第十九話:淑女のお作法を、お教えいたします
翌日の夜、わたくしたちは日が落ちきるのを待って、宿を出ました。
石畳の中央広場へと向かいます。
「寂しいですわね」
「はい。お嬢様」
マリアが警戒しながら、あたりを見ております。
昼間は買い物や活気のある掛け声が行き交っていた場所が、いまは静まり返っております。
今、わたくしたち以外、ここには誰もおりません。
ただただ、夜の風が広場を吹き抜けております。
「お嬢様。足元にご注意ください」
「ええ、そうですわね!」
「夜でございます。足元が見えず、うっかり躓かないようにお気をつけください」
「まあまあ、マリアったら」
たしかに、広場は暗いですけれど。
マリアったら、少し過保護すぎませんこと?
けれども、ここはわたくしへ気を遣ってくれるマリアに感謝するべきでしょう。
「昼間はあんなに賑やかでしたのに」
わたくしはあたりを見ながら、そう申しました。
酒場などは、夜遅くまで開けているでしょうに。
「おそらく、口裂け女の噂が立ってからは、町の皆様は家から出てこられないのでしょう」
「そうですわね」
わたくしは、月の光に照らされている町の姿を見ます。
目も慣れて、いつでも悪霊に対処可能でございます。
「マリア、決めた通りにまいりますわよ」
「かしこまりました。お嬢様がお相手の無作法を正す、ということでございますね」
「ええ、そうですのよ! 今夜こそ、きちんとお話しして差し上げますわ」
順調に、わたくしたちは広場を進みました。
「あっ」
今、直感が働きました。
何かが現れる前触れでございます。
「お嬢様?」
マリアが首を傾げております。
「マリア。警戒してくださいまし」
「はい。すでに警戒しております」
頼もしいマリアの声。
それに合わせて、わたくしも警戒いたします。
そのときです。
あのとき路地で見かけた女性が、スッと姿を現しました。
昨日と同じドレスをまとい、手にした扇子で鼻から下を覆い隠しております。
扇子の上から見える目はこちらを見ております。
「わたし、きれい?」
その問いが、静かな夜の空気の中で聞こえてまいりました。
「……」
わたくしはにこやかに微笑みを浮かべたままで、女性の立ち姿をじっくりと観察いたしました。
マリアも一言も言葉を発せずに黙っております。
答えが返ってこないことに、女性の目がすっと細められました。
昨日と同じように苛立ちのような気配が、女性の全身から立ちのぼってまいります。
わたくしたちが沈黙を保っていることが、女性の気に障ったようでございます。
女性はドレスから、何かを取り出しました。
現れたのは、鈍色をした、大きな金属のハサミでございました。
裁縫に用いる品よりも遥かに大きく、鉄の重みがそのまま伝わってくるような、重厚な造りでございます。
女性はハサミを構え、ジャキリと刃を打ち鳴らしました。
女性は、刃を向けたまま歩み寄り、口元の扇子をすっと下ろしました。
昨日の路地で見たのと同じ裂けた口が、夜気にさらされました。
――まあ! 近くで拝見すると見事な開き具合ですわね!
心の中で感嘆の声が漏れました。
ですが、今夜は見とれに来たのではございません。
「わたくし! あなたには、申し上げたいことがたくさんございますわ」
わたくしの明るい声に、女性の足がぴたりと止まりました。
恐れて叫ぶわけでもなく、慌てて逃げ出すわけでもないわたくしの態度に、悪霊が面食らったようでございます。
わたくしは扇子とハサミを持つ女性をまっすぐに見据え、率直に言葉を続けました。
「まず、そのお尋ねからして、甚だ感心いたしませんわ!」
女性は、何も言わずにこちらを見ております。
「見ず知らずの相手を呼び止めて『わたし、きれい?』だなんて、品格というものがまるで感じられませんことよ! 淑女たるもの、ご自身の価値を他人に委ねるような浅ましい真似を、決してしてはなりませんわ。ご自身が美しいかどうかは、日々の振る舞いや心の持ちようによって、自ずと定まるものでございます。内面からにじみ出る品位こそが、淑女の真の美しさなのですもの。それを、通りすがりの人々を捕まえては褒め言葉をねだるなんて……。そのような物乞いのような真似をして、恥ずかしくありませんこと?」
わたくしは、純粋な事実をお話しいたしました。
令嬢として厳しく育てられたわたくしからすれば、他人に媚びて賛辞を乞う行為は、とても下品な行いでございます。
自分の価値は、己の品位と誇りによって保つべきものなのです。
他人の口を無理やり開かせて褒めさせようなど、淑女の風上にも置けません。
「……」
女性は、あのお決まりの問いを口にすることもありません。
ただただ、裂けた口を開けたまま、固まっておりました。
「お嬢様の仰る通りでございます。初対面の相手に対し、自らの都合で賛辞を強要するのは、礼儀を欠いた下品極まりない振る舞いに他なりません。自らの美しさに確信が持てないからと申しまして、見知らぬ他人の評価にすがらなければ己を保てないなど、令嬢としてあまりにお粗末でございますね」
マリアの言葉が、容赦なく突き刺さりました。
淡々と事実だけを述べるマリアの言葉には、独特の説得力がございます。
「……っち!」
女性はハサミを握りしめ、品もなく舌打ちをいたしました。
見た目を褒められるでもなく、けなされるでもなく、性格の品のなさを正面から突かれるなど、これまでの相手からは言われたことがなかったはずでございます。
女性の肩が怒りに小さく揺れております。
女性は苛立ちを露わにし、ハサミの刃を再びジャキリと激しく打ち鳴らしました。
まるで、これ以上喋るなと威嚇するかのような動きでございます。
ですが、そのような脅しに屈するわたくしたちではございません。
「まあ、まだおわかりになりませんの? そのような舌打ちも、刃物を振り回すところも、実に見苦しゅうございますわ!」
女性の動きが止まります。
「相手がまだ何も言い終えていないうちから、そのような大きな刃物を取り出して威嚇なさるなんて、言語道断でございますわ! 令嬢たるもの、感情に任せて凶器を持ち出すなど、あってはならないことですのよ。淑女であれば、どのようなときでも言葉による対話を重んじるべきでございます。刃物は本来、美しい布を整えたり、ほつれた糸をきれいに断ち切ったりするために、大切に扱われるべき道具でございます。それを、思い通りにならない相手を脅すために振り回すだなんて、道具に対する敬意がまったく足りておりませんわ!」
わたくしは、毅然とした態度で告げました。
道具には、道具にふさわしい役目がございます。
針やハサミといった手仕事の道具は、身なりを美しく整えるための神聖な品なのです。
それを荒事の脅しに使うなど、育ちの良さを自ら投げ捨てるようなものでございます。
「左様でございますね。言葉による対話を拒み、刃物の威嚇によって相手を屈服させようとする振る舞いは、知性の不足を露呈しているにすぎません。自らの思い通りにならぬからと凶器に頼る短慮は、令嬢どころか粗野な無頼漢のやり口でございます。裁断のための道具を人へ向ける行為は、道具の扱いとしても落第でございますね」
マリアの辛辣な言葉に、女性はたじろぐように身を引きました。
ハサミを構える腕が、力なく下がりかけております。
町の人々を震え上がらせてきた凶器が、使い方を誤った道具としてご指摘されたのですから、調子が狂ってしまったに違いありません。
そして、わたくしは一番言わなければならない、肝心な点へと踏み込みました。
昨日の夕暮れ、この女性と出会ったときから、ずっと気になっていた最大の欠点でございます。
わたくしは前に歩み出ました。
「そして何より! 一番いけないのは、その無作法でございますわ!」
女性の裂けた口が、呆然と開かれました。
わたくしは背筋をさらに伸ばし、堂々と告げました。
「見事な刺繍が施されたドレスをお召しになり、立派な透かし彫りの扇子をお持ちになりながら、お辞儀のひとつもなさらないなんて! 淑女として誰かと向かい合ったならば、まずは優雅にお辞儀をし、自らを名乗るのが当然の嗜みでございます。名乗りもせず、挨拶も交わさず、いきなり不躾な問いを投げつけるだなんて、どこの無礼者ですの? わたくしの受けた淑女教育では、そのような恥ずべき振る舞いは絶対に許されませんわ!」
わたくしは誇り高く胸を張りました。
どれほど豪奢なドレスを着ていても、礼がなければ淑女ではございません。
ドレスや扇子は身を飾るための道具にすぎず、その中にある立ち居振る舞いこそが、真の淑女を形作るものなのです。
名乗りとお辞儀のない淑女など、この世に存在してはなりません。
「お嬢様の仰る通りでございます。相手の素性を尋ねる前に自ら名乗ることは、社交における初歩の心得でございます。自らの名すら明かさぬまま、夜道で他人に言いがかりをつける行為は、もはや令嬢どころか野盗の振る舞いと何ら変わりません。その見事な仕立てのドレスが、主の不作法によって実に泣いておりますね」
マリアの言葉が、とどめを刺すように静かに放たれました。
わたくしたちの言葉が、静かな広場に満ち渡りました。
女性はハサミを手にしたまま、動かなくなりました。
長い長い沈黙が落ちてまいります。
しばらくして、女性の耳元まで裂けた口が、キュッと小さく引き結ばれました。
怒りでも、苛立ちでもない気配でございました。
女性は、自らが着ているドレスをそっと見下ろしました。
金糸の刺繍を見つめ、手にしていたハサミに目を移しました。
そして、持っていた扇子をゆっくりと掲げました。その扇子で、裂けた口元をそっと隠します。
女性はハサミを構えるのをやめました。
わたくしたちに向かって、静かに頭を下げました。
それはドレスをそっとつまみ、膝をわずかに折る、見事なお辞儀でございました。
なんとも気品ある挨拶でございました。
わたくしもまた、ドレスをつまみ、会釈を返しました。
高貴なお辞儀を終えた女性は、スッと消え去りました。
そのとき、カランと音がしました。
石畳には、先ほどまで女性が手にしていた、大きなハサミがございました。
拾い上げたハサミは、ずしりと重いものでございました。
わたくしたちはそれを持って、宿へと戻りました。
「お嬢様、お疲れさまでございました」
「うふふ。マリアもお疲れさまでしたわ」
テーブルにおいたハサミを、灯りのもとで見てみます。
あの方の持ち物だけあって、見事な造りでございました。
「あら?」
「どうなさいましたか」
「マリア、ここをご覧になって。持ち手に、小さな文字が彫ってありますわ」
「二文字だけでございますね。どなたのものかは、分かりかねます」
「お名前かしら。あの方、最後まで名乗ってくださいませんでしたものね」
そこまで言ってから、わたくしは思いました。
もしかしたら、このハサミこそがあの方なりの名乗りなのかもしれません、と。
「お嬢様、こちらを明日、ギルドへもってまいりましょう」
「そうですわね」
そうです。
明日は、ガストンさんにこれを報告するべきです。
そう決めたとたん、あくびがひとつ出てしまいました。
「お嬢様、ご就寝でございますか」
「ええ。もうこんな時間ですもの。すっかり眠くなってしまいましたわ」
「かしこまりました。お支度をいたします」
その夜は、ぐっすりと眠りました。




