第十七話:夕暮れの路地を、ひとつ曲がったら
夕暮れの町は、昼間の賑わいが嘘のように静まりかけておりました。
大通りでは、露店の方々が店じまいを急ぎ、家路をたどる人々が足早に行き交っております。
誰もが、日が落ちきる前に家へ帰ろうとしているようでございました。
「まだ、明るいですのに」
「皆様、警戒されているのでしょう」
空は茜色から濃い藍色へと変わっておりまして、建物と建物の間からは不気味な影が広がっております。
わたくしたち二人は、わざと人通りのない裏路地へと足を踏み入れました。
路地をひとつ曲がっただけで、人の気配がふっと途絶えました。
家々の窓は閉ざされて、路地には人っ子一人おりません。
もちろん、お守りのべっこう飴の棒を、わたくしたちは一本ずつ手にしております。
「ふぅむ」
「お嬢様、お気をつけて」
人気のない薄暗い路地裏。
今、いるのはわたくしとマリアだけです。
噂の悪霊が現れる条件は、これ以上ないほどに揃っております。
「どんな姿でいらっしゃるとお思いで?」
「存じません。ただ、どのようなお姿でも、見た目について何かおっしゃるのだけはおやめくださいませ」
「まあ!」
どんな姿で現れるのかしら。
どんな声でお話ししてくださるのかしら。
わたくしには、恐ろしさなど微塵もなく、ただただ胸躍る好奇心でいっぱいでございます。
その時でございました。
瞬きをひとつした、その一瞬のことでございます。
つい先ほどまで、誰もいなかったはずの路地に、一人の女性が立っておりました。
足音もなく、まるで最初からそこに立っていたかのようでございます。
身につけているのは、仕立ての良い見事な令嬢のドレスでございました。
しかし女は、広げた優美な扇子で、口元をすっぽりと隠しております。
扇子で隠されて、肌の色すら見えず、目元だけが冷ややかにこちらを見つめておりました。
「あら、まあ!」
前世で聞いたお話ではマスクでしたのに、扇子なのはこの世界らしいですわね、とわたくしはいたく感心いたしました。
けれど、その令嬢風の女は、お辞儀一ついたしません。
名乗りもせず、扇子を掲げたまま、その場におります。
「わたし、きれい?」
扇子越しのその問いは、冷たい夕暮れの路地に、静かに落ちてまいりました。
わたくしは、目の前に立つ女性の姿をじっくりと見つめました。
本物の悪霊とこうして向き合えていることが、嬉しくてたまりませんでした。
女性は扇子で鼻から下を隠したまま、冷たい目でこちらを見据えております。
身につけているのは、見事な刺繍が施された濃い藍色のドレスでございます。
この夕暮れどきの薄暗い路地にあっても、その生地の上品な輝きは衰えておりません。
実に優雅な仕立てとなっております。
マリアが、その様子をうかがっております。
昼間に聞いたお話では、きれいだと褒めても、きれいではないとけなしても、口を裂かれてしまうのでございます。
ですから、わたくしは見た目については一切お答えいたしません。
「ごきげんよう。わたくしはアリシアと申します」
わたくしはにっこりと微笑みました。
「こちらはマリアですわ」
「はい。マリアと申します」
そして、わたくしはそのまま、べっこう飴にかぶせた布の小袋の紐をシューとゆるめました。
小袋を外すと、べっこう飴が姿を現します。
マリアと宿の厨房で作った、特製のべっこう飴でございます。
甘い砂糖の香りが、ふわりと鼻先をくすぐりました。
その透き通った琥珀色の飴が付いた一本を、女性の前へ差し出しました。
「うふふ。どうぞ、こちらを召し上がってくださいませ」
わたくしは明るい声で、丁寧に語りかけました。
甘くておいしいお菓子を差し出せば、喜んで受け取ってくださるはずでございます。
しかし、目の前の女性はぴくりとも動きませんでした。
差し出された琥珀色の飴に、視線すら向けようといたしません。
女性の目は、冷ややかにわたくしの顔だけを見つめておりました。
まるで飴などそこには存在しないかのように、まったく無視しておいでです。
お祓い棒を手にしたあのときと同じく、手応えがまるでありませんでした。
「お気に召しませんでしたかしら?」
返答はございませんでした。
マリアが、落ち着いた声で耳打ちしてまいります。
「お嬢様、まったく関心を示さないようでございますね」
「困りましたわね。とてもおいしそうなのに」
わたくしたちが問いに答えないでいると、女性のまとう雰囲気がぐっと重くなりました。
苛立ちのような気配が、全身から立ちのぼってまいります。
女性は、優雅なドレスのひだから何かを取り出しました。
現れたのは、鈍く光る金物でございました。
二枚の刃が合わさった、大きなハサミでございます。
裁縫に使う道具よりもずっと大きく、見るからに重厚な造りをしておりました。
女性は、こちらに見せつけるようにハサミを手にします。
静まり返った路地に、冷たい刃の光だけが鈍く浮かんでおります。
女性は答えを急かすように、わたくしたちへ向かってゆっくりと歩み寄ってまいります。
間合いが着実に狭まってまいりました。
見た目についての言葉を口にするまでは、刃で襲いかかってくる様子はございません。
ですが、このまま黙っていれば、力ずくで答えを迫られるのは明らかでございました。
そのとき、女性が掲げていた扇子をすっと下ろしました。
露わになったその口は、耳元まで大きく裂けておりました。
わたくしは息を吸い、その異様さをしっかりと見届けました。
お美しいドレス姿とは裏腹の、実に凄まじい悪霊の姿でございます。
――まあ! 本当にお口が大きく開いていらっしゃいますわ!
心の中で思わず感嘆の声を上げました。
ですが、見とれている場合ではございません。
証言によれば、一緒にいた友人を連れ去られてしまった方もいるのです。
どこかへ連れ去られてしまっては、今後の調査も続けられなくなってしまいます。
わたくしたちは二人とも、魔法が使えません。
剣を振るって戦うスキルも持ち合わせておりません。
ですから、いま取るべき手はひとつだけでございました。
「マリア、走りますわよ!」
「かしこまりました、お嬢様」
マリアの淡々とした返事と同時に、わたくしたちは逃げるために走り始めます。
「お嬢様、お広いところへ!」
「分かりましてよ!」
ハサミの刃を打ち鳴らす音が、後ろから追いかけてまいりました。
この薄暗い路地を駆け抜けて、わたくしたちは人がいる場所を目指しました。
やがて、広い場所へと飛び出しました。
そこは、中央広場でございました。
夕暮れの広場には、まだ多くの人々が行き交っておりました。
お店が閉まりつつあるとはいえ、まだまだ町の人々の姿がございます。
ここは、人けのない場所ではございません。
それでも足を止めるわけにはまいりません。
わたくしたちは石畳の広場を、真っ直ぐに駆け抜けました。
「ギルドへいきますわよ!」
「はい! お嬢様!」
目指すのは、広場に面して堂々と建っている冒険者ギルドでございます。
もし、何かがあってもギルドの方々は頼りになることでございましょう。
「着きましたわ!」
頑丈な木の両開きの扉を押し開け、わたくしたちはギルドへとなだれ込みました。
広間には、ギルド併設の酒場がございます。
わたくしたちはそのまま、酒場へと勢いよく飛び込みました。
酒場は、大勢の冒険者たちで賑わっておりました。
木製のテーブルには料理や酒があり、男たちの話し声や笑い声で満ちております。
これだけの人がいれば、あの悪霊も手出しはできません。
扉が勢いよく開いた音に、テーブルについていた冒険者の男性が一人だけ、ちらりとこちらを見ました。
以前、ギルドでわたくしたちの話を聞いて、鼻で笑ったあの冒険者でございます。
ですが、彼はすぐに酒盛りに戻りました。
この酒場の人々はみなさん酒盛りに夢中で、こちらにはご興味がないご様子です。
わたくしたちは空いている席の近くまで進み、乱れた息を整えました。
マリアがすっと振り返り、出入り口の扉の様子を見ております。
「お嬢様、追手は来ておりません」
マリアは乱れのない落ち着いた声で、実務的に報告いたしました。
べっこう飴を片手に、というのが面白いところでございましたけれど。
「どうやら、これほど人が集まる場所までは追ってこられないようでございます」
「助かりましたわね、マリア。見事な逃げ足でしたわ!」
「お嬢様が無事で何よりでございます」
酒場の賑やかな空気のおかげで、わたくしたちは無事にあの追跡を振り切れたのでした。




