第十五話:口裂け女の噂を集めましょう
町一番の宿で一夜を明かし、わたくしたちは町へ出ました。
「朝から、お天気もよろしくて!」
「はい、お嬢様」
マリアの表情は、いつもどおりです。
「さすがは町一番の宿ですわね。館に負けないくらいベッドがふかふかでしたわ。わたくし、潜り込んだらすぐに眠ってしまいましたの」
「存じております。すぐに寝息が聞こえてまいりましたので」
「まあ、聞いていらしたの?」
「お嬢様がお休みになるまで控えておりますのが、わたくしの務めでございます」
マリアは澄ました顔のまま、さらりと答えました。
「そういえば、マリア。雑貨屋さんの荷物は、どうなりますの?」
「お屋敷の郵便受けに届きます。日持ちのするものばかりでございますので、私どもが戻るまで待たせておけます」
「お早めに解決したいものですわ」
町の皆様のためにも、そして何よりも、悪霊さんのために、でございます。
悪霊と呼ばれているその方にも、きっと何か深いお悩みがあるはずです。
むむむ。
あら、そうでしたわ。
「わたくし、夢を見まして!」
「それは、どのような夢でございますか」
「口裂け女さんと、お茶をご一緒しておりましたのよ」
「左様でございますか」
マリアの相づちは、いつもどおり短いのでございます。
町一番の宿は、館と違って、夜更けに誰かの気配がすることもございません。
静かすぎて、少し物足りないくらいでございました。
「ああ、いい匂い!」
露店から、香ばしいパンの匂いが漂ってまいります。
「お嬢様」
「ええ、分かっております!」
これから、昨日ギルドで聞いた悪霊の噂を確かめるべく、聞き込みを始めるのでございます。
まずは石畳の通りにある果物売りの店主さんへ、わたくしは笑顔で声をかけました。
「ごきげんよう。この町に出るという、口裂け女についてお話を伺えませんかしら」
店主さんは、赤紫色の果物を手にしたまま、動きを止めました。
そして、あからさまに嫌そうな顔をして、首を横に振ります。
「おいおい、昼間から縁起でもないことを言うもんじゃないよ」
「ちょっとした世間話ですわよ」
「冗談じゃない。あの話は関わりたくないんだ。買い物しないなら、さっさと行ってくれ」
店主さんは、果物を陳列する作業に戻ってしまいました。
まあ! 露骨に嫌がられてしまいましたわ。
ですが、気味悪がって話したがらないということは、それだけ恐ろしい相手だという証拠でございます。
「マリア、見ましたこと? 皆さん、とても気味悪がっていらっしゃいますわ!」
「ええ、お嬢様。ですが、ここまで嫌がられては、情報が集まりません」
わたくしたちは諦めず、通りを行き交う人々へ次々に声をかけて回りました。
水汲みをしていたご婦人も、荷車を引いていた職人風の男性も、口裂け女の名を出すと、顔色を変えました。
誰もが不気味そうに身をすくめ、足早に立ち去ってしまいます。
それでも、あの香ばしい匂いだけは、ずっとわたくしのお鼻をくすぐっておりました。
「マリア、パンを買いますわ!」
「お嬢様、聞き込みの最中でございます」
「ですから、買いますのよ。お客様なら、追い払われたりいたしませんでしょう?」
マリアは何も言わずに、自分の財布の紐をほどきました。
露店のおかみさんは焼きたての丸いパンを包みながら、ちらりと通りを見回しました。
「……あんたたち、朝からあの女のことを聞いて回ってる二人だろう」
「まあ、もうお耳に入っておりますの?」
「狭い町だからね。悪いことは言わないよ、関わるのはおよし」
「ご心配ありがとうございます。ですが、わたくし、そういうお方とは仲良くなれる気がいたしますの!」
「……は?」
「お嬢様は、お住まいの館の人形とも仲良くしておられますので」
マリアが淡々と付け足しますと、おかみさんは口を開けたまま固まってしまいました。
やがて、諦めたように声を落として、包みをわたくしの手に押しつけました。
「出るのは夕暮れか夜の、人通りの消えた静かな通りさ。気味が悪いって叫んだ職人は、口を裂かれた。きれいじゃないって言い返した若いのも、同じだったそうだよ」
「言い返した方も、いらしたのですわね」
「一人だけ、襲われて生き延びた若いのがいるよ。昼間は、中央広場の市場に座り込んでる」
わたくしはおかみさんのお手を取って、心からお礼を申し上げました。
「マリア、ひとついただいてもよろしくて?」
「歩きながら召し上がるのは、公爵家のご令嬢のなさることではございません」
「あら、今はただのアリシアですもの!」
わたくしは丸いパンにかぶりつきました。
皮はかりっと香ばしく、生地はふんわりと甘いのでございます。
「マリアも、ひと口いかが?」
「結構でございます」
「まあ、真面目ですこと」
わたくしたちは広場へ急ぎました。
パンを食べ終えるころ、町の広場に到着いたしました。
「にぎやかですわね」
「はい、活気のある広場でございます」
昼の広場は、市場の人々で賑わっております。
その人混みに紛れて、一人の男が座り込んでおりました。
膝を抱えて、何かに怯えるように小さくなっております。
何より目を引いたのは、その顔でございました。
男の口元は、白い布で、幾重にもぐるぐる巻きに覆われていたのです。
「ごきげんよう。突然お邪魔して申し訳ありませんわ。少しだけ、あの悪霊について教えていただけないかしら」
男は弾かれたように顔を上げました。
その目は、何かの恐怖に染まっております。
立ち上がって逃げ出そうとしましたが、マリアが静かに近づいて、男の前に膝をつきました。
「危害を加える者ではございません。どうか、ご安心ください」
マリアの落ち着いた声に、男は警戒を少しだけ解いたようでした。
布の上から口元を押さえ、男は小さく首を横に振ります。
口を裂かれてから、声が出せないのでございましょう。
やがて男は懐から白墨のかけらを取り出し、足もとの石畳に文字を書き始めました。
人と話す代わりに、いつも持ち歩いているようでございます。
「こんなに賑やかなところに、いつもいらっしゃいますの?」
『ひとりになるのが、こわい』
男はそれだけ書くと、行き交う人々へ目をやりました。
『夕ぐれ、友だちと二人で歩いてた』
市場のざわめきにまじって、白墨が石をこする、かすれた音がいたします。
「どちらの通りでございましたか」
『うらの通り。だれもいなかった』
『女が、いきなり目の前にいた』
「そのお方は、どのようなお顔立ちでしたの?」
男の動きが止まりました。
『おぼえてない』
『思い出させないで』
「お嬢様」
マリアが、わたくしのお洋服をそっと引きました。
「……ごめんなさい。お顔のことは、もう伺いませんわ」
「では、その時、何か言われましたでしょうか」
男は石畳の文字を手のひらで消し、しばらく白墨を止めてから、また書きました。
『わからない。こわくて、頭がまっしろ』
『きげんをとろうと、きれいですねとほめた』
「褒めたのでございますね」
男はうなずき、震える手で続けます。
『なのに、口をさかれた』
その文字に、わたくしは思わず目を凝らしました。
きれいだと褒めたのに、口を裂かれたのでございますか。
男は文字を消し、ゆっくりと書きました。
『友だちは、つれていかれた』
『どこへ行ったか、生きてるかも、わからない』
書き終えたところで、男の手が止まりました。
友人のことを書いたその文字を消そうとして、どうしても手が動かないようでございます。
男は白墨を握りしめたまま、膝に顔を埋めてしまいました。
これ以上はもう、何も書く気力がないようでした。
「ありがとうございました」
わたくしは心からの感謝を伝え、男のもとを離れました。




