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婚約破棄してわたくしを追放するのは結構ですが、殿下の後ろにいる女は人間ではありません  作者: 速水静香
第三章:口裂け女

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第十五話:口裂け女の噂を集めましょう

 町一番の宿で一夜を明かし、わたくしたちは町へ出ました。


「朝から、お天気もよろしくて!」

「はい、お嬢様」


 マリアの表情は、いつもどおりです。


「さすがは町一番の宿ですわね。館に負けないくらいベッドがふかふかでしたわ。わたくし、潜り込んだらすぐに眠ってしまいましたの」

「存じております。すぐに寝息が聞こえてまいりましたので」

「まあ、聞いていらしたの?」

「お嬢様がお休みになるまで控えておりますのが、わたくしの務めでございます」


 マリアは澄ました顔のまま、さらりと答えました。


「そういえば、マリア。雑貨屋さんの荷物は、どうなりますの?」

「お屋敷の郵便受けに届きます。日持ちのするものばかりでございますので、私どもが戻るまで待たせておけます」

「お早めに解決したいものですわ」


 町の皆様のためにも、そして何よりも、悪霊さんのために、でございます。

 悪霊と呼ばれているその方にも、きっと何か深いお悩みがあるはずです。


 むむむ。

 あら、そうでしたわ。


「わたくし、夢を見まして!」

「それは、どのような夢でございますか」

「口裂け女さんと、お茶をご一緒しておりましたのよ」

「左様でございますか」


 マリアの相づちは、いつもどおり短いのでございます。

 町一番の宿は、館と違って、夜更けに誰かの気配がすることもございません。

 静かすぎて、少し物足りないくらいでございました。


「ああ、いい匂い!」


 露店から、香ばしいパンの匂いが漂ってまいります。


「お嬢様」

「ええ、分かっております!」


 これから、昨日ギルドで聞いた悪霊の噂を確かめるべく、聞き込みを始めるのでございます。

 まずは石畳の通りにある果物売りの店主さんへ、わたくしは笑顔で声をかけました。


「ごきげんよう。この町に出るという、口裂け女についてお話を伺えませんかしら」


 店主さんは、赤紫色の果物を手にしたまま、動きを止めました。

 そして、あからさまに嫌そうな顔をして、首を横に振ります。


「おいおい、昼間から縁起でもないことを言うもんじゃないよ」

「ちょっとした世間話ですわよ」

「冗談じゃない。あの話は関わりたくないんだ。買い物しないなら、さっさと行ってくれ」


 店主さんは、果物を陳列する作業に戻ってしまいました。

 まあ! 露骨に嫌がられてしまいましたわ。

 ですが、気味悪がって話したがらないということは、それだけ恐ろしい相手だという証拠でございます。


「マリア、見ましたこと? 皆さん、とても気味悪がっていらっしゃいますわ!」

「ええ、お嬢様。ですが、ここまで嫌がられては、情報が集まりません」


 わたくしたちは諦めず、通りを行き交う人々へ次々に声をかけて回りました。

 水汲みをしていたご婦人も、荷車を引いていた職人風の男性も、口裂け女の名を出すと、顔色を変えました。


 誰もが不気味そうに身をすくめ、足早に立ち去ってしまいます。

 それでも、あの香ばしい匂いだけは、ずっとわたくしのお鼻をくすぐっておりました。


「マリア、パンを買いますわ!」

「お嬢様、聞き込みの最中でございます」

「ですから、買いますのよ。お客様なら、追い払われたりいたしませんでしょう?」


 マリアは何も言わずに、自分の財布の紐をほどきました。

 露店のおかみさんは焼きたての丸いパンを包みながら、ちらりと通りを見回しました。


「……あんたたち、朝からあの女のことを聞いて回ってる二人だろう」

「まあ、もうお耳に入っておりますの?」

「狭い町だからね。悪いことは言わないよ、関わるのはおよし」

「ご心配ありがとうございます。ですが、わたくし、そういうお方とは仲良くなれる気がいたしますの!」

「……は?」

「お嬢様は、お住まいの館の人形とも仲良くしておられますので」


 マリアが淡々と付け足しますと、おかみさんは口を開けたまま固まってしまいました。

 やがて、諦めたように声を落として、包みをわたくしの手に押しつけました。


「出るのは夕暮れか夜の、人通りの消えた静かな通りさ。気味が悪いって叫んだ職人は、口を裂かれた。きれいじゃないって言い返した若いのも、同じだったそうだよ」

「言い返した方も、いらしたのですわね」

「一人だけ、襲われて生き延びた若いのがいるよ。昼間は、中央広場の市場に座り込んでる」


 わたくしはおかみさんのお手を取って、心からお礼を申し上げました。


「マリア、ひとついただいてもよろしくて?」

「歩きながら召し上がるのは、公爵家のご令嬢のなさることではございません」

「あら、今はただのアリシアですもの!」


 わたくしは丸いパンにかぶりつきました。

 皮はかりっと香ばしく、生地はふんわりと甘いのでございます。


「マリアも、ひと口いかが?」

「結構でございます」

「まあ、真面目ですこと」


 わたくしたちは広場へ急ぎました。

 パンを食べ終えるころ、町の広場に到着いたしました。


「にぎやかですわね」

「はい、活気のある広場でございます」


 昼の広場は、市場の人々で賑わっております。

 その人混みに紛れて、一人の男が座り込んでおりました。

 膝を抱えて、何かに怯えるように小さくなっております。

 何より目を引いたのは、その顔でございました。

 男の口元は、白い布で、幾重にもぐるぐる巻きに覆われていたのです。


「ごきげんよう。突然お邪魔して申し訳ありませんわ。少しだけ、あの悪霊について教えていただけないかしら」


 男は弾かれたように顔を上げました。

 その目は、何かの恐怖に染まっております。

 立ち上がって逃げ出そうとしましたが、マリアが静かに近づいて、男の前に膝をつきました。


「危害を加える者ではございません。どうか、ご安心ください」


 マリアの落ち着いた声に、男は警戒を少しだけ解いたようでした。

 布の上から口元を押さえ、男は小さく首を横に振ります。

 口を裂かれてから、声が出せないのでございましょう。

 やがて男は懐から白墨のかけらを取り出し、足もとの石畳に文字を書き始めました。

 人と話す代わりに、いつも持ち歩いているようでございます。


「こんなに賑やかなところに、いつもいらっしゃいますの?」

『ひとりになるのが、こわい』


 男はそれだけ書くと、行き交う人々へ目をやりました。


『夕ぐれ、友だちと二人で歩いてた』


 市場のざわめきにまじって、白墨が石をこする、かすれた音がいたします。


「どちらの通りでございましたか」

『うらの通り。だれもいなかった』

『女が、いきなり目の前にいた』

「そのお方は、どのようなお顔立ちでしたの?」


 男の動きが止まりました。


『おぼえてない』

『思い出させないで』

「お嬢様」


 マリアが、わたくしのお洋服をそっと引きました。


「……ごめんなさい。お顔のことは、もう伺いませんわ」

「では、その時、何か言われましたでしょうか」


 男は石畳の文字を手のひらで消し、しばらく白墨を止めてから、また書きました。


『わからない。こわくて、頭がまっしろ』

『きげんをとろうと、きれいですねとほめた』

「褒めたのでございますね」


 男はうなずき、震える手で続けます。


『なのに、口をさかれた』


 その文字に、わたくしは思わず目を凝らしました。

 きれいだと褒めたのに、口を裂かれたのでございますか。

 男は文字を消し、ゆっくりと書きました。


『友だちは、つれていかれた』

『どこへ行ったか、生きてるかも、わからない』


 書き終えたところで、男の手が止まりました。

 友人のことを書いたその文字を消そうとして、どうしても手が動かないようでございます。

 男は白墨を握りしめたまま、膝に顔を埋めてしまいました。

 これ以上はもう、何も書く気力がないようでした。


「ありがとうございました」


 わたくしは心からの感謝を伝え、男のもとを離れました。


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