第三十一話:青い麦畑に、白いもの
ご主人は、木造りの素朴な机に両手をつき、深い溜息を吐き出しながら、腰を上げました。
「……あんたが、これから何をしたいのか。おれにはまったく分からねえ」
ご主人は、そのまま続けました。
「だが、畑へ行くというなら、そこまで連れていってやる」
「まあ、案内してくださいますの?」
「ああ。だが、おれはあんたを畑へ案内するだけだ。畑にいるあれを見ねえし、何もしねえ」
「ええ、それで構いませんわ。そこからはわたくしたちの出番ですもの」
わたくしが笑みを浮かべて答えますと、奥様が青ざめたお顔でご主人を見つめました。
「お父さん、本当に畑へ行くの……?」
「ああ。ギルドから来てくれたんだ。畑の場所くらいは教えねえとな」
ご主人は答えました。
奥様はそれ以上、なにもおっしゃいませんでした。
娘さんも、黙り込んだままでございます。
「ですが、皆様はこうして畑で麦を育てていらっしゃいますわね。あの場所で、働けているのはどうしてかしら」
わたくしが尋ねますと、奥様がそっと顔を上げました。
「お父さんが、一つの作法を作ってくれたからですよ」
「なるほど、作法。ご主人がお作りになった作法があるのですね」
「ああ」
ご主人が頷きました。
「息子がああなって、畑を捨てるわけにもいかねえからな。麦を育てなきゃ、おれたちは暮らしていけねえ。だから、おれが決めたんだ。畑に出るときは、なるべく顔を上げないこと。足元だけを見て働くことだ」
「顔を伏せて作業をなさるのですわね」
「そうだ。遠くを見なければ、畑の手入れも麦の世話もできるんだ」
娘さんが言葉を続けました。
「お父さんに言われて、畑に行くときは、みんなつばの広い帽子をかぶるの。深くかぶっていれば、うっかり顔を上げても、遠くが見えにくいから」
「なるほど、遠くを見ないための帽子でございますね」
マリアが納得したように呟きました。
ご主人は自らの靴を見つめながら、ぽつりと言葉を重ねました。
「畑に出て草を抜いているとき、遠くのほうで白いのが目に入っちまうことはある。そのたびに、目を持っていかれそうになる」
ご主人は、ゆっくりと続けます。
「だがな、それをじっと見なきゃいいんだ。足元の草だけに手を動かしていれば、無事に家へ戻ってこられる」
家族の皆様は、その作法をきちんと守りながら、麦畑で働き続けているのでございますね。
顔を伏せたままであれば、畑仕事は十分にこなせるのでしょう。
ご家族のお話を伺っておりますと、そのことがよく分かりました。
「畑へ行かれるなら、これをお持ちください」
奥様が戸棚へ歩いていき、二つの帽子を手にして戻ってまいりました。
「わたしたちが使っているものですけれど」
差し出されたのは、素朴な帽子でございました。
粗く編まれた麦で作られており、丸いつばが大きく広がっております。
いわゆる麦わら帽子でございます。
わたくしは、その麦わら帽子を受け取り、頭に載せてみました。
「まあ! これは見えにくいですわ」
帽子のつばが広いので、たしかに遠くの景色が見えにくくなります。
「マリア、ご覧になって。わたくしに似合いますかしら」
マリアは頭を下げました。
「お嬢様のドレスに、つばの広い麦の帽子というのは、少々珍しい装いでお見受けいたします」
「ふふ、新しい流行になりそうですわね」
「町で流行るとは思えません、お嬢様」
「あら、とても素敵だと思いますのに」
「お嬢様がお気に召すのは結構でございますが、社交界でお召しになれば、皆様が困惑いたします」
「まあ! わたくし、そのような粗相をするつもりはございませんわ」
「左様でございますか」
「マリアも、かぶってみてくださいな」
わたくしはもう一つの帽子をマリアに手渡しました。
マリアは、麦の帽子をかぶりました。もちろん、メイドの被り物のままでございます。
「まあ! マリア、とてもよく似合っておりますわ!」
「メイド服に麦の帽子というのは、些かちぐはぐな取り合わせに見えると存じますが」
「いいえ、とても頼もしく見えますわよ。麦畑の守り人のようですわ」
「買い被りでございます、お嬢様。私はただのメイドでございます」
「ふふ、これなら二人で畑に出ても、安心ですわね」
「安心とは申しましても、油断は禁物でございます。ですが、顔を伏せて見えないようにする点におきましては、とても実用的でございます」
「ええ、本当にそうですわね。貸してくださってありがとうございます」
わたくしがお礼を言いますと、奥様は少しだけ表情を和らげました。
ご主人は、戸口に掛けてあった麦わら帽子を取って深くかぶり、勝手口のほうへと歩き出しました。
「マリア、参りましょう」
「はい、お嬢様。お召し物がお汚れにならないようにお気をつけてくださいませ」
マリアが、わたくしについてまいりました。
家の勝手口から外へ出ますと、わたくしは帽子のつばを持ち上げました。
見えます。青い麦畑が、どこまでも広がっておりました。
ご主人は顔を伏せたまま、土の道を無言で進んでいかれます。
ふだんから、とても気持ちの良い風の吹き渡る畑なのでございましょう。
この吹き抜ける風に合わせて、麦の穂がさわさわと心地よい音を立てて、波打っておりました。
草の清々しい匂いが、風に乗ってふわりと運ばれてまいります。
この麦の波を見ているだけで、わたくしは眠りに落ちる直前のような心地になりました。
「ここまでだ」
ご主人は、足を止めました。
深く頭を垂れたまま、動こうとはなさいません。
ご自身の靴だけを、じっと見つめておられます。
今、目の前に広がっている、ご主人ご自慢の畑を見るような素振りは、まったくございませんでした。
「特に用もねえのに、俺は畑へ行けねえ。あんたたちも、あれを見たらおかしくなる前に引き返せよ」
「教えてくださって、感謝いたしますわ」
わたくしが丁寧にお礼を申し上げますと、ご主人は何も答えず、ただもと来た道を引き返していきました。
「ふふ、とても広くて、気持ちのよい畑ですわね」
わたくしが言いますと、マリアがすぐに応じました。
「左様でございますね。風がよく抜けており、麦も健やかに育っているようにお見受けいたします」
「ええ。こんなに素晴らしい畑ですのに、悪霊が出てしまうなんて、本当にもったいないことですわ」
「はい。この麦の収穫に障りが出れば、町の方々にとっても大きな痛手となりましょう」
マリアは、いつもの声で返しました。
麦の穂は、風を受けてさわさわと揺れ続けております。
その音は耳に心地よく、本当にのどかな景色でございます。
それでいて、青い麦が風に揺れる様子は、いくら見ていても飽きることがございません。
わたくしたちはそこから、ずっと風景を眺めておりました。
そのとき、ずっと遠くに、なにか白いものが見えました。
遠すぎて、どのような姿をしているのかまでは分かりません。
ただただ、白いものが、麦畑に立っております。
畑の麦は、どれも風に吹かれて、そろってなびいております。
それなのに、その白いものだけは、風とはまるで違う動きをしておりました。
「マリア、あの白いもの、風とは違う動きをしておりますわ」
「左様でございますね」
マリアは、興味もなさそうに答えました。
でもまあ、なんて面白い動きでございましょう。
畑の中で、白いものだけがくねくねと、妙な動きを続けているのです。
笑いながら体を揺らし続けているという、息子さんのお話。
麦畑で、くねくねと揺れ続ける白いもの。
わたくしが前世で聞いた、あるお話が思い起こされます。
「……くねくね!」
わたくしは思わず、小さく声を漏らしました。
間違いありません。あれが、あの悪霊なのです。
ただ、遠くで白いものが揺れているのが見えているだけでございます。
ですが、それだけでは物足りません。
強い好奇心が湧き上がってまいりました。
もっともっと、あれを見たいのです。
あのように不可思議な動きをする悪霊が、いったいどんな姿をしているのか、この目で見たくてたまらなくなりました。
どのような顔で、どのようなお体で……まあ、この悪霊の場合は、どのような形と申せばよろしいのかしら。
危険かもしれないということは、分かっておりました。
息子さんが正気を失ってしまったという話も、前世の話も、十分に理解しております。
ですが、危ないと分かっていても、この知りたい気持ちは止められません。
わたくしは、帽子を持ったまま、遠くへと視線を動かします。
白いものが揺れている、まさにその場所を見ようといたします。
目を細めて、意識を集中させ、じっと目を凝らそうといたしました。
わたくしの目の焦点が遠くへと合う一瞬。そして今まさに、そのお姿を見定めようとした――
その時でございました。
突然、目の前が真っ暗になりました。
柔らかな温もりが、わたくしの両目をすっぽりと覆ったのです。
マリアの手でしょう。
マリアが、すばやく手を伸ばして、わたくしの目を覆ったのでございます。
それは、信じられないほどの速さでした。
マリアが本気でわたくしの行動を止めるのは、本気で危ないときでございます。
目を覆われたまま、わたくしは暗闇で立ち尽くしました。
「……マリア」
「はい、お嬢様」
目を覆われたまま呼びかけますと、マリアは即座に答えました。
声は、いつもの落ち着いたものでございます。
しかし、マリアの手は、一切動きません。
絶対に離さないという強い思いが、その手からは伝わってまいります。
「前が見えませんわ」
「見てはなりません、お嬢様」
「ほんの少し、少しだけでしてよ」
「いけません。息子様と同じことになられては困ります」
「でも、とても気になる悪霊ですのに」
「危険でございます。これ以上、見てはなりません」
「まあ、マリアったら。そんなに強引に目を塞がなくてもよろしいではありませんの」
「いいえ、お嬢様。お嬢様は少しでも油断をいたしますと、すぐにご覧になろうとなさいますので、この手は離せません」
「ひどいですわ。わたくし、淑女としてのお約束は守りますのに」
「お嬢様の好奇心の前では、淑女の嗜みなど風前の灯火でございます」
「まあ! 随分な言われようですわね!」
「事実を申し上げたまででございます」
「少しだけでよいのですけれど」
「駄目でございます」
「本当に?」
「駄目でございます」
即座に返ってくるその声は平坦でしたが、断固とした意志が込められております。
マリアの手は、わたくしの目を覆ったまま、決して離れることはございませんでした。




