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婚約破棄してわたくしを追放するのは結構ですが、殿下の後ろにいる女は人間ではありません  作者: 速水静香
第五章:くねくね

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第三十二話:あの方、ご自分のお姿をご存じかしら


「お嬢様、こちらでございます」

「分かったわ、マリア」


 わたくしは真っ暗なまま、マリアに導かれながら歩いております。

 マリアが頑なに手で目を隠すものですから、真っ暗なのです。

 けれども、どこへ向かっているかは分かりました。

 ひとまず、あれが見えないところまでマリアに導かれているのです。


「お嬢様、もう結構でございます」


 ようやく、マリアが両手を離しました。

 見ると、ずいぶんと道を戻っておりました。


「お嬢様。二度と、あれをご覧にならないと、お約束くださいませ」

「……ええ。約束いたしますわ」


 マリアに、ここまで何度も言わせてしまったのですもの。

 もしかしたら、あの息子さんや前世のお話のようにくねくねとしながら、不気味な笑みを浮かべていたかもしれないのです。

 わたくしの悪い癖かもしれない、とちょっぴりだけ思いました。

 なので、今回ばかりは、好奇心よりも、危ないことを避けるほうが大事なのだ、と反省いたしました。


「マリアは心配性ですわね」

「当然の勤めでございます」


 わたくしたちが顔を伏せたまま歩いて畑の家へと戻りますと、聞こえていた青い麦の擦れ合う音は、戸を閉めた瞬間に静かに遠ざかりました。

 家に足を踏み入れますと、奥様が青ざめたお顔で駆け寄ってまいりました。


「ご無事でしたか……? お怪我はございませんか」

「ええ、何ともございませんわ。とても元気ですもの」


 わたくしが微笑んで答えますと、奥様は深く息を吐き出しました。

 ご主人は先に戻っておられ、椅子に腰を下ろしておりました。


「おれが言ったとおりだろう。あそこには、とんでもないものがいるんだ」


 ご主人の声は低く沈んでおりました。


「ええ、畑には白いものが動いておりましたわ。とても面白い動きをしていましたの」

「面白がっている場合ではありませんよ、お嬢さん」


 奥様が困ったようなお顔で言いました。


「あれは、絶対に見てはならんものだ」


 ご主人が自らに言い聞かせるように仰いました。


「ご主人は、あの悪霊について、昔からご存じでしたの?」


 わたくしが尋ねますと、ご主人は首を横に振りました。


「知らねえよ。昔からいたわけじゃねえ。息子のことがあって、初めて知ったんだ」

「まあ、最近現れたものですのね」

「ああ。いつから畑に来たのかも分からねえ。いつの間にか、あの麦畑にいたんだ」


 ご主人は床を見つめたまま、言葉を続けました。


「おれが知っているのは、見れば、ああなる、ってことだけだ。それ以外は、何ひとつ知らねえ。いや、誰に聞いたって分かるはずがねえんだ」


 ご主人がおっしゃるとおりでした。

 あれがどうやって来たのか、どうすれば立ち去るのか誰にも分からないのです。

 まったく不可思議な悪霊でございます。

 さて、帽子をお借りして、悪霊を見ないためのお作法も教わりました。

 ですが、わたくしたちの目的は、麦の世話をすることではございません。

 あの白い悪霊を、どうにかして鎮めることでございます。


「ふぅむ」


 わたくしは、少し考えを巡らせました。

 悪霊に出会いましたら、まずはお話を聞くのがわたくしのやり方でございます。

 ですが、あの悪霊は言葉を交わせる相手ではなさそうです。

 それどころか、あれを理解しようとするのは、危ういことでございます。

 ですから、あの方とお話をするのは、とても難しゅうございます。

 けれど、お話ができないからといって、乱暴に追い払うのは淑女のすることではございません。

 どのような悪霊であっても、まずは礼を尽くすのが基本でございます。

 直接ご挨拶ができないのであれば、せめて相手にも、何かお気づきいただきたいものです。

 あの方の立場になって考えてみますと、とても不思議なことに思い至りました。


「……マリア」

「はい、お嬢様」

「あの方、ご自分のお姿を、ご覧になったことがないのではありませんこと?」


 わたくしの言葉に、マリアは首を傾げました。


「ご自分のお姿、でございますか」

「ええ。あの方は麦畑の真ん中で、ずっとくねくねと激しく揺れていらっしゃいますでしょう? 誰ともお話しなさらず、ずっと一人で動いておられるのですわ」


 わたくしは続けました。


「ご自分がどのようなお姿をしていて、どんな風に動いているのか、きっとご存じないはずですの。ですから、それらを見せて差し上げたいのですわ」

「お嬢様?」

「わたくしも身支度をするときは、自らの姿を見ますわ」

「いいえ、お嬢様の支度は私がいたしますが」

「あらあら、うふふ。そうでしたわね」


 わたくしは、マリアがわたくしの髪を梳いていることを思い出しておりました。


「……鏡をお使いになる、ということでございますね」

「まあ、そうですの、マリア。話が早くて助かりますわ! その通りですの!」


 わたくしは手を叩いて喜びました。

 鏡を見せて差し上げれば、ご自分のお姿をご覧になれるはずでございます。

 相手に、ご自分を知っていただくのです。

 これは、あの白いくねくねとしたお方に対する、わたくしなりのご挨拶でございます。

 礼儀を尽くすというのは、相手の立場に立って考えることから始まるのです。


「お嬢様のお考えは理解いたしました。しかしながら、それを実行するためには、幾つかの行うべきことがあろうかと存じます」

「それは、どのようなことですの?」

「まずは、鏡の大きさでございます。あのお方に近づくことは危険です。ですから、あのお方自らが遠くから見えるような、大きな鏡が必要となります」

「遠くからも見える大きな鏡……ずいぶん大きなものになりますわね」

「左様でございます。小さな手鏡程度では、お相手にご自分のお姿を見せることが叶いません」


 マリアが言葉を続けます。


「次に、運ぶ手立てでございます。畑には、大きな鏡を掛けるような仕掛けはございません。持ち運びができて、自ら立つ鏡が必要でございます」

「畑まで運んでいって、そこで立てるのですものね」

「はい。ただ、大きな鏡は重く、割れやすいものでございます。畑までの道は、石もあれば轍もございます。私ども二人で抱えて、割らずに運び切れるかどうか……」

「まあ、まあ。それは、鏡が見つかってから考えることにいたしましょう」

「左様でございますね」


 こうして、わたくしたちのすることが決まりました。

 しかし、ひとつ問題がございました。


「ですがマリア、大きな鏡なんて、今ここにございませんわね」

「はい。私どもの館にも、そのような大きな鏡は見当たりませんでした」

「では、どこかで手に入れなければなりませんわね」

「とりあえずは町へ戻り、探す必要がございますね」

「ええ。町へ行けば、大きな鏡を扱っているお店があるかもしれませんもの」


 わたくしたちのやり取りを黙って聞いていたご主人が、呆れたようにため息を吐きました。


「……おいおい、あんたたち、本気なのか」

「ええ、とても本気ですわ」


 わたくしが笑顔で答えますと、ご主人は渋い顔をいたしました。


「……まあ、ギルドに頼んだのはこっちだ。やり方は、あんたたちに任せる。作法さえ守るなら、畑にはいつでも好きに入ってくれ」

「まあ、よろしいのですか?」

「ああ。だが、息子と同じになっちまっても、おれは知らねえぞ」

「はい、もとより覚悟の上でございます」


 わたくしはにっこりと微笑んで頷きました。


「ありがとうございます。それでは、大きな鏡を探しに参りますわね」

「ああ、気をつけて行きな」


 奥様と娘さんも、心配そうに見送ってくださいました。

 わたくしたちは帽子をかぶったまま、畑の家を後にいたしました。


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