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婚約破棄してわたくしを追放するのは結構ですが、殿下の後ろにいる女は人間ではありません  作者: 速水静香
第五章:くねくね

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第三十六話:鏡を盾に、息を潜めて

 風は、変わらず畑を吹き抜けておりました。

 足元の青い麦の茎も、風に合わせてさわさわと揺れております。

 けれど、がさがさという音も聞こえ続けておりました。

 おそらく、あの悪霊が、すぐそこまで来ているのでございます。


「今、お嬢様のお示しになった畝へと姿見は向いております」


 マリアが、静かに申しました。


「分かりましたわ」


 わたくしは足元を見つめたままでございます。

 今、この畑にいるのは、わたくしたちだけでございましょう。

 畑から一歩出た道では、ガストンさんが待っていらっしゃるはずでございますから。


「姿見を盾にして、後ろへ回りますわよ」

「かしこまりました」


 わたくしたちは、ガストンさんが立てていった姿見を盾にするように、ささっと回り込みました。

 毛布が、麻の紐ごと丸まって落ちておりました。

 ガストンさんが、走りざまに落としていった毛布でございます。


「わぁ!」


 わたくしがようやく、顔を上げます。

 すると、そこには茶色い板が広がっております。

 これは間違いなく、姿見の裏でしょう。


「マリア、あとは待つだけですわね」

「はい、お嬢様」


 わたくしたちは、姿見の裏に隠れるようにおりました。

 がさがさという音は、先ほどよりも近くなっているようでございます。

 風に揺れる麦の音とは、やはり違います。

 その音のなかで、わたくしたちの吐く息が、小さく重なり合っておりました。

 悪霊の姿を、わたくしは見ておりません。

 がさがさ、と音がすぐそこで鳴りました。


 その瞬間でございました。


 わたくしはマリアの白いお顔だけを、じっと見つめ続けていたのでございます。

 だからこそ、わたくしは気づいたのでございます。

 それは、ほんの一瞬のことだと思います。


 マリアの目が、ふっと動きました。


 姿見から、青い麦が広がる畑のほうへと、その視線が動いておりました。

 けれど、その目が戻ってまいりません。

 畑のほうを向いたままで、まばたきひとついたしません。

 そのマリアの目が、わずかに細められました。

 そこにある、何か遠くにあるものを見ようとするかのようでございました。


「マリア?」


 お返事はございません。

 マリアの唇が、かすかに動いております。

 けれど、声にはなっておりません。

 それを見て、笑いながら体を揺らし続けているという、息子さんのお話を思い出してしまいました。


 考える間もございませんでした。

 わたくしはとっさに手を伸ばして、マリアの手を取ります。

 マリアの手は、氷のように冷たくなっておりました。


「マリア!」


 わたくしは、呼びかけました。

 マリアを、わたくしへと引き寄せました。


「見てはなりませんわ、マリア」


 わたくしは、マリアの両目を覆いました。

 昨日、マリアがわたくしにしてくれたのと、同じように。

 わたくしが覆った手のなかで、マリアのまぶたが閉じられるのが分かりました。

 マリアの唇が、小さく開かれました。

 何かを言おうとして、けれど声にならない吐息だけが漏れております。

 声が出てこない様子でございました。


「……お嬢、様」


 ようやく、マリアの口から声がこぼれました。


「大丈夫ですわ、マリア」


 わたくしは、小さく微笑んで申し上げました。


 姿見から見えない場所では何が起きているのか、どのようなことが繰り広げられているのかは、今のわたくしたちには一切うかがい知れません。

 見えないのでございます。

 いえ、見てはならないのでございます。

 ただ、わたくしたちは、姿見を盾にして、そこで息を潜めているだけでございました。

 この姿見で、あの悪霊が己の姿を見たのかどうかすらも、分からないことでございます。

 少なくとも、遠くからは叫び声なんてものは、まったく聞こえてまいりません。

 聞こえるのは、風に揺れる麦の音と、がさがさという音だけでございました。


 わたくしの視界にあるのは、足元に落ちた厚い毛布と、姿見、そしてマリアだけでございました。

 毛布は土に丸まり、少しも動いておりません。

 姿見の板が、盾のように立ち塞がっております。

 茶色い板をよく見ますと、古い傷や節が刻まれており、それが不思議と頼もしく見えました。


「……お嬢様」

「声を出してはなりませんわ、マリア。まだ、動いてはいけませんの」


 わたくしは囁くように申し上げました。

 マリアは無言のまま、こくりと小さく頷きました。


 がさがさという音は、まだ止んではおりませんでした。

 風に揺れる麦の音のなかで、それだけが気になりました。


 わたくしたちは、身動きひとつせずに待ち続けました。

 どれほどの時が経ったのでしょうか。

 ふと、がさがさという音が、間遠になったような気がいたしました。

 がさ、と一度だけ鳴って、それきり聞こえなくなりました。

 そして。

 耳に届くのは、さわさわという音だけになりました。


 畑の音が、元に戻ったのでございます。

 けれど。

 わたくしたちは、盾となっている、この姿見からは動こうとはいたしませんでした。

 あの白い悪霊が見えなくなったのかどうか、去ったのかどうか、そんなことは後回しでございます。

 ただ、わたくしとマリアは、この場所で一緒におりました。


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