ルーフガーデン
きいろ
今日も残業、明日も残業。
きっと今月は定時帰り出来ない。
ソフト会社なんかに務めるんじゃなかった。
「休憩、行ってきます」
ため息を飲み込んで、ペットボトルを手に席を立つ。
唯一の良いところは、ミーティング中じゃなければ、いつでも休憩に行けるところか。
空調のきいた部屋から出た途端、むわっと初夏独特の湿気がまとわりついた。
廊下を歩いて洗面所で用を済ませただけで、汗が吹き出る。
今まで気にならなかったパンストが気持ち悪い。
身体は冷えているけれど、クーラーのきいた休憩室に行こうかな。
休憩室には、みんなの積立金で買ったコーヒーメーカーがある。
上等な代物で、いつでもお店の味を楽しめる。
暑い盛り、クーラーで凍えて、ホットコーヒーをすする。
矛盾に満ちた行為だとは思うけれど、仕方ない。
休憩室に向かいかけた時、誰かに呼ばれた気がした。
振り返ったけれど、誰もいない。
気のせいかと思った時、やっぱり呼ばれた。
部屋からじゃない。屋上に続く階段から?
階段を見上げると、扉は閉まっている。
扉に遮られて、声が聞き取れなかったのかもしれない。
他の誰かも休憩中だったっけ?
行ってみればわかるか。
階段を上って、重い扉を開ける。
階下の道路からの走行音が、意外に大きく聞こえた。
そして生暖かい風。
雨が降るわけでもないのに、暖かくて湿った空気が吹き寄せる。
思い切って屋上に出てしまうと、全身が、ぬるい空気に包まれた。
まるで濡れない水の中にいるみたい。
吹き続ける風のおかげで、さっき歩いていた廊下よりも涼しい。
「気持ちいい―――」
思い切り腕を伸ばして息を吸う。
肩を伸ばしながら息を吐き、ぐるりとまわりを見回した。
誰もいない。
もう一度じっくり見直したけれど、狭い屋上に人影はなかった。
素っ気無い屋上から見えるのは、連なるビルの群れと車の光。
呼ばれた気がしたのは、クラクションを聞き違えたのかもしれない。
人恋しかったのかな。
家に帰っても話す相手はいない。
実家から出たのは自分の意思だし、なんだかんだ言っても今の仕事は好き。
気ままな一人暮らしも悪くない。
でも、たまに、実家が懐かしくなる。
同じ夏でも、ここより涼しい。
風も、ちょっと違う。
あの草の匂いのする風が、無性に恋しい。
せっかく、あこがれの地に来たのに。
地上に星が溢れる、あこがれの地。
――コーヒー飲もう。
扉を向くと、扉の斜め下に、白いマグカップが落ちているのが見えた。
マグカップは、ひっくり返っている。
誰かの置き忘れ?
持って帰って聞いてみようか。
マグカップを持つと、予想より重かった。
中には、かたまった土と、何だかわからない芽があった。
鉢だったのか。
風で倒れたのか、誰かに蹴られたのか。
強く風が当たらず、出入りに差し支えない所に置いて、じっくり観察する。
芽は出始めで、何の植物かはわからない。
わかったのは、芽がしおれかけてるってこと。
マグカップの底に穴が空いているのを確認して、飲みかけのペットボトルの水を全部かけた。
「がんばれ」
さて。私も、もうひとがんばりしよう。
それから毎日、休憩ついでに屋上に行くのが私の日課になった。
土が乾いていれば、ペットボトルの水をあげる。
芽は、ちょっとずつ大きくなっていった。
直接きいたわけじゃないけど、誰が持ってきたわけでもないらしい。
私は、マグカップを人目のつかない所に移動させた。
誰にも内緒で植物を育てることは、会社に行く密かな楽しみになった。
休憩がてら、植物に話しかける。
仕事の愚痴とか、上司の文句とか、社内の噂話とか。
バカみたいだけど、これが結構スッキリする。
植物は順調に育って、小さなつぼみをつけた。
つぼみをつけてからは、毎日がウキウキだった。
いつ咲くんだろう?
どんな花だろう?
週末、会社に行けないときは、今ごろ咲いてるんじゃないかと気になった。
それでも一週間、つぼみは固く閉じたまま、開くそぶりを見せなかった。
そろそろ開くんじゃないかと思い始めた頃には、マグカップを見つけてから、もう一ヶ月は経っていた。
屋上へ続く階段が、辛い。
残業続きで、疲労もピークだ。
先月の予想通り、定時帰りできないまま、新しい月になってしまった。
屋上の風も、夜になると、少し寒く感じる。
今日は曇っているから、いつも以上に肌寒い。
目の前のつぼみは、初めて見たときよりも随分と大きくなった。
両手を合わせて膨らませたくらい。
マグカップに伸びる植物からは、不釣合いなくらい大きい。
短くて細い茎は、それでも精一杯つぼみを支え、つぼみを真上に押し上げている。
開く瞬間に立ち会えたらいいんだけど。
なんの植物かネットで調べてみたものの、結局、今もわからないままだ。
ここまで育てたからには、ぜひ、花を見たい。
けれど、夜には開かないのかもしれない。
明日は昼もマメに見に来よう。
目を閉じて首をまわす。
ごきごきと鳴るのを感じていると、瞼に光を感じた。
月? 雲が切れた?
上を向いたまま目を開く。
雲に覆われた空は、地上の光を反射して、明るいけれどほの暗い。
視線を落とすと、音も無く、つぼみが開きかけていた。
光は、そこから漏れている。
発光植物?
考えている間にも、つぼみはどんどん開いていく。
細長くて白い花びらが、幾重にも重なっている。
一枚一枚、開くたびに、少しずつ光も強くなる。
白いのに、どこか緑色の光。
大輪の花が開く頃には、光は強烈になっていた。
眩しい!
思わずそらした視線の先に、同じ色の光がひっかかった。
別のビルの屋上に、光と、光に照らされて人影が浮かび上がっている。
きっと、あそこにもつぼみがあって開いてるんだ。
妙に確信していると、光は宙に浮き、残光を引いて空に吸い込まれた。
同じような残光が、ビルの向こう、あちこちから同時に上がった。
何十発も花火を打ち上げたような残光は、やがて消えた。
今のはなに?
なんだったの?
目の前からも、もう光を感じない。
植物に視線を戻したつもりが、花も、植物もなかった。
白いマグカップすら、なかった。
夢?
しばらくそのまま動けなかった。
疲れていたから、幻覚を見たのかも。
屋上に植物があるって、勝手に思い込んでいたのかもしれない。
でも―――。
あのマグカップは存在していて、光る花が本当に咲いたのなら。
他の光も同じ植物で、屋上で見つけた誰かが、水をあげて育てたのなら。
あの残光の分だけ、育てた人がいるってことだ。
その人たちも私と同じように、実家から出てきたのかもしれない。
同じように、植物に話しかけていたのかもしれない。
「がんばろうね」
どこかの誰かさんに呟いた。
050829
ちょっと長い。もう少し削れそうです。
K.様のサイト「伍拾音式。」(50のお題)の「ルーフガーデン(屋上庭園の意)」で個人サイトに書いたのが最初でした。




