第八話:令嬢とメイドの、はじめての家事
窓辺の椅子では、メリーちゃんが、静かにお座りになっていらっしゃいました。
白布のたすきを掛けられて、すっかりそこに安定しているかのように見えます。
さて、今から、この人形の館での暮らしが始まるのです!
そう思いますと、じっとしてなどいられなくなってしまいました。
「マリア、今日は一日、この館のお仕事をいたしますわよ!」
わたくしが声を掛けます。
すると、ベッドのシーツを整えていたマリアが、スッとこちらを向きました。
「はい、お嬢様。まずは普段お使いになる部屋のお手入れから始めましょう」
「ええ! わたくしも雑巾を持ってまいりますわ!」
「お掃除はメイドの務めでございます。お嬢様がお手を煩わせる必要はございません」
「いいえ、マリア。わたくしはもう、アシュフォード公爵家の令嬢ではありませんのよ。家から追い出された身ですもの。ここではただのアリシアですわ」
「たとえ公爵家をお離れになりましても、お嬢様はお嬢様でございます。汚れ仕事をお任せするわけにはまいりません」
マリアは、いつも通りの丁寧なお辞儀を返してまいりました。
ですが、わたくしも引き下がる気はございません。
「ですが、この広い館に、わたくしたちは二人しかおりませんのよ? マリアひとりにすべてを任せていたら、どれだけ時間があっても足りませんわ。わたくしも手伝いたいですの!」
マリアは手を止めて、じっとわたくしを見つめました。
「……お嬢様は、お掃除をなさりたいのでございますね」
「うふふ、その通りですわ! 前世では、お掃除もお洗濯も、自分でしておりましたのよ」
本当のところを言えば、久しぶりに自分の手でお掃除をしてみたい気持ちのほうが大きかったのですけれど。
マリアは小さく息を吐いて、諦めたように頭を下げました。
「かしこまりました。ではお嬢様には、窓拭きをお願い申し上げます」
「まあ! 任せてくださるのね!」
マリアから湿らせた布を受け取ったわたくしは、意気揚々と窓拭きに取り掛かりました。
布を窓ガラスに押し当てて、ススッと動かしてみます。
するとキュッキュッと、小気味よい摩擦の音が立ちました。
布の通ったところから、ガラスがいっそう澄んでまいります。
外の青空や木々が、鮮やかに見え始めました。
「見て、マリア! こんなに透き通って見えますわ!」
「はい、お嬢様。大変丁寧にお拭きになられましたね」
主寝室の窓を拭き終えたあとは、食堂へ、そして厨房へと移動します。
マリアが床を箒で手早く掃き、わたくしが窓を拭いてまいります。
掃き集めた糸くずや紙くずは、貯蔵室にあった麻袋へまとめて、勝手口の近くにおきました。
お屋敷にいたころは、窓拭きなどさせてもらえませんでした。
ですから、わたくしの細い腕は、すぐに張ってまいりました。
けれども、この掃除というものは、たまらなく楽しいものでございました。
お日様がずいぶんと高く昇ってまいります。
「次は、お洗濯ですわね!」
わたくしたちは勝手口を出てすぐの洗濯場へと向かいました。
石造りの丸い井戸が、どっしりと据えられております。
大きな木桶がいくつもあり、物干し竿も一本、渡されておりました。
「まずは、お水を汲まなくてはなりませんわね」
「お嬢様、井戸の水汲みは大変危険でございます。私にお任せください」
「まあ、マリア。桶を引き上げるくらい、わたくしにだってできますわ!」
わたくしは縄を結んだ木桶を、井戸へと落としました。
ぽちゃんと水に入る音がして、沈んでいきます。
「さあ、引き上げますわよ!」
縄を握り、ぐっと力を込めて引っ張り上げました。
その瞬間、わたくしは思わず声を上げそうになりました。
「……っ! 重いですわ……!」
水が入った桶というのは、思いのほか重いものでございました。
縄が手のひらに食い込み、腕がじんとしびれてまいります。
「お嬢様、手を添えます」
マリアも縄を握ってくれました。
二人の力で、ようやく引き上げた桶から、洗濯用の大きな木桶へと水を移しました。
ざばんと水飛沫が上がります。
実はわたくし、井戸の水を汲むのは、生まれて初めてでございます。
王都の屋敷におりましたときには、このような機会などありません。
ましてや、前世でも井戸を使ったことはございませんでした。
「石鹸を使います」
マリアが、町で買った石鹸を取り出しました。
泡立てます。
白い泡です。そして、清潔な匂いがしました。
「洗濯! お洗濯ですわ!」
わたくしは汚れた布地を、手で押して洗ってまいります。
「お嬢様、お上手です」
「ありがとう!」
お世辞かもしれませんが、マリアがわたくしをほめてくれました。
そのまま、しばらく洗った後です。
いよいよ、洗った布を絞る時がやってまいりました。
「絞るのですわ!」
「お嬢様、濡れた布を絞るには少々コツがございます」
「大丈夫ですわ。コツなら、ちゃんと存じておりますもの」
わたくしは大きな布を持ち、力いっぱいにねじり上げました。
雑巾絞りです。ぎゅうぎゅうと力を込めてみます。
けれど、この令嬢育ちの細い腕では、いくら力を込めてもしっかりと締まってくれません。
布がぐにゃりとたわんでしまいます。
「えいっ、それっ!」
もう一度、渾身の力を込めてねじりこんでいきます。
その様子をマリアが監督しておりました。
「もう疲れましたわ」
「それは慣れでございます。さあ、竿に干してしまいましょう」
なんとか絞り終えた布を持ちまして、洗濯場の竿へ向かいます。
「パンパン、と」
大きく振ってシワを伸ばし、竿へと掛けました。
「終わりましたわ」
「お上手です。お嬢様」
吹き抜ける風を受けて、白い布がふわりと揺れておりました。
お日様が真上へと昇り、お昼の時間がやってまいりました。
「お昼の支度を始めましょう。まずは、なにがあるか確かめなくてはなりませんわね」
そのまま、わたくしたちは、一階の厨房へと移動いたしました。
わたくしは、そこで厨房の棚を開けてみました。
そこには、町で買ってきた麦粉や芋や玉ねぎ、干し肉たちが見えました。
「町で買ったばかりですから、しばらくは十分に持ちますわね」
「はい。当分は心配いりません」
食材の無事を確かめ終えますと、まずは竈に火を起こすことにいたしました。
マリアが、町で買った火打石と鉄の金具を取り出します。
「わたくしにも、やらせてくださいな」
「では、お教えいたします」
「お願いしますわ!」
「お嬢様。石と金具をですね……」
マリアが言うように、わたくしは黒い石と鉄の金具を持ちます。
火打石と鉄の金具。実は、わたくし初めてでございます。
細かく揉みほぐした麻の繊維を、マリアが添えてくれました。
「金具で、石をこするように打ち下ろしてくださいませ」
「こうかしら。えいっ」
カチッ。
音ばかりで、火花はちっとも出てまいりません。
「……出ませんわ」
「なるべく素早くでございます。手首をお使いください」
言われたとおり、手首を返すようにして打ちます。
すると、カチッカチッと鳴り、小さな火花が散りました。
火花が麻の繊維に落ち、小さな赤い灯が生まれました。
「マリア!」
「そっと。そっと息をお掛けください。強く吹くと消えてしまいます」
強く吹きかけたい気持ちを抑えまして。
わたくしは、そっと息を吹きかけます。
すると、ぱっと小さな炎が立ち上がりました。
マリアがそれを竈へ移しますと、くべた小枝へと燃え移っていきました。
竈が赤く照らされ、厨房がふわりと温まってまいります。
「火がつきましたわ! 次は食材の支度ですわね」
わたくしは調理台にある、包丁の柄へと手を伸ばそうといたしました。
「わたくしがお野菜を刻んで差し上げますわ!」
そこへ、マリアがわたくしよりも先に、包丁を手に取りました。
「刃物だけは、お嬢様にお渡しすることはできません」
「まあ、どうしてですの? 少し刻むくらい、わたくしにだってできますわ」
「お屋敷では、お嬢様に刃物をお持たせしたことは一度もございません。怪我をなさっては取り返しがつきません。これだけは、譲れません」
マリアの声はいつもどおりでしたが、その眼差しには絶対に引かない頑固さがございました。
何を言っても無駄だと、その立ち姿からありありと伝わってまいります。
「もう、マリアったら。そんなに心配しなくてもよろしいのに」
「お嬢様には、お皿を並べていただきたく存じます」
「……分かりましたわ。お皿を並べればよろしいのでしょう」
わたくしは包丁を諦めて、食器棚へと向かいました。
棚から二人分の深皿を取り出します。
素朴な陶器の皿でございます。
わたくしは、スプーンと一緒に、カチャリと音を立てないよう、丁寧に並べてまいります。
「いい匂いがしますわね」
竈の鍋から、たまらなく良い匂いが立ち上ってまいりました。
マリアが手早く作った、芋と玉ねぎと干し肉のスープでございます。
深皿に注がれたスープからは、白い湯気が立ち上っておりました。
マリアと向かい合って座り、スプーンを手にいたします。
熱々のスープを一口含みます。
すると、干し肉の旨味と、スープへ溶け込んだ芋の甘みが口いっぱいに広がりました。
「とても美味しいですわ、マリア!」
「お口に合って何よりでございます」
質素な食事ではございます。
けれども、わたくしたちの手で作ったスープのお味は、格別でございました。
昼食を終えた午後、わたくしたちは後片付けに取り掛かりました。
調理台には、先ほど剥いた芋の皮や玉ねぎの皮などの野菜くずが残っております。
「マリア、この野菜くずはどういたしますの?」
「裏庭へ埋めてまいります。貯蔵室から道具を持ってまいりますので、少々お待ちください」
マリアは貯蔵室へと向かい、鉄のシャベルを一本持って戻ってまいりました。
わたくしの背よりは低いけれど、なかなかの大きさなシャベルでございます。
シャベルを手に、わたくしたちは勝手口から裏庭へと出ます。
裏庭を見て回ります。すると、遠くにぽっかりと開いた穴がございました。
穴のまわりには、掘り返された土が、やわらかく盛られております。
「あちらに埋めます」
「分かりましてよ!」
うきうきでわたくしは、その穴に近づきます。
「この穴、わたくしたちが来るずっと前から掘られていたのですわね」
「はい、お嬢様。どなたかが、ここで同じようにごみを埋めておられたのでしょう」
わたくしは持ってきた野菜くずを、穴へと落としました。
「さあ、土をかぶせましょう!」
わたくしはマリアの手から鉄のシャベルを受け取ろうといたしました。
「お嬢様、土弄りは服を汚します。私がいたします」
「汚れたら、またお洗濯をすればよろしいのですわ!」
「いいえ、お嬢様。私が」
「わたくしもやってみたいのです!」
マリアは小さく息をついて、シャベルを渡してくれました。
わたくしはシャベルを、盛られた土へと突き立てます。
サクッと軽い音がして、シャベルがすんなりと土をすくいます。
ひとすくいして穴へ落とし、またひとすくい。
「お嬢様、土がこぼれております」
「あら」
三度、四度と土をかぶせますと、野菜くずはすっかり見えなくなりました。
「これで終わりですの?」
「はい。終わりでございます」
うふふ。これでわたくしもごみ処理マスターです。
「やり遂げましたわ!」
「お疲れ様でございました、お嬢様」
シャベルを片手に館へと戻るとき。
ふと、裏庭に据えられた焼却炉が目に留まりました。
レンガでしっかりと組まれた焼却炉です。
煙突が高くそびえていて、洋館の居間に置かれるストーブによく似た形をしております。
金属の受け口には、小さな取っ手がついております。
「今日は燃やすものがございませんけれど、ごみが溜まったら、あれで燃やさなくてはいけませんわね」
「はい。麻袋がいっぱいになりましたら、火を入れましょう」
わたくしは、そのまま、マリアと一緒に勝手口へと戻りました。
そうこうしていると、日が傾き始めて、空が茜色に染まる夕方となりました。
わたくしたちは外の洗濯場へ行き、竿に干しておいた大きな布を取り込みました。
風とお日様の温もりをたっぷりと吸い込んだ布は、すっかりと乾いていて、ふんわりとお日様の匂いがいたしました。
それらを胸いっぱいに抱え、二階の主寝室へと運んでまいります。
窓際のベッドに洗濯物を広げ、二人で畳みます。
シワをならしてまいります。
夕暮れの静かな部屋に、パタパタと布を折る乾いた音がいたしました。
ふと、わたくしは何気なく、窓辺の椅子へと目を向けました。
今朝、マリアが白布をたすきに掛けて、座らせたメリーちゃんがいる場所でございます。
「……あら?」
わたくしは、思わず手を止めてしまいました。
「どうされましたか、お嬢様」
「マリア、あちらをご覧になって」
マリアも顔を上げ、窓辺の椅子を見つめました。
今朝、メリーちゃんを座らせたとき、そのお顔は確かに窓の外を向いていたはずでございました。
外の光や景色が見えるようにと、わたくしがそう決めたのです。
けれど、いまのメリーちゃんは、お部屋のほうを見ていらっしゃいました。
わたくしたちが洗濯物を畳んでいる、こちらでございます。
わたくしはベッドを離れて、椅子へと近づきます。
白布のたすきは、朝マリアが結んだときのままです。ゆるんだようには見えません。
ということは、あらあら……。
「ふふ、お外の景色を十分に見終えて、今度はわたくしたちの様子が見たくなったのかしら!」
「そのようでございますね」
マリアも頷きました。
わたくしは向きを直そうとはせず、そのままにしました。
ベッドの洗濯物はマリアが畳み終えておりました。
すっかり日が暮れ、わたくしたちは一階の厨房で夕食をとりました。
お昼に作ったスープを竈で温め直し、硬いパンを小さくちぎって浸しながら口へと運びます。
カチャリと、スプーンが皿に当たりました。
わたくしは小さく息をつきました。
「マリア。疲れて腕が上がりませんわ」
「明日の朝は、もっと上がりません」
「まあ、脅かさないでくださいまし」
夕食の片付けを手早く済ませ、わたくしたちは二階の主寝室へと戻ってまいりました。
扉を開けて部屋に入ります。
すると、窓辺の椅子に座るメリーちゃんは、やはりお部屋のほうをじっと見つめていらっしゃいました。
昨夜のようにベッドへお連れして添い寝をすることはせず、今夜はそのまま椅子に座っていてもらうことにいたしました。
「メリーちゃん、おやすみなさいませ」
わたくしはベッドに入り、柔らかな掛け布団を肩まで引き上げました。
そして、お部屋にある魔道ランプへと手を伸ばします。
冷たい金属のスイッチに触れますと、灯りがすっと消えました。
部屋が、穏やかに暗くなります。
一日じゅう動かした身体が、心地よい疲労感に満ちておりました。
わたくしは目を閉じると、すぐに眠ってしまいました。




