第七話:朝起きたら、お人形さんが窓辺にいました
気がついたときには、わたくしは身体のすべてが動かなくなっておりました。
いつからこうなったのかも分かりません。
寝返りを打った拍子なのか、それとも眠りに落ちた瞬間なのか、それすらも分からないのでございます。
わたくしの手を動かそうと試みてみます。
けれど、ぴくりとも動きません。
首も傾げられません。
まぶたを下ろすことも叶いませんでした。
息を吸おうとしても、胸が上下いたしません。
不思議なことに、苦しさは少しもございませんでした。
息をする必要そのものが、初めからすっぽりと抜け落ちているようでした。
声を出そうとしてみます。
『あ』とも『う』とも、音が出てまいりません。
そもそも、わたくしの身体がどこまで続いているのかも分かりませんでした。
手足がどのようにあるのか、その感触すら伝わってまいりません。
冷たさも、温もりも、痛みすらも感じられないのでございます。
わたくしの身体は、まるで冷たく焼き固められた焼き物のようでございました。
ただただ、わたくしには見えているものだけがございました。
見えているのは、光だけでございます。
白くて、明るい光だけでございました。
けれども、わたくしがいま、前を向いているのか、それとも上を向いているのか、それすらも分かりませんでした。
その光が、どこから差しているのかも分かりません。
ただただ、すべてが明るい光で満ちているのでございます。
ここからは、誰の姿も見えませんでした。
物音ひとつ聞こえてまいりません。
音というものが初めから存在しないかのような、深い静けさでございました。
普通の方であれば、このような状況におられましたら、恐ろしくてたまらなくなるのかもしれません。
手足がまるで動かず、息もできず、暗闇ではなく光の中にひとりきりで閉じ込められているのでございますから。
けれど、わたくしは少しも怖くありませんでした。
前世からずっと、多くの悪霊たちとお話ししてまいりましたもの。
冷たい風が吹き荒れたり、恐ろしい姿で迫られたりすることには慣れっこでございました。
ですから、恐怖など少しも湧いてまいりません。
それどころか、湧き上がってきたのは、強い好奇心と興奮でございました。
『まあ! これは、いったいどういうことですの?』
心の中でお話ししてみても、誰からもお返事は返ってまいりません。
けれど、このまったく動けない感覚が、たまらなく面白かったのでございます。
身体が動かないというのは、こういうことなのですわね。
自分の意志では、なにもできません。まばたきすらも許されないのです。
ただただ、この光を、じっと受け止め続けることしかできません。
そこで、わたくしはピンときました。
――これは、まさにお人形さんの見ている世界ではありませんこと?
だといたしますと、メリーちゃんは、毎日このような世界を過ごしていらっしゃるのでしょうか。
わたくしは、じっと光を見つめ続けました。
この光は、少しも変化というものがございませんでした。
強くなったり、弱くなったりすることもございません。
ずっと、同じ調子でわたくしの視界を照らし続けておりました。
時間の感覚も、だんだんとなくなってまいります。
ほんの少しの間のようでもあり、とても長い年月のようにも思えました。
むしろ、ただ光だけを受け止めているこの状態が、不思議と心地よくすら思えてまいりました。
◇
わたくしは、ゆっくりと目を開けました。
目に飛び込んできたのは、昨日、寝る前に飽きるほど見た天井でございました。
木製の太い梁が、しっかりと部屋を支えております。
「まあ……」
思わず、小さく声が漏れました。
声も、ちゃんとお口から出てまいります。
「……動きますわ」
見回しますと、主寝室でございました。
大きな窓から、朝のやわらかな光が差し込んでおります。
大きく息を吸い込みますと、冷たい朝の空気が胸いっぱいに満ちてまいります。
手足をゆっくりと伸ばしてみますと、掛け布団の衣擦れの音がいたしました。
「はあ、体が重いですわ」
夢で感じていた、あの新感覚が、まだほんのりと身体に残っているようでした。
まるで、少し前までわたくしが焼き物であったかのような、本当に不思議な余韻でございます。
わたくしは、ゆっくりと上半身を起こしました。
起き上がった拍子にめくれた掛け布団を、メリーちゃんの肩まで掛けなおします。
「メリーちゃん、おはようございます」
わたくしは、隣で寝ているメリーちゃんへ語りかけました。
メリーちゃんは、昨夜と同じように、掛け布団を掛けられたまま。そのまま、天井を見つめております。
特に動いた様子もございません。
それに、何かを訴えかけてくるようなご様子もありません。
昨日から変わらず、何とも慎ましい悪霊です。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
静かな声が聞こえました。
そちらのほうには、すでに身だしなみを整え終えたマリアが待機しておりました。
少しの乱れもない、いつものメイド服姿でございます。
「ええ、マリア。おはようございます」
「おはようございます、お嬢様。よくお休みになれましたでしょうか」
マリアが、わたくしのベッドへと近づいてきました。
その両手に、洗面用の清潔な白布を大切そうに抱えておりました。
「とても不思議な夜でしたわ。わたくし、生まれて初めてあのような夢を見ましたの」
「夢、でございますか」
マリアは、洗面の用意を始めました。
水差しからお湯が注がれる、心地よい音が部屋に満ちます。
わたくしはベッドから足を下ろし、興奮を隠せないまま言葉を続けました。
「そうなのです! わたくし、お人形になってしまう夢を見ましたのよ!」
「お嬢様がお人形になられるのですか?」
「うふふ、そうなの! それで、マリア、お人形になったらですね! まばたきすらできないのです! それに声も出せなくて、息すら自由にできないの! それで! 目の前にはただ光だけが広がっておりましたの!」
わたくしが身振りを交えてお話を続けます。
すると、マリアは布を整える手を止めました。
こちらを見ております。
「……私もでございます」
「まあ! マリアもですの!?」
わたくしは、思わず立ち上がってしまいました。
マリアは、いつもの調子でそれだけを答えました。
それ以上は語ろうとはいたしませんでした。
「まあ、まあ! なんて偶然なのでしょう! 二人揃ってお人形さんの夢を見るなんて、滅多にあることではございませんわ!」
「偶然かどうかは分かりかねますが、不思議なことでございますね」
「マリアが見たのも、やっぱり光だけでしたの? それとも、別の何かが見えていらっしゃいました?」
「……お嬢様、朝のお支度を済ませてしまいましょう。お湯が冷めてしまいます」
マリアはわたくしの問いには答えません。その答えの代わりに、淡々と実務の手を進めていきます。
うふふ。二人がまったく同じ光景を見たのかどうかは、分かりませんけれど。
だけれど、マリアも同じような夢を見ていたというだけで、わたくしの胸は弾んでしまいました。
悪霊の仕業というものは、人を怖がらせたり、病に伏せさせたりするものが多いのですけれど。
このような夢を見せてくださるなんて、本当に風変わりでございますわね。
新感覚とは、このことを言うのかもしれません。
朝の支度は、手早く済ませられました。
マリアが用意してくれた温かいお湯と白布で、お顔を洗い、手早く髪を梳かしてもらいました。
動きやすい簡素なドレスに着替えて、主寝室を出て一階の厨房へと向かいました。
貯蔵室の魔道炉も、変わらず館を動かし続けてくれておりました。
マリアが火打石で火を起こし、お湯を沸かして温かいお茶を淹れてくれました。
硬く焼き上げられたパンを小さく切り、温かいスープと一緒に口へと運びます。
このように、わたくしの優雅な朝の食事は、さほど時間をかけずに優雅に終わりました。
お腹が温まりますと、元気が湧いてまいります。
使った食器を手早く洗い終えたわたくしたちは、すぐに二階の主寝室へと戻ってまいりました。
主寝室の扉を開けます。
すると、窓際のベッドには、やはりメリーちゃんが横になったままでございます。
わたくしは、ベッドへと歩み寄りました。
メリーちゃんを、じっと見つめました。
青いガラスの目は、まっすぐに天井を向いております。
掛け布団も、今朝、わたくしが掛けなおしたときのままでございました。
何一つ変わっておられません。
「お嬢様、どうかされましたか」
ついてまいりましたマリアが、尋ねてまいりました。
「マリア、気になりませんこと?」
「何がでございますか」
「メリーちゃんですわ」
「メリーちゃん、でございますか」
マリアはメリーちゃんを見つめました。
「昨晩から、お嬢様が丁寧にお寝かせになっておいでですが」
「ええ、そうですの。わたくしがお寝かせいたしましたわ。けれど、今朝になって考えてみますと、少し申し訳ないことをしてしまった気がいたしますの」
「申し訳ない、とおっしゃいますと?」
わたくしは、今朝のあの夢を思い出しておりました。
動けない身体。
声も出せず、首も振れない状態。
そして、あの明るい光でございます。
「あの夢の中で、わたくしは光だけを見ておりましたでしょう?」
「……そう、おっしゃっておいででした」
「手も足も動かせず、お首も曲げられず、ただ目の前にあるものを見るしかございませんでしたわ。メリーちゃんも、きっと同じはずですの」
「お嬢様、それは」
「見てごらんなさいな。このままベッドに寝かせておいては、メリーちゃんには天井しか見えませんわ」
わたくしは、天井を見ました。
「天井を見るのも悪くはありませんけれど、ずっと同じ木目ばかり見せられていては、退屈してしまいますでしょう?」
「なるほどでございますね」
「ええ、ですから。昨夜の夢で見えたのが光だけでしたのは、もしかしたら、お外を見たかったからではありませんこと?」
「メリーちゃんが、外を見たがっておいでだと」
「ええ! わたくしはそう思いましたわ! だって! あんなに明るい光を見せてくださったのですもの! お部屋の天井ではなくて、明るい外や、景色を見たかったに違いありませんわ!」
すべては、わたくしが勝手に思いついた解釈にすぎません。
けれど、そう考えますと、もうじっとしていられなくなってしまいました。
「昨日はお祓い棒を持って、お話を聞こうとばかりしておりましたけれど……まずは、メリーちゃんのご要望をお聞きすることが先決ですわね」
「お嬢様は、お人形のお世話をするほうがお好きなようでございますね」
「お相手がお望みの状態にして差し上げるのは、除霊とおもてなしの基本ですわよ?」
わたくしは、窓際のベッドへと近づきました。
掛け布団をめくりまして、そのメリーちゃんの小さな身体を抱きしめました。
布の胴のやわらかさと、磁器の手足のひんやりとした感じが、すぐに伝わってまいりました。
そのままわたくしが持ち上げてみますと、見た目よりもずしりとした重みがございます。
メリーちゃんの金髪がさらりと揺れます。
「さあ、メリーちゃん。景色の良いところへご案内いたしますわね」
わたくしはメリーちゃんを優しく抱きかかえ、お部屋の窓辺へと向かいました。
その窓からは、朝の清々しい光がたっぷりと注ぎ込んでおります。
この部屋の窓辺には、小さな木製の机と椅子がございます。
わたくしは、窓辺の椅子へとメリーちゃんを腰掛けさせました。
椅子の背もたれにメリーちゃんのお背中を預けさせます。
「あら……これでは倒れてしまいますわね」
けれども、メリーちゃんは一人では、うまく座れずに、どうしても少しどちらかに傾いてしまいます。
「そうですわ! お祓い棒を、つっかえ棒にしてはいかがかしら」
「祓いの道具を、そのようにお使いにならないでください」
「ふぅむ。たしかにそのとおりでございますわね」
「お嬢様、私にお任せください」
マリアが近づいてまいりました。
洗面用に持ってきた白布の、まだ使っていない一枚を、手にしておりました。
「お人形のお座りを安定させるには、お身体を支えるのがよろしゅうございます」
マリアは白布を広く開いて、メリーちゃんの胴をすっぽりと包むように、たすきに掛けました。
そのまま椅子の背もたれへ回してから、結びます。
それから、メリーちゃんの腰を優しく押さえて、整えております。
その白布がメリーちゃんの胴全体を受け止めております。すると、メリーちゃんの小さな身体が、しっかりと落ち着きました。
それはまるで白いショールを羽織っているようにも見えます。
マリアのさじ加減ゆえか、強く締めつけているようには見えませんでしたけれど。
「マリア。縛ってしまうなんて、少し窮屈ではありませんこと?」
「たすきでございます。お嬢様のお支度のときと同じでございます」
ふぅん。まあ、そう言われるとたしかにそうかもしれません。
それに、これなら、倒れたり転がったりすることもございません。
「しかし、マリア! 見事ですわ! 綺麗にお座りできましたわ!」
「はい。ですが、まだ整えるべきところがございます」
マリアはそう申しますと、ドレスの生地を手に取りました。
少し乱れてしまっていたお洋服を、マリアが整えていきます。
布のしわを手で優しくならして、整えております。
さらに、マリアは懐から清潔な小さな櫛を取り出しました。
昨夜の添い寝で、少しだけ乱れてしまっていた金色の髪。
マリアはメリーちゃんの頭のてっぺんから、肩へと流れる髪を、丁寧に梳かし始めました。
さらさらと、髪が解かれておりました。
そして、白い磁器の頬に少しかかっていた髪も、綺麗にそろえられていきました。
マリアは最後に、乱れもないことを確かめると、メリーちゃんから手を離しました。
「お嬢様。いかがでしょうか?」
「素晴らしいわ、マリア。ねぇ? メリーちゃんもこれでよろしいでしょう?」
相変わらず、メリーちゃんは何も語りませんけれど。
朝の光を全身に浴びて、その青いガラスの目が、深く澄んだ輝きを見せ始めていました。
まるで、青い花が窓辺にひとつ咲いたようでございました。




