第三十七話:申し上げにくいことが、ございますの
がさがさという音は、もう聞こえてまいりませんでした。
青い麦の穂が、さわさわと音を立てて揺れております。
「もう、よろしいかしらね?」
「……はい。あの音も、もう聞こえませんので、大丈夫かと存じます」
マリアの声は、いつもの落ち着きを取り戻しておりました。
わたくしは、マリアの目を覆っていた手を、そっと離しました。
それから、わたくしたちは離れました。
少し寂しいような気もいたしましたが、いつまでもこうしているわけにもまいりません。
「マリア。ほんの少しだけ、畑を見てもよろしくて?」
「駄目でございます。まずは、私が拝見いたします」
「でも、マリアこそ、さっき……」
「お嬢様」
マリアは頑として譲りません。
「分かりましたわ」
マリアは姿見に手を添えて、畑のほうへちらりと目をやりました。
わたくしは、マリアのお顔だけを見つめておりました。
マリアの視線は、すぐにわたくしのほうへ戻ってまいりました。
「悪霊は、見えません」
「本当ですの?」
「はい」
「では、わたくしも、ちらりとだけ」
マリアは、小さく頷きました。
わたくしは、帽子にそっと手を添えて、遠目にちらりと麦畑を見ました。
白いものは、見えません。
目に入ったのは、青い麦が風に揺れているところだけでございました。
「姿見に、毛布を掛け直しましょう」
「かしこまりました。すぐに」
落ちたままの厚手の毛布が、丸まっておりました。
マリアがしゃがみ込み、毛布を拾い上げます。
わたくしたちは手を伸ばして毛布を持ち上げました。
そして、毛布を被せます。
厚い毛布が、すとんと垂れ下がりました。
マリアが、毛布を整えようとしておりました。
そのマリアの手が、ぴたりと止まりました。
毛布をもったまま、動かなくなったのでございます。
「マリア? どういたしましたの?」
「……お嬢様」
「はい?」
「少し、こちらをご覧いただけますでしょうか。お手は、お触れになりませんよう」
わたくしは首を傾げながら、マリアのそばへと回りました。
姿見の鏡が割れておりました。鏡に映っている青い麦が、ずれて見えます。
「まあ……?」
「……ひびが入っております」
「ひび、ですの?」
「はい。鏡が割れております。そのひびがまっすぐに走っております。これに触れれば、手を切ってしまいます」
マリアは、隠すように鏡へ毛布をかけました。
どうして、ひびが入ってしまったのでしょう。
わたくしは少しだけ考えました。
「マリア。もしかしたら、悪霊さんがご自分のお姿をご覧になった証かもしれませんわ!」
「左様でございますか」
「ええ、きっとそうですわ」
「しかし、お嬢様。問題は別にございます」
「え? 何か?」
うーん、とわたくしは思いました。
「こちらの姿見は、町長様のものでございます」
「あら、そうでしたわ!」
わたくしは、悪霊への考察で頭がいっぱいでした。
「うーむ。けれど町長様にも、きちんとご説明すれば、分かってくださいますわ!」
「……そうであれば、よろしいのですが」
「とにかく、早く毛布を結びましょう!」
「かしこまりました。麻の紐を締め直します」
マリアが手早く紐を結び、姿見を毛布で包みました。
「ギルドマスター様を、お呼びいたしましょう」
「ええ。……マスター! 用が済みましたわ!」
わたくしはガストンさんがおられる方向へ、声を張り上げました。
しばらくして、ガストンさんが畝の間を近づいてまいりました。
「呼んだか、嬢ちゃんたち。さっさと帰るぞ」
ガストンさんは、よいしょと姿見を背負いはじめようとしています。
「はい、ギルドマスター様。ただ、あまり鏡を揺らさぬようにお運びくださいませ。危のうございます」
「あ? 何が危険なんだ?」
「……道に着いてから、申し上げます」
そのマリアの回答に、ガストンさんは首を傾げながらも、姿見を背負い上げました。
うつむいたままでは足元しか見えませんので、マリアが一歩ごとに声で導きます。
わたくしたちは、そろそろと畝の間を戻り、畑から出て、道まで無事にたどり着きました。
ガストンさんが、姿見をそっと下ろします。
それから麦わら帽子を脱いで、大きく息を吐きました。
「で、悪霊のほうはどうなった。片付いたのか」
ガストンさんの低い声に、わたくしとマリアは顔を見合わせ、小さく頷き合いました。
「あの……悪霊のほうは、見えなくなりましたわ」
「見えなくなった? 消えたのか?」
「それは、誰にも分かりませんの。ただ、畑にはもう姿がございませんわ」
「ご家族には、まだ作法を続けていただくのがよろしいかと存じます」
「ふん。まあ、姿が見えねえなら、当面は畑仕事もできるだろうが」
ガストンさんは鼻を鳴らしました。
道に下ろした姿見に目を向けます。
「それから、マスター。もうひとつ、ご報告がございますの」
「申し上げにくい事態が発生いたしました」
わたくしが口火を切ると、マリアもすかさず言葉を重ねました。
ガストンさんは怪訝そうに目を細め、顎髭をじょりじょりとさすりました。
「なんだ、藪から棒に。畑の麦でも踏み荒らしたか?」
「そのような無作法はいたしませんわ!」
「畑の作法は守りました」
「じゃあ何だ。もったいぶらずに言えよ」
わたくしは堂々と申し上げました。
「姿見に、ひびが入りましたの!」
「……あ?」
顎髭をさすっていた太い手が止まりました。
「いま、何て言った?」
「ひびが入りました、と申し上げましたわ」
「細いひびが、縦に走っております」
マリアが補足いたしました。
ガストンさんは目を丸くし、それから勢いよく両手で頭を抱えました。
「おいおいおい! 冗談だろ、お前さんたち!」
「冗談ではございませんわ。きっと、悪霊さんがご自分のお姿をご覧になった証ですのよ!」
「ひびが入ったことだけは、真実でございます」
「真実とか言うな! よりによって、あの町長の姿見にか!?」
ガストンさんは頭を抱えたまま、唸り声を上げました。
大きな身体を縮めるようにして、土を蹴りつけます。
「あれがだれのモノだか知ってんのか! 町長の自慢の品だぞ!」
「存じておりますわ。ですから、町長様には、わたくしからきちんとご説明いたします。悪霊を鎮めるお役に立ったのですもの、きっと分かってくださいますわ!」
「分かるわけねえだろ!」
ガストンさんは叫ぶように声を荒らげました。
それから、また両手で頭を抱えます。
「あの町長が、悪霊の話なんぞで機嫌を直すタマに見えるか!?」
「大丈夫ですわ。町長様は、筋の通ったお話なら、ちゃんと聞いてくださるお方ですもの」
「どこからその自信が出てくるんだ……! それにな、運んだのは俺なんだ! あの町長に頭を下げて、小言を食らうのは誰だと思ってんだ! 俺だぞ! この俺が、あの町長に嫌味を言われに行かなきゃならねえんだ!」
ガストンさんは心底嫌そうに顔をしかめました。
あの大柄なギルドマスターが、ここまで嫌がる姿を見るのは初めてでございました。
「あいつはな、小言を言わせたら日が暮れるまで止まらねえんだぞ!」
「まあ、日が暮れるまでですの?」
「俺がギルドの部屋でどれだけ立ったまま説教を食らうと思ってんだ! 耳にタコができるどころの騒ぎじゃねえぞ!」
「でしたら、わたくし、お詫びにお菓子でも焼いて持参いたしますわ!」
「やめとけ! 菓子で機嫌が直るような相手なら、最初から苦労はしねえよ!」
ガストンさんは、頭を抱えたまま唸っております。
ヴィクトリアさんのお小言を受けるのがガストンさんだと思うと、さすがに申し訳なく思えてまいりました。
「マスターには、ご苦労をおかけしますわ」
「お詫びの言葉もございません」
「……チッ。まあ、入っちまったもんは仕方ねえ。割れて粉々になったわけじゃねえんだろ?」
「はい。ひびが走っているだけで、砕けてはおりませんわ」
「鏡が欠けたりはしておりません」
ガストンさんは、荷車のほうへと目を向けます。
荷車にはロバが繋がれており、のんびりと草を食んでおりました。
「だが、この姿見、荷車に乗せるわけにはいかねえな」
「乗せてはなりませんの?」
「当たり前だ。この荷車で道を走ったら、ガタガタ揺れるに決まってるだろ。その揺れで、ひびが広がって割れちまったらどうすんだ」
「まあ……確かに、その通りですわね」
「はい。これ以上傷を深くするわけにはまいりません」
「だろ。割れて粉々になった姿見を持って行ってみろ、町長がどんな顔をするか分かったもんじゃねえぞ」
そう言われて、荷車に揺られていく姿見のことを思いますと、これ以上ひびが深くなって粉々に割れてしまわないかと心配でなりませんでした。
「町長の返事が来るまでは、畑の家に頼んで、これを置かせてもらうぞ」
「畑の家、でございますね」
「ああ。あそこなら歩いてすぐだ。揺らさずに運べる」
ガストンさんが、毛布を掛けた姿見をまた背負い、畑の家へと向かいました。
戸口に立ちますと、マリアが戸を叩きました。
「おい、頼まれていたギルドの者だ」
がたがたと物音がして、木製の戸が開かれました。
顔を出したのは、奥様でございました。
奥様は、戸口に立っている大きなガストンさんを見て、少し驚いたようでございました。
「……あ、あの……?」
「畑の悪霊は、とりあえず姿が見えなくなったぞ」
「まあ……本当ですか……?」
奥様は、ほっと息を漏らしました。
けれど、その表情には深い疲れが残っておりました。
頬は少しやつれており、笑顔を作る余裕もないようでございます。
ガストンさんが続けます。
「それから、頼みがある。この姿見を、町長の指示があるまで預かってほしいんだ。運ぶ途中で揺らすわけにいかん事情があってな」
「姿見を、ですか……? はい、それくらいでしたら、構いませんけれど……」
奥様は丁寧に頷いて、戸を大きく開けてくださいました。
ご主人と娘さんも姿を見せました。
ご家族は皆様、息子さんのことで疲弊しておられるのか、口が重く、黙っていらっしゃいました。
ガストンさんが、毛布をかぶせた姿見を家の中へ下ろしました。
そして、この姿見は、毛布を掛けたまま、畑の家へおいていくことになりました。
家の外へ出ると、涼しい風が畑を渡ってまいりました。
ガストンさんがロバの手綱を引きます。
「俺は荷車を返しながら、町長にひびのことを言いに行ってくる。お前さんたちも、さっさと館へ戻りな」
「マスター、本当に申し訳ございません」
あらためて、わたくしは謝罪いたしました。
「ふん。言われ慣れてるから気にするな。じゃあな」
ガストンさんはぶっきらぼうに手を振ると、荷車とともに町へと向かって歩き出しました。
わたくしたちは、歩いて森の館へと戻りました。




