第三十二話:あの方、ご自分のお姿をご存じかしら
「お嬢様、こちらでございます」
「分かったわ、マリア」
わたくしは真っ暗なまま、マリアに導かれながら歩いております。
マリアが頑なに手で目を隠すものですから、真っ暗なのです。
けれども、どこへ向かっているかは分かりました。
ひとまず、あれが見えないところまでマリアに導かれているのです。
「お嬢様、もう結構でございます」
ようやく、マリアが両手を離しました。
見ると、ずいぶんと道を戻っておりました。
「お嬢様。二度と、あれをご覧にならないと、お約束くださいませ」
「……ええ。約束いたしますわ」
マリアに、ここまで何度も言わせてしまったのですもの。
もしかしたら、あの息子さんや前世のお話のようにくねくねとしながら、不気味な笑みを浮かべていたかもしれないのです。
わたくしの悪い癖かもしれない、とちょっぴりだけ思いました。
なので、今回ばかりは、好奇心よりも、危ないことを避けるほうが大事なのだ、と反省いたしました。
「マリアは心配性ですわね」
「当然の勤めでございます」
わたくしたちが顔を伏せたまま歩いて畑の家へと戻りますと、聞こえていた青い麦の擦れ合う音は、戸を閉めた瞬間に静かに遠ざかりました。
家に足を踏み入れますと、奥様が青ざめたお顔で駆け寄ってまいりました。
「ご無事でしたか……? お怪我はございませんか」
「ええ、何ともございませんわ。とても元気ですもの」
わたくしが微笑んで答えますと、奥様は深く息を吐き出しました。
ご主人は先に戻っておられ、椅子に腰を下ろしておりました。
「おれが言ったとおりだろう。あそこには、とんでもないものがいるんだ」
ご主人の声は低く沈んでおりました。
「ええ、畑には白いものが動いておりましたわ。とても面白い動きをしていましたの」
「面白がっている場合ではありませんよ、お嬢さん」
奥様が困ったようなお顔で言いました。
「あれは、絶対に見てはならんものだ」
ご主人が自らに言い聞かせるように仰いました。
「ご主人は、あの悪霊について、昔からご存じでしたの?」
わたくしが尋ねますと、ご主人は首を横に振りました。
「知らねえよ。昔からいたわけじゃねえ。息子のことがあって、初めて知ったんだ」
「まあ、最近現れたものですのね」
「ああ。いつから畑に来たのかも分からねえ。いつの間にか、あの麦畑にいたんだ」
ご主人は床を見つめたまま、言葉を続けました。
「おれが知っているのは、見れば、ああなる、ってことだけだ。それ以外は、何ひとつ知らねえ。いや、誰に聞いたって分かるはずがねえんだ」
ご主人がおっしゃるとおりでした。
あれがどうやって来たのか、どうすれば立ち去るのか誰にも分からないのです。
まったく不可思議な悪霊でございます。
さて、帽子をお借りして、悪霊を見ないためのお作法も教わりました。
ですが、わたくしたちの目的は、麦の世話をすることではございません。
あの白い悪霊を、どうにかして鎮めることでございます。
「ふぅむ」
わたくしは、少し考えを巡らせました。
悪霊に出会いましたら、まずはお話を聞くのがわたくしのやり方でございます。
ですが、あの悪霊は言葉を交わせる相手ではなさそうです。
それどころか、あれを理解しようとするのは、危ういことでございます。
ですから、あの方とお話をするのは、とても難しゅうございます。
けれど、お話ができないからといって、乱暴に追い払うのは淑女のすることではございません。
どのような悪霊であっても、まずは礼を尽くすのが基本でございます。
直接ご挨拶ができないのであれば、せめて相手にも、何かお気づきいただきたいものです。
あの方の立場になって考えてみますと、とても不思議なことに思い至りました。
「……マリア」
「はい、お嬢様」
「あの方、ご自分のお姿を、ご覧になったことがないのではありませんこと?」
わたくしの言葉に、マリアは首を傾げました。
「ご自分のお姿、でございますか」
「ええ。あの方は麦畑の真ん中で、ずっとくねくねと激しく揺れていらっしゃいますでしょう? 誰ともお話しなさらず、ずっと一人で動いておられるのですわ」
わたくしは続けました。
「ご自分がどのようなお姿をしていて、どんな風に動いているのか、きっとご存じないはずですの。ですから、それらを見せて差し上げたいのですわ」
「お嬢様?」
「わたくしも身支度をするときは、自らの姿を見ますわ」
「いいえ、お嬢様の支度は私がいたしますが」
「あらあら、うふふ。そうでしたわね」
わたくしは、マリアがわたくしの髪を梳いていることを思い出しておりました。
「……鏡をお使いになる、ということでございますね」
「まあ、そうですの、マリア。話が早くて助かりますわ! その通りですの!」
わたくしは手を叩いて喜びました。
鏡を見せて差し上げれば、ご自分のお姿をご覧になれるはずでございます。
相手に、ご自分を知っていただくのです。
これは、あの白いくねくねとしたお方に対する、わたくしなりのご挨拶でございます。
礼儀を尽くすというのは、相手の立場に立って考えることから始まるのです。
「お嬢様のお考えは理解いたしました。しかしながら、それを実行するためには、幾つかの行うべきことがあろうかと存じます」
「それは、どのようなことですの?」
「まずは、鏡の大きさでございます。あのお方に近づくことは危険です。ですから、あのお方自らが遠くから見えるような、大きな鏡が必要となります」
「遠くからも見える大きな鏡……ずいぶん大きなものになりますわね」
「左様でございます。小さな手鏡程度では、お相手にご自分のお姿を見せることが叶いません」
マリアが言葉を続けます。
「次に、運ぶ手立てでございます。畑には、大きな鏡を掛けるような仕掛けはございません。持ち運びができて、自ら立つ鏡が必要でございます」
「畑まで運んでいって、そこで立てるのですものね」
「はい。ただ、大きな鏡は重く、割れやすいものでございます。畑までの道は、石もあれば轍もございます。私ども二人で抱えて、割らずに運び切れるかどうか……」
「まあ、まあ。それは、鏡が見つかってから考えることにいたしましょう」
「左様でございますね」
こうして、わたくしたちのすることが決まりました。
しかし、ひとつ問題がございました。
「ですがマリア、大きな鏡なんて、今ここにございませんわね」
「はい。私どもの館にも、そのような大きな鏡は見当たりませんでした」
「では、どこかで手に入れなければなりませんわね」
「とりあえずは町へ戻り、探す必要がございますね」
「ええ。町へ行けば、大きな鏡を扱っているお店があるかもしれませんもの」
わたくしたちのやり取りを黙って聞いていたご主人が、呆れたようにため息を吐きました。
「……おいおい、あんたたち、本気なのか」
「ええ、とても本気ですわ」
わたくしが笑顔で答えますと、ご主人は渋い顔をいたしました。
「……まあ、ギルドに頼んだのはこっちだ。やり方は、あんたたちに任せる。作法さえ守るなら、畑にはいつでも好きに入ってくれ」
「まあ、よろしいのですか?」
「ああ。だが、息子と同じになっちまっても、おれは知らねえぞ」
「はい、もとより覚悟の上でございます」
わたくしはにっこりと微笑んで頷きました。
「ありがとうございます。それでは、大きな鏡を探しに参りますわね」
「ああ、気をつけて行きな」
奥様と娘さんも、心配そうに見送ってくださいました。
わたくしたちは帽子をかぶったまま、畑の家を後にいたしました。




