第3話 私の帳簿を読めないほうが悪いと思っていました
第3話 私の帳簿を読めないほうが悪いと思っていました
研修へ移って三日目の朝、アガーテは王太子府へ提出された処理件数の報告を読んだ。先週まで一日に百二十件前後だった決裁が、昨日は四十七件まで落ちている。窓辺の黄色い菊は朝日に顔を向け、ヘルミーネが水をやりすぎた鉢からは、茶色い水が受け皿へあふれていた。
アガーテは報告書をもう一度読み、唇の端をわずかに持ち上げた。自分が離れれば仕事が滞ることは、最初から分かっていた。ヨアヒムも文官たちも、これで彼女の働きを認めざるを得ない。
今日のアガーテは、濃い青色の毛織りのドレスを着ていた。袖口には銀糸で月桂樹が刺繍されており、母からは「仕事着にしては勇ましすぎる」と言われた。腰の鞄には、青い紐で綴じられた最初の課題と、薄紙に包んだ林檎の兎の耳が入っている。
「四十七件です」
向かいの席で研修記録を読んでいたヨアヒムが、顔を上げた。灰色の上着の前を開け、白いシャツの襟元を緩めている。朝食の蜂蜜が親指についていたが、本人は気づかず、その指で書類をめくっていた。
「何が四十七件なんだ」
「昨日、王太子府で処理された決裁書です。通常の半分にも届いておりません」
「そうか」
「そうか、だけですか」
「蜂蜜が紙についた」
「先に指を拭いてください」
「それを今、君に言われるとは思わなかったな」
ヨアヒムは布巾で親指を拭いた。朝食の籠には、胡桃パンが一つと、皮をむいた小さな梨が残っている。梨には塩水の代わりに檸檬水が使われたらしく、酸っぱい香りが部屋に漂っていた。
「王太子府の処理が遅れているなら、私が戻るべきです」
「戻って、また一人で全部やるのか」
「少なくとも、書類を待っている人々に迷惑はかけません」
「研修を三日受けただけで、以前と同じ場所へ戻るつもりか?」
「私が必要であることは、結果が示しています」
アガーテは椅子から立ち上がり、処理件数の報告を鞄へ入れた。青い紐で綴じた白紙の端が引っかかったが、押し込んで蓋を閉める。ヨアヒムが呼び止めるより先に、小会議室を出た。
廊下には朝の冷気が残り、開いた窓から金木犀の甘い香りが入っていた。掃除係の女性が、窓台に並べた雑巾を一枚ずつ絞っている。雑巾の端には赤、青、緑の糸が縫いつけられ、使う場所が区別されていた。
「青は窓、赤は床、緑は机です」
掃除係は、アガーテの視線に気づいて説明した。アガーテは急いでいたが、前回庭師との会話を途中で終えたことを思い出し、足を止めた。
「色が分かりにくい者はいませんか」
「おりますよ。新人のリュカは赤と緑が見分けにくいので、端の形も変えてあります」
「そのような事情があるなら、報告書を提出すべきでは?」
「雑巾のことで、侯爵令嬢へ報告書を出すんですか」
「私ではなく、清掃責任者へです」
「責任者は私ですよ」
掃除係は歯を見せて笑った。アガーテは名札を確認し、彼女が王宮清掃班を二十年預かっているマルタだと初めて知った。いつも廊下にいる女性だと思っていたが、責任者だったらしい。
「形も違えば、見なくても指で分かります。紙に書くほどのことではございません」
「記録がなければ、あなたが休んだときに困るでしょう」
「だから、新人全員に触らせて教えています。人の指は、書類棚にはしまえませんからね」
マルタは赤い糸のついた雑巾を絞り、床用の桶へ入れた。水面には金木犀の小さな花が一輪浮いている。アガーテはそれを見ている時間はないと思い直し、王太子府へ向かった。
執務室へ近づくと、廊下まで声が漏れていた。扉は半分開き、中では六人の文官が大きな帳簿を囲んでいる。アガーテが十年かけて書き続けてきた、予算と支出の記録だった。
「この三角形は、支払い済みという意味ではないのか」
「いや、支払い済みは丸の中に斜線だ。三角形は金額変更だったと思う」
「では、三角形の横の小さな点は?」
「点じゃない。インクが跳ねただけじゃないか?」
「インクの跳ねまで意味があるように見えてきたよ」
アガーテは、これ以上聞いていられず扉を開けた。文官たちは一斉に口を閉じ、帳簿の上へ置いていた焼き栗の袋を隠した。袋の底が破れていたらしく、栗の薄皮が書類の間へ散っている。
「仕事中に栗を食べているから、決裁が四十七件しか終わらないのではありませんか」
「アガーテ様」
エーミルが立ち上がった。今日は焦げ茶色の上着ではなく、紺色の古い上着を着ている。左の肘には革の当て布があり、娘が白い糸で小さな星を一つ縫っていた。
「研修中は、こちらへ立ち入らないお約束では?」
「王太子府の仕事が滞っています。私の帳簿を理解できずに困っているのでしょう」
「確認には時間が必要です」
「その帳簿は、私なら十分で確認できます」
「アガーテ様が十分で分かることは、私たちも承知しています」
エーミルの言葉には、褒める響きがなかった。アガーテは帳簿へ手を伸ばしたが、ネリーが先に両手を置いた。若草色の制服の襟には、七枚しかなかった糸菊の隣へ、新しい花が一輪増えている。今度は花弁が九枚あった。
「離してください。説明します」
「どこからでしょうか」
「最初からです」
「この帳簿は、八年前の途中から書き方が変わっています。最初を聞いても、今の欄は読めません」
「必要に応じて改善したからです」
「変更した日と理由は、どこに書いてありますか」
「覚えています。八年前、北部で小麦の不作が起きたあとです。輸送費と救援費を同じ欄で確認できるようにしました」
「なぜ同じ欄へ入れたのですか」
「同時に発生する費用だからです」
「では、救援物資を船で運んだ場合は、船舶費ですか、救援費ですか」
「船舶費へ入れ、救援費の欄には二重線を引きます」
「二重線と、二本の斜線は違いますか」
「まったく違います」
「どこが違うのですか」
「見れば分かるでしょう」
声が強くなり、栗の薄皮が一枚、帳簿の上から床へ落ちた。ネリーは肩をすくめたが、帳簿から手を離さなかった。羽根ペンの軸を前歯へ当てかけ、途中で気づいて机へ戻した。
「私たちは、見ても分からなかったから質問しています」
「でしたら、今から私が説明します」
「今日、説明を聞けば、今日は使えます。明日、別の人が担当すれば、またアガーテ様を呼ばなければなりません」
「一度聞いた者が、次の者へ教えればよいでしょう」
「その人が休んだら、誰に聞くのですか」
「私がおります」
「アガーテ様が病気になったら?」
「体調管理はしております」
「旅行へ行かれたら?」
「仕事を残して旅行などいたしません」
「結婚して子供をお持ちになったら?」
「そのような先のことまで、今ここで考える必要がありますか」
ネリーの手が帳簿の上で震えていた。それでも、彼女は目を伏せなかった。昨日までなら謝って引き下がっていた若い文官が、今日は言葉を一つずつ選びながら立っている。
「説明を聞かなければ使えない帳簿なら、アガーテ様がいなくなった時点で役に立ちません」
「私がいなくなることを、皆さんは望んでいるのでしょう」
言ってから、アガーテはエーミルを見た。匿名調査の結果が頭に残り、ネリーの言葉まで退職を求める声に聞こえたのだ。執務室の隅で、栗を口へ運びかけていた文官が手を止めた。
「違います」
ネリーは、ゆっくり首を振った。
「私たちは、アガーテ様がいない日にも働けるようになりたいのです。休んでほしいからです」
「休んでいる間に間違いが起きたら、私の責任です」
「私たちの間違いまで、どうしてアガーテ様の責任になるのですか」
アガーテは答えられなかった。間違いを見つければ、自分が直す。遅れていれば、自分が引き受ける。それが責任を果たすことだと考え、一度も疑わなかった。
エーミルが帳簿の間から赤い毛糸を取り出した。栗の袋を結んでいた紐で、ところどころ油が染みている。彼は意味が分からない頁へ毛糸を挟み、帳簿を閉じた。
「今日だけで、二十三か所あります」
「たった二十三か所でしょう。説明すれば一時間もかかりません」
「説明を聞きながら、誰にでも分かる手引きを作れば、一時間では終わりません」
「手引きを作っている間にも仕事は来ます」
「だから全員で分担します」
「私なら一人でできます」
「その言葉が、三十四人をここまで追い詰めたのです」
エーミルは声を荒らげなかった。そのため、アガーテには余計に重く聞こえた。机に置いた手へ力を入れると、指輪が木の表面に当たり、乾いた音がした。
その日の午後、アガーテはヘルミーネの小会議室へ呼ばれた。窓辺の黄色い菊は、昨日より室内側へ傾いている。円卓には焼き栗の残りが置かれ、赤い毛糸で口を結び直してあった。
「王太子府へ無断で入ったそうですね」
「仕事が遅れていました」
「帳簿を取り上げようとしたとも聞きました」
「私が説明すれば、すぐに解決できました」
「すぐに解決することが、今回の目的ではありません」
ヘルミーネは栗の殻を割った。中身が黒く傷んでいたため、眉を寄せて皿の端へ置く。次の一粒はきれいな黄色で、半分に割ってアガーテへ差し出した。
「栗にも、外からでは分からないものがあります。あなたの帳簿も同じです」
「食べ物と帳簿を一緒にしないでください」
「この栗は食べられないと、袋の外へ書いてありますか?」
「書いてあるはずがありません」
「では、割った人が隣の人へ教える必要がありますね」
アガーテは差し出された栗を受け取らなかった。ヘルミーネは自分で食べ、指についた薄皮を白い紙へ落とした。研修官にしては、机の使い方が雑だった。
「明日から、帳簿の手引きを作っていただきます。ただし、あなたは一文字も書いてはいけません」
「私の帳簿なのに、ですか」
「ネリーに説明し、彼女が書きます。ネリーが理解できなかった部分だけ、言い方を変えてください」
「私が書いたほうが速いです」
「それを禁止します」
「非効率です」
「はい。最初は時間がかかります」
「決裁がさらに遅れます」
「それでも行います」
翌朝、アガーテとネリーは小会議室の円卓に向かい合った。ネリーの前には新しい帳面、アガーテの前には何も置かれていない。中央には例の大帳簿と、意味の分からない頁を示す赤い毛糸が挟まれていた。
「最初に、三角形は金額の変更を示します」
アガーテが説明すると、ネリーは帳面へ書いた。だが、すぐに羽根ペンを止める。軸を前歯へ当てかけ、アガーテの視線に気づいて机へ置いた。
「変更前の金額は、どこに残しますか」
「残しません。元の書類を見れば分かります」
「元の書類は、どの棚にありますか」
「年度によって違います」
「どの年度が、どの棚でしょうか」
「帳簿の余白に、小さな文字で記してあります」
「この『西三』ですか」
「それは西部第三倉庫です」
「では、棚は?」
「紙の色で分かります」
「色が褪せた場合は?」
アガーテは机の下で、ドレスの布をつかんだ。三角形一つの説明から、なぜ棚と紙の色の話になるのか分からない。十分で終わるはずだった項目に、すでに半時間かかっている。
「コルベル文官。質問する前に、少しはご自分で考えてください」
「考えました。でも、私が考えた答えとアガーテ様の答えが同じか分かりません」
「そんなことでは、いつまでたっても終わりません」
「分からないまま先へ進めば、昨日と同じです」
ネリーは、前歯を羽根ペンへ近づけた。今度は途中でやめず、軸を一度だけ噛んだ。かり、という音が静かな部屋へ響いた。
アガーテは注意しかけたが、口を閉じた。代わりに、帳簿の余白へ書かれた小さな文字を見た。自分には当然分かる略号が、初めて見る者には棚の記号なのか、倉庫の記号なのかさえ判断できない。
「棚の場所は、別の一覧表を作りましょう」
「誰が作りますか」
「あなたが書いてください。私は、倉庫の配置を説明します」
「棚を移したときは?」
「変更した日と理由を、一覧表へ追記します」
「誰が追記するのですか」
「変更を決めた者です」
「決めた者が休んでいたら?」
また質問だった。アガーテは息を吸い、窓辺の菊へ目を向けた。朝日に向かって曲がった茎には、支えとして赤い毛糸が結ばれている。ヘルミーネが栗の袋から外し、使ったものらしい。
「その場合は、倉庫の責任者が記入してください」
「分かりました」
ネリーは帳面へ書き込み、初めて質問せずに次の頁を開いた。アガーテは肩から力を抜いたが、すぐに新しい略号が現れた。丸の中に斜線が二本あり、その横には小さな星がついている。
「これは何ですか」
「支払い済みで、翌年度の予算から補填するという意味です」
「星は?」
「金額が百枚以上の場合につけます」
「なぜ百枚以上なのですか」
「以前、大きな支払いだけを探す必要があったからです」
「今も必要ですか」
アガーテは答えようとして、口を止めた。その星を使い始めたのは六年前だった。洪水被害の復旧費を探しやすくするためだったが、翌年から専用の報告書が作られている。星をつける必要は、すでになくなっていた。
「今は、必要ありません」
「では、手引きには書かなくてよいですか」
「古い帳簿を読むために、意味だけ残してください。新しい帳簿では使わないと記しましょう」
ネリーは頷き、丁寧に書き込んだ。アガーテは、その横顔をしばらく見ていた。説明が遅いのではない。ネリーは、アガーテが何年も省いてきたことを、一つずつ拾っているのだ。
昼の鐘が鳴ったとき、完成したのは見開き二頁分だけだった。机には、厨房から届いた豆と腸詰めの煮込みが置かれている。湯気はすでに消え、表面に薄い脂が浮いていた。
「今日は、ここまでにしましょう」
アガーテが言うと、ネリーは驚いて顔を上げた。
「まだ午後も続けられます」
「煮込みが、これ以上冷える前に食べます。午後は棚の場所を確認しに行きましょう」
「一緒にですか」
「私の記憶だけで一覧表を作れば、また同じことになります」
ネリーは、わずかに口元を緩めた。腸詰めを匙で切ろうとして汁を袖へ飛ばし、慌てて布巾を探す。アガーテは自分の布巾を差し出したが、拭く代わりに書類を守ろうとして、煮込みの椀へ袖口を入れてしまった。
二人は同時に手を止めた。青い仕事着の銀糸から、豆が一粒、ころりと机へ落ちた。
「笑ってもよろしいでしょうか」
「許可を求めることではありません」
ネリーは声を立てて笑った。アガーテは濡れた袖を見下ろし、注意する言葉を探したが見つからなかった。帳簿には、意味の分からない二十三か所を示す赤い毛糸が、まだ何本も挟まっていた。




