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婚約破棄してわたくしを追放するのは結構ですが、殿下の後ろにいる女は人間ではありません  作者: 速水静香
第五章:くねくね

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第三十一話:青い麦畑に、白いもの

 ご主人は、木造りの素朴な机に両手をつき、深い溜息を吐き出しながら、腰を上げました。


「……あんたが、これから何をしたいのか。おれにはまったく分からねえ」


 ご主人は、そのまま続けました。


「だが、畑へ行くというなら、そこまで連れていってやる」

「まあ、案内してくださいますの?」

「ああ。だが、おれはあんたを畑へ案内するだけだ。畑にいるあれを見ねえし、何もしねえ」

「ええ、それで構いませんわ。そこからはわたくしたちの出番ですもの」


 わたくしが笑みを浮かべて答えますと、奥様が青ざめたお顔でご主人を見つめました。


「お父さん、本当に畑へ行くの……?」

「ああ。ギルドから来てくれたんだ。畑の場所くらいは教えねえとな」


 ご主人は答えました。

 奥様はそれ以上、なにもおっしゃいませんでした。

 娘さんも、黙り込んだままでございます。


「ですが、皆様はこうして畑で麦を育てていらっしゃいますわね。あの場所で、働けているのはどうしてかしら」


 わたくしが尋ねますと、奥様がそっと顔を上げました。


「お父さんが、一つの作法を作ってくれたからですよ」

「なるほど、作法。ご主人がお作りになった作法があるのですね」

「ああ」


 ご主人が頷きました。


「息子がああなって、畑を捨てるわけにもいかねえからな。麦を育てなきゃ、おれたちは暮らしていけねえ。だから、おれが決めたんだ。畑に出るときは、なるべく顔を上げないこと。足元だけを見て働くことだ」

「顔を伏せて作業をなさるのですわね」

「そうだ。遠くを見なければ、畑の手入れも麦の世話もできるんだ」


 娘さんが言葉を続けました。


「お父さんに言われて、畑に行くときは、みんなつばの広い帽子をかぶるの。深くかぶっていれば、うっかり顔を上げても、遠くが見えにくいから」

「なるほど、遠くを見ないための帽子でございますね」


 マリアが納得したように呟きました。

 ご主人は自らの靴を見つめながら、ぽつりと言葉を重ねました。


「畑に出て草を抜いているとき、遠くのほうで白いのが目に入っちまうことはある。そのたびに、目を持っていかれそうになる」


 ご主人は、ゆっくりと続けます。


「だがな、それをじっと見なきゃいいんだ。足元の草だけに手を動かしていれば、無事に家へ戻ってこられる」


 家族の皆様は、その作法をきちんと守りながら、麦畑で働き続けているのでございますね。

 顔を伏せたままであれば、畑仕事は十分にこなせるのでしょう。

 ご家族のお話を伺っておりますと、そのことがよく分かりました。


「畑へ行かれるなら、これをお持ちください」


 奥様が戸棚へ歩いていき、二つの帽子を手にして戻ってまいりました。


「わたしたちが使っているものですけれど」


 差し出されたのは、素朴な帽子でございました。

 粗く編まれた麦で作られており、丸いつばが大きく広がっております。

 いわゆる麦わら帽子でございます。


 わたくしは、その麦わら帽子を受け取り、頭に載せてみました。


「まあ! これは見えにくいですわ」


 帽子のつばが広いので、たしかに遠くの景色が見えにくくなります。


「マリア、ご覧になって。わたくしに似合いますかしら」


 マリアは頭を下げました。


「お嬢様のドレスに、つばの広い麦の帽子というのは、少々珍しい装いでお見受けいたします」

「ふふ、新しい流行になりそうですわね」

「町で流行るとは思えません、お嬢様」

「あら、とても素敵だと思いますのに」

「お嬢様がお気に召すのは結構でございますが、社交界でお召しになれば、皆様が困惑いたします」

「まあ! わたくし、そのような粗相をするつもりはございませんわ」

「左様でございますか」

「マリアも、かぶってみてくださいな」


 わたくしはもう一つの帽子をマリアに手渡しました。

 マリアは、麦の帽子をかぶりました。もちろん、メイドの被り物のままでございます。


「まあ! マリア、とてもよく似合っておりますわ!」

「メイド服に麦の帽子というのは、些かちぐはぐな取り合わせに見えると存じますが」

「いいえ、とても頼もしく見えますわよ。麦畑の守り人のようですわ」

「買い被りでございます、お嬢様。私はただのメイドでございます」

「ふふ、これなら二人で畑に出ても、安心ですわね」

「安心とは申しましても、油断は禁物でございます。ですが、顔を伏せて見えないようにする点におきましては、とても実用的でございます」

「ええ、本当にそうですわね。貸してくださってありがとうございます」


 わたくしがお礼を言いますと、奥様は少しだけ表情を和らげました。

 ご主人は、戸口に掛けてあった麦わら帽子を取って深くかぶり、勝手口のほうへと歩き出しました。


「マリア、参りましょう」

「はい、お嬢様。お召し物がお汚れにならないようにお気をつけてくださいませ」


 マリアが、わたくしについてまいりました。

 家の勝手口から外へ出ますと、わたくしは帽子のつばを持ち上げました。

 見えます。青い麦畑が、どこまでも広がっておりました。

 ご主人は顔を伏せたまま、土の道を無言で進んでいかれます。

 ふだんから、とても気持ちの良い風の吹き渡る畑なのでございましょう。

 この吹き抜ける風に合わせて、麦の穂がさわさわと心地よい音を立てて、波打っておりました。

 草の清々しい匂いが、風に乗ってふわりと運ばれてまいります。

 この麦の波を見ているだけで、わたくしは眠りに落ちる直前のような心地になりました。


「ここまでだ」


 ご主人は、足を止めました。

 深く頭を垂れたまま、動こうとはなさいません。

 ご自身の靴だけを、じっと見つめておられます。

 今、目の前に広がっている、ご主人ご自慢の畑を見るような素振りは、まったくございませんでした。


「特に用もねえのに、俺は畑へ行けねえ。あんたたちも、あれを見たらおかしくなる前に引き返せよ」

「教えてくださって、感謝いたしますわ」


 わたくしが丁寧にお礼を申し上げますと、ご主人は何も答えず、ただもと来た道を引き返していきました。


「ふふ、とても広くて、気持ちのよい畑ですわね」


 わたくしが言いますと、マリアがすぐに応じました。


「左様でございますね。風がよく抜けており、麦も健やかに育っているようにお見受けいたします」

「ええ。こんなに素晴らしい畑ですのに、悪霊が出てしまうなんて、本当にもったいないことですわ」

「はい。この麦の収穫に障りが出れば、町の方々にとっても大きな痛手となりましょう」


 マリアは、いつもの声で返しました。

 麦の穂は、風を受けてさわさわと揺れ続けております。

 その音は耳に心地よく、本当にのどかな景色でございます。

 それでいて、青い麦が風に揺れる様子は、いくら見ていても飽きることがございません。

 わたくしたちはそこから、ずっと風景を眺めておりました。

 そのとき、ずっと遠くに、なにか白いものが見えました。

 遠すぎて、どのような姿をしているのかまでは分かりません。

 ただただ、白いものが、麦畑に立っております。

 畑の麦は、どれも風に吹かれて、そろってなびいております。

 それなのに、その白いものだけは、風とはまるで違う動きをしておりました。


「マリア、あの白いもの、風とは違う動きをしておりますわ」

「左様でございますね」


 マリアは、興味もなさそうに答えました。

 でもまあ、なんて面白い動きでございましょう。

 畑の中で、白いものだけがくねくねと、妙な動きを続けているのです。


 笑いながら体を揺らし続けているという、息子さんのお話。

 麦畑で、くねくねと揺れ続ける白いもの。

 わたくしが前世で聞いた、あるお話が思い起こされます。


「……くねくね!」


 わたくしは思わず、小さく声を漏らしました。

 間違いありません。あれが、あの悪霊なのです。

 ただ、遠くで白いものが揺れているのが見えているだけでございます。

 ですが、それだけでは物足りません。

 強い好奇心が湧き上がってまいりました。


 もっともっと、あれを見たいのです。


 あのように不可思議な動きをする悪霊が、いったいどんな姿をしているのか、この目で見たくてたまらなくなりました。

 どのような顔で、どのようなお体で……まあ、この悪霊の場合は、どのような形と申せばよろしいのかしら。

 危険かもしれないということは、分かっておりました。

 息子さんが正気を失ってしまったという話も、前世の話も、十分に理解しております。

 ですが、危ないと分かっていても、この知りたい気持ちは止められません。

 わたくしは、帽子を持ったまま、遠くへと視線を動かします。

 白いものが揺れている、まさにその場所を見ようといたします。

 目を細めて、意識を集中させ、じっと目を凝らそうといたしました。

 わたくしの目の焦点が遠くへと合う一瞬。そして今まさに、そのお姿を見定めようとした――


 その時でございました。


 突然、目の前が真っ暗になりました。

 柔らかな温もりが、わたくしの両目をすっぽりと覆ったのです。

 マリアの手でしょう。

 マリアが、すばやく手を伸ばして、わたくしの目を覆ったのでございます。

 それは、信じられないほどの速さでした。

 マリアが本気でわたくしの行動を止めるのは、本気で危ないときでございます。


 目を覆われたまま、わたくしは暗闇で立ち尽くしました。


「……マリア」

「はい、お嬢様」


 目を覆われたまま呼びかけますと、マリアは即座に答えました。

 声は、いつもの落ち着いたものでございます。

 しかし、マリアの手は、一切動きません。

 絶対に離さないという強い思いが、その手からは伝わってまいります。


「前が見えませんわ」

「見てはなりません、お嬢様」

「ほんの少し、少しだけでしてよ」

「いけません。息子様と同じことになられては困ります」

「でも、とても気になる悪霊ですのに」

「危険でございます。これ以上、見てはなりません」

「まあ、マリアったら。そんなに強引に目を塞がなくてもよろしいではありませんの」

「いいえ、お嬢様。お嬢様は少しでも油断をいたしますと、すぐにご覧になろうとなさいますので、この手は離せません」

「ひどいですわ。わたくし、淑女としてのお約束は守りますのに」

「お嬢様の好奇心の前では、淑女の嗜みなど風前の灯火でございます」

「まあ! 随分な言われようですわね!」

「事実を申し上げたまででございます」

「少しだけでよいのですけれど」

「駄目でございます」

「本当に?」

「駄目でございます」


 即座に返ってくるその声は平坦でしたが、断固とした意志が込められております。

 マリアの手は、わたくしの目を覆ったまま、決して離れることはございませんでした。


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