文官長のお宅の鉢植えについて、今ここで話す必要がありますか」
「ありません。ただ、仕事に必要のない話をするために、人は家へ帰るのかもしれません」
アガーテは眉間へ指を当てた。仕事が残っているのに、花や娘の話をする理由が分からない。エーミルが北倉庫の在庫表を抱えて退室すると、ネリーも深く頭を下げ、その後ろについていった。
扉が閉じる直前、廊下から二人の声が聞こえた。エーミルは、寄宿舎にも金蓮花を置いたらどうかと話している。ネリーは、小さな鉢なら窓辺に置けるが、自分は水をやりすぎて枯らすかもしれないと答えていた。
アガーテは新しい紙を取り出し、予算表を書き直した。暖炉掃除人の昼食代を加え、車輪を六台分に変更し、薪の値上がりを冬季予備費へ反映する。十分もかからず、ネリーが半日かけた予算表より正確なものが完成した。
それでも、ペン先を洗う水へ黒い筋が広がるのを眺めていると、廊下から聞こえた「行ってきます」というネリーの声が、いつまでも耳に残った。ネリーは謝る以外にも、あんなに明るい声が出せるらしい。アガーテは冷えたパイを一口食べたが、厚い皮が上顎へ貼りつき、葡萄酒を二口飲んでも取れなかった。
十時を過ぎると、執務室に残っているのは彼女一人になった。雨が降り始め、窓硝子を細かな水滴が流れている。庭の秋薔薇は暗がりに沈み、花弁が一枚だけ窓枠へ貼りついていた。
アガーテは机の下から革張りの大きな帳面を取り出した。婚姻後に設置される王太子妃府の業務計画書である。職員の配置、予算、年間行事、文書の保管場所まで、三か月かけて作成した。
表紙には、金の糸で王家とルーヴェン侯爵家の紋章が刺繍されていた。刺繍をしたのはアガーテではなく、母が懇意にしている職人だった。母は見本を見て、「結婚の支度というより、役所の扉みたいね」と笑ったが、アガーテにはその言葉のどこがおかしいのか分からなかった。
十一時を告げる鐘が鳴る前に、廊下から靴音が近づいた。扉を開けたのは、ヨアヒム・クラウゼ王太子だった。濃紺の上着の肩には雨粒が残り、金色の髪も少し濡れている。
「まだいたのか」
「殿下もいらっしゃるではありませんか」
「私は君を捜していた。夕食を食べていないと厨房から聞いた」
「少し食べました」
「林檎の兎は?」
「机におります」
ヨアヒムは林檎を持ち上げ、反り返った片耳を眺めた。兎というより、角が一本生えた小動物に見える。彼は小刀で変色した部分を切り、自分で一切れ食べた。
「厨房のハンナが、両耳を同じ厚さに切れたと自慢していたぞ」
「乾いたのでしょう」
「そうか。帰りに、片耳だけ成功したと伝えておく」
「そのような報告は必要ありません」
「ハンナには必要かもしれない」
ヨアヒムは椅子へ座らず、しばらく雨の音を聞いていた。普段なら、アガーテの書類をめくり、仕事の進み具合を尋ねるところだった。今夜は机の角へ手を置いたまま、指先で二度、木目をなぞった。
アガーテは沈黙を、婚姻後の執務について話し合う機会だと受け取った。革張りの帳面を両手で持ち、ヨアヒムの前へ差し出す。重さで手首が沈んだが、胸元に縫いつけた銀色の釦まで真っすぐに見えるよう背筋を伸ばした。
「ちょうどよいところへいらっしゃいました。王太子妃府の業務計画書が完成しております。お目通しいただけますか」
「今夜は、その話をしに来た」
「修正箇所がございましたら、明朝までに対応いたします」
「修正の話ではない」
ヨアヒムは帳面を受け取らなかった。代わりに、上着の内側から薄い書類の束を取り出した。紐も飾りもない、灰色の紙だった。
アガーテは最初の一枚を読んだ。職場環境に関する匿名調査と記され、その下には王太子府の職員三十四人から集めた回答が並んでいた。彼女が王太子妃として同府を指揮する場合、異動を希望する者が二十一人、退職を検討する者が八人、現状のまま勤務すると答えた者が五人だった。
「これは、何かの間違いです」
「私も最初はそう思った。だから、監察官へ再調査を頼んだ」
「文官たちは仕事を減らしてほしいだけです。今日も私が、彼らの分まで十二件の決裁をいたしました」
「頼まれて引き受けたのか?」
「頼まれる前に終わらせました。遅れてからでは困ります」
「では、誰ができなかった仕事なのか、本人たちは知っているのか?」
アガーテは答えようとして、口を閉じた。机の上には、自分が書き直したネリーの予算表がある。元の予算表は丸めて屑籠へ入れたため、どこを直したか比べることはできない。
「婚約を、半年間保留にしたい」
雨粒が窓を強く叩いた。暖炉の薪が崩れ、赤い火の粉が鉄柵の内側へ散った。アガーテは書類を持ったまま立ち上がり、椅子の脚を床へ引っかけた。
「どなたですか」
「何の話だ」
「聖女ですか。それとも、先月の夜会で殿下と踊ったサリナ男爵令嬢ですか。彼女は二曲目にも殿下をお誘いしていました」
「サリナ嬢は、靴の留め金が壊れていた。大広間を横切るために腕を貸しただけだ」
「では、北方からいらした公爵令嬢ですか」
「なぜ、そこで別の女性が出てくる」
「婚約保留と言われれば、普通はそう考えます」
「普通の婚約者は、相手の夕食まで決裁書の下へ埋めない」
アガーテは革張りの帳面を机へ置いた。重い音がし、林檎の兎が皿の中で横倒しになった。片方の耳が折れ、白い果肉が蝋燭の光を受けて光った。
「では、理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「君と結婚すれば、王太子府から人がいなくなる」
「私が誰よりも働いているからですか」
「君が、誰にも働かせないからだ」
「そんな言い方はあんまりです。私は十年間、殿下のために――」
「分かっている。君が誰より早く来て、誰より遅く帰ることも知っている。だからこそ、このまま王太子妃にするわけにはいかない」
ヨアヒムは横倒しになった林檎の兎を起こした。折れた耳は元に戻らず、皿の上へ置くと体が片側へ傾いた。彼はその皿を、書類の下ではなく、アガーテの手が届く場所へ移した。
「半年後、もう一度話し合いたい。それまでに、君には人と一緒に働く方法を学んでほしい。私も、君一人へ任せてきた責任を調べ直す」
「私が一人で勝手に働いたとおっしゃるのですか」
「違う。私が君に甘え、君は周囲を待てなくなった。その結果が、この三十四人の回答だ」
ヨアヒムが退室したあとも、アガーテは椅子へ戻れなかった。雨音の向こうから、夜番の兵士たちが明日の朝食について話す声が聞こえる。一人は豆の煮込みがよいと言い、もう一人は焼いた腸詰めが出るはずだと反論していた。
机の上には、金糸で飾られた分厚い業務計画書と、何の飾りもない薄い匿名調査が並んでいた。アガーテは計画書へ手を伸ばしたが、指先は灰色の紙の上で止まった。二十一、八、五という数を三度確認しても、回答は変わらなかった。
屑籠から、ネリーの予算表が半分だけ見えていた。拾い上げて広げると、紙には羽根ペンの軸を押しつけた小さな丸い跡が残っている。アガーテが書き直した予算表には、そのような跡は一つもなかった。
彼女は二枚を並べ、初めて六か所の違いを記した紙を作ろうとした。しかし一行目を書いたところで、ネリーがなぜ車輪を四台分にしたのか、自分には分からないと気づいた。間違えた理由を、尋ねたことがなかった。
冷えた茸のパイから、固まった脂の匂いがした。アガーテは折れた耳を拾い、林檎の兎の頭へ載せてみた。耳はすぐに滑り、灰色の調査書の上へ落ちた。




