第二十四話:わからずやさんが、お帰りになりました
翌朝、身支度を整えますと、わたくしたちはさっそく客間へ向かいました。
扉を開けますと、部屋の空気はひんやりとしておりました。
机へと目を向けました。
「まあ!」
思わず、声が漏れてしまいました。
昨日あんなにも強い悪霊の気配を辺りに振りまいていた小箱が、跡形もなく消えておりました。
机には、掛けておいた布だけが、平たく残っておりました。
「マリア、ご覧になって」
「はい、お嬢様。小箱の姿が見当たりませんね」
「見事に消えてしまいましたわね!」
「左様でございますね。昨日、間違いなくこちらに置いたはずでございますが」
「ええ、しっかりと!」
わたくしは机に近づきまして、布に触れてみました。
布は、すっかり冷えきっておりました。
あの荒れ狂うような気配は感じられません。
「ヴィクトリアさんが仰っていた通りですわね」
「はい、お嬢様。捨てても、壊そうとしても、必ず戻ってしまうと」
「ええ! ですからきっと、あちらのお宅へお帰りになったのだと思いますわ」
「その可能性が極めて高いかと存じます。わざわざ探し回る必要はございませんね」
「本当に健気な子ですわね。感心してしまいますわ」
「感心なさるようなことではございません。必ず戻ってくるというのは、なかなかに厄介な悪霊の性質でございます」
「ふふ、でも可愛らしいではありませんの。きっと町長様も、朝起きて驚いていらっしゃるはずですわ」
「驚くというよりは、酷く腹を立てていらっしゃる姿が目に浮かびます」
「あのお顔、とても迫力がございますものね」
「お怒りになった町長様から、じきに呼び出しの手紙が届くかと存じます」
「そうですわね。あちらからご連絡をいただくまで、わたくしたちはのんびり待つことにいたしましょう」
「かしこまりました。まずは朝のお茶を淹れてまいります」
「ありがとう、マリア。楽しみに待っておりますわ」
わたくしたちは客間を出て、扉を閉じました。
厨房でお茶を楽しみ、穏やかな時間を過ごします。
温かいお茶を口に含みますと、心がほっと和らぎます。
館は平穏でございました。
あの悪霊の気配も、すっかり静まっております。
メリーちゃんもアリスちゃんも、いつもの場所で静かに過ごしていらっしゃいました。
そうして、午前の遅い頃合いとなりました。
マリアが声をかけてまいりました。
「お嬢様、そろそろ手紙が来ている頃かと存じます」
「まあ、もうそんな頃合いですのね」
「はい。門から外を見にまいりますか」
「ええ、一緒に行きましょう!」
わたくしたちは玄関ホールを抜け、鉄門を開けて門から外へと出ました。
郵便受けを開けますと、そこには手紙が入っておりました。
「手紙が届いておりますわ!」
「町からの届け物でございますね」
わたくしは手紙を手に取りました。
粗末な紙に、黒い墨で力強い文字が書かれておりました。
一通目の『ギルドへ来い』と同じ筆跡でございますから、書いたのは、きっとガストンさんでございます。
ですが、そこに書かれていた言葉は、とても短いものでございました。
『家へ来い』
それだけでございました。
わたくしは思わず笑ってしまいました。
「まあ! 最初のお手紙と同じで、たった一言ですわ!」
マリアに紙面を見せました。
マリアは手紙を一目見て、淡々と言葉を返します。
「用件のみが記されておりますね。無駄が一切削ぎ落とされております」
「ふふ、ガストンさんらしくて、とても気持ちが良いですわね」
「今回は、ギルドの窓口へ寄る必要もないようでございますね」
「ええ! 直接、ヴィクトリアさんのお宅へ向かえとのお達しですもの。さっそく向かいましょう!」
「かしこまりました。では、お出かけのお支度をいたしましょう。町長様のお宅へ伺うのでございますから」
「まあ、それもそうですわね」
わたくしたちは門をくぐり、一度、館へ戻りました。
主寝室では、いつもの窓辺で、メリーちゃんとアリスちゃんが待っておりました。
「メリーちゃん、アリスちゃん。ことりちゃんに会いに、ヴィクトリアさんのお宅へ行ってまいりますわね」
マリアが、手早くわたくしの髪を結い直してくれます。
お支度は、すぐに整いました。
わたくしたちは館を出て門を閉め、そのまま町へと歩き出しました。
◇
ヴィクトリアさんの家の扉を、わたくしは軽くノックいたしました。
すぐに扉が開き、ヴィクトリアさんご本人が出ていらっしゃいました。
「ふん。のこのことやってきたか、貴様ら」
よく通る、冷たい声でございました。
「はい! ガストンさんのお手紙をいただいて、さっそくまいりましたわ!」
「相変わらず呑気な小娘だ。さっさと入れ」
わたくしたちが案内されたのは、あの深紅と黒の応接間でございます。
その黒く丸い卓には、あの小箱が、何事もなかったかのようにおられました。
「見ろ。これが目に入らんとは言わせんぞ」
ヴィクトリアさんは卓の小箱を睨みつけました。
「ことりちゃん、無事にお帰りになられたのですね!」
「私の前でそのふざけた名を呼ぶなと言ったはずだ。朝起きてみれば、またこの卓の上に居座っていたのだぞ」
ヴィクトリアさんは、不機嫌そうでございます。
「まあ。わたくし、大切にお預かりしておりましたのよ。客間にお通しして、扉もきちんと閉めておきましたのに」
「預かった物に夜のうちに逃げられて、何が大切にだ」
「逃げたのではございませんわ。お帰りになっただけですもの」
「同じことだ。片がつくまで、その箱ごと私の前に顔を出すなと言ったはずだぞ」
「まあ、まあ。お言いつけを破ったのは、ことりちゃんのほうですわ」
「屁理屈を言うな。おかげで、またガストンに使いを頼む羽目になったのだ」
ヴィクトリアさんは、ひどく苛立っていらっしゃいます。
卓には、ヴィクトリアさんの焼き菓子の皿も置かれております。
ヴィクトリアさんはちらりとその皿を見やり、不機嫌そうに唇を引き結びました。
今日は、召し上がらないご様子でございます。
「さて、ことりちゃんにご挨拶をいたしませんと」
わたくしは卓へ進み出ました。
お祓い棒は、館の主寝室のテーブルにあるがままでございます。
ですが、悪霊とお話しするのに、必ずしも道具が必要なわけではございません。
大切なのは心を通わせることでございます。
わたくしは両手を合わせました。
前世で培った作法に従い、呼びかけます。
「こんにちは、ことりちゃん。お話は今日伺いますと、昨夜申し上げましたのに。館の客間はお気に召しませんでしたの?」
語りかけてみました。
ですが、何の返事も戻ってまいりません。
小箱はただ冷たく、頑なに閉ざしたままでございました。
「ことりちゃん? 聞こえていらっしゃいますの?」
わたくしはさらに言葉を重ねました。
幼い子らの嘆きや、母たちの悲しみに寄り添うように、心を込めて語りかけます。
ですが、小箱からは何の反応も返ってきませんでした。
こちらの呼びかけを、受けつけないかのようでございます。
そのときでございます。
わたくしは、小箱の気配から、あることを受け取りました。
幼い子らと母たちの嘆きが、冷たい気配となって、帰る場所を探すように落ち着かずにいるのでございます。
「……わからずやさんですわ」
思わず、そう口にしておりました。
「お嬢様、いかがなさいましたか」
マリアが尋ねてまいります。
わたくしは振り返り、首を横に振りました。
「こちらの言葉は、まったく無視なのですわ」
「対話には応じられない、ということでございますね」
「ええ。ですが、この子たち、とても落ち着かないご様子ですの。どこか、本当の帰る場所を探していらっしゃるような気がいたしますわ」
「帰る場所、でございますか」
ヴィクトリアさんが、鋭い目でわたくしたちを品定めするように見つめていらっしゃいました。
「おい、貴様ら」
「はい、ヴィクトリアさん。何かしら?」
「貴様ら、公爵家の娘とメイドの分際で、なぜあの呪いの館で平然と暮らしていられるのだ」
低く、冷徹な声でございました。
「普通の者であれば、呪われた離宮など、足を踏み入れるだけで呪われて変死するはずだ」
「まあ、変死だなんて!」
「挙げ句の果てに、噂に聞く悪霊の館で平然と暮らし、このような呪いの小箱を前にして、楽しそうに話し合っている。尋常ではないぞ」
「いいえ、尋常ではないだなんて、人聞きが悪いですわよ。わたくしたちはただ、新しいお友達と仲良くしたいだけでございますのに」
「ふざけたことを言うな。公爵家の令嬢が、あのような辺境の森の館に追いやられて、怯えもせずに暮らしている理由など、一つしかあるまい」
ヴィクトリアさんは、わたくしをまっすぐに見据えました。
「……貴様も、追放されたのだろう?」
その問いかけに、わたくしは驚きませんでした。
あんな森の館に公爵家の娘が暮らしているのですもの、見当がつくのも当然でございます。
わたくしは微笑んだまま、短く頷きました。
「ええ、そうですわ」
それ以上は語りませんでした。
すると、ヴィクトリアさんは鼻を鳴らしました。
「やはりそうか」
そして、深紅のドレスの裾を整えながら、吐き捨てるように言葉を続けたのでございます。
「私もだ。くだらない噂ひとつで、王都を追われた」
「まあ、ヴィクトリアさんも追放されてこられたのですか?」
「そうだ。……ふん。だがな、王都は窮屈だ。そう考えると、こちらに来たのは良かったと思っている」
「まあ! そのお気持ち、とてもよく分かりますわ!」
わたくしは思わず手を打ちました。
王都の窮屈さから逃れてこの地へとやってまいりましたけれど、このように不可思議で魅力的な悪霊と巡り合えるのですから、追放も悪いことばかりではございませんわ。
「貴様と一緒にするな」
ヴィクトリアさんは冷たく切り捨てました。
「貴様らの身の上話などどうでもいいのだ。問題はこの箱だ。さっさとその薄気味悪い箱を連れて、私の街から立ち去れ」
「ですが、ヴィクトリアさん。いまこの子を持ち帰っても、また明日の朝にはこの卓の上へ戻ってしまいますわ」
「それでは何の解決にもならんといっている!」
「ええ、その通りですわ。ですから、ただ持ち帰るだけでは駄目なのです」
「では、どうする気だ?」
「この子がなぜ戻ってしまうのか、どうすれば落ち着くのか、手立てを調べてまいります。ヴィクトリアさん、ことりちゃんについて、何か手掛かりになるものはございませんの?」
「……手掛かり、か」
ヴィクトリアさんは、しばらく黙っておられました。
それから黒檀の飾り棚を開け、厚みのある古い綴りを取り出しました。
何枚もの茶色く変色した紙を、粗末な紐で綴じたものでございます。
表紙には題名すらも書かれておりません。
「その箱と一緒に送られてきたものだ。この箱にまつわる事柄が記されているようだが、誰が書いたのかはわからん。あまり役に立つとも思えんがな」
「まあ! どうして昨日のうちに見せてくださいませんでしたの?」
「箱さえ持っていかせれば、片がつくと思っていたのだ。……持っていけ」
「ありがとうございます、ヴィクトリアさん! 大切に読ませていただきますわ」
マリアが、うやうやしく綴りを受け取りました。
「この綴りを読み解いて、ことりちゃんへの手立てを見つけてまいります。そのうえで、改めてこの子を受け取りに参りますわ」
「それまで、この箱を私の家に置いておけと言うのか!」
「ほんの少しの間だけでございますわ。よろしくお願いいたしますね!」
「……ふん。なるべく早くすることだな」
ヴィクトリアさんは、渋々といったご様子でございました。
「私の気は短い。結果を早く持ってこい」
「かしこまりましたわ! すぐに調べてまいります!」
わたくしたちはヴィクトリアさんに礼を述べ、応接間を後にいたしました。
小箱は卓に置いたままでございます。
森の道を歩きながら、わたくしはわくわくしておりました。
ことりちゃんは、こちらの言葉をまったく聞き入れてくださらない、筋金入りの頑固者でございます。
ですが、対話が通じないからといって、諦める理由にはなりません。
むしろ、どうして言葉を無視なさるのか、どうして帰る場所を探して落ち着かないのか、理由を突き止めたくてたまらなくなってまいります。
手強い相手ほど、知恵を絞りたくなるのが人の常というものでございますわ!
「マリア、館に戻ったら、さっそくあの綴りを読み解きましょう!」
「かしこまりました、お嬢様。お茶をご用意して、じっくりと拝読いたしましょう」
「ええ! あの子が本当に行きたい場所を、必ず突き止めてみせますわ!」
わたくしたちは足早に、館へと向かったのでございました。




