89.赤黒い石と、彼の訪れ
今頃、ディアンは潜入しているのだろうか。
紅妃を訪れたあと寄られたら、正直嫌だと思う。匂い、動作、雰囲気でわかってしまう。
(ディアンもきっとそうだ……)
ファズーンが隣にいた後の残り香、リディアの雰囲気の違い、きっとわかっていたと思う。でも容認してくれていたのだろうか。
ローゼに言われた「ディアンに好きになってもらった」という感覚は当たっている。根底にあるのは自信のなさ。ディアンに嫌われたくない、と思ってしまうのは自己肯定感の低さだ。それがわかるのに、理由がわからない。
「碧妃様、少しいいですか?」
シーリに頷くと行方不明になっていた間の荷物というのが届けられた。カーキ色のくたびれたリディアの半身程の大きさのリュック。ただし中身は半分ほど。ここに来るまでにどれほどの人間が検分したのだろう。
コンパス、携帯食料の包み、毛布、簡易的な紙の地図。けれどロープやハサミなどはない、自傷行為をされたら困るからだろう。携帯食料も開けられている、地図でさえ半分は切られている、これではここを抜けられない。
ただ荷物の中に一番場所を占めていたのが虫よけスプレーだった。日焼け止めと化粧品ポーチはわかる。向かう先はそんなに虫が多い程の危険地帯だったのか。
(でも熱帯地方は、謎の虫が多いし)
この間の伯花宮でも、虫よけスプレーの存在を知っていればよかったのに、とリディアは思いながら殺虫剤をリュックの中に戻した。
ため息をついて、リディアはサイドポケットをさぐる。すると、掌サイズのサテンの小袋が入っていた。引き出して中身を取り出すと丁寧にたためられたハンカチ。
よほど大事なものを包んでいるのかと開くと、赤黒い砂がこぼれ、黒い礫の塊がでてきた。例えばパワーストーンなどの原石に似ているが、黒い石に血のように赤い渦が巻きついていて正直に言えば綺麗じゃない。塊といっても赤ん坊の拳よりも小さく、溶岩石のようにガラス質なのか握れば鋭利で痛い。
何かの魔法関係の道具なのだろうか。力を秘めているというよりも、まるで自分にとっては特別な思い出の品であるかのよう。握り締めると何かの映像がチラつく。
不意に感情がこみ上げてきた。愛しいと切ない。強い自分をくださいと願う心、一人で生きていける力をくださいと誰かに願った。
不意にリディアは目を閉じて顔をあげる。
「――リディア」
声がした。今まで考えていた人、まさか来るとは思わなかったのに。でも間違いない。
「ディアン、来たの?」
答える前に彼がいた、すぐに抱きしめてくる大きな体。リディアは身じろぎした、紅妃の下に行ったのだとわかった。
「――やめて」
その言葉を発すると、ディアンの身体が揺れて離れる。顔をあげると驚きの表情。呆然としていると言った方がいいのか。
今までのリディアが記憶を失った時や、魔法が使えないと告白した時とも違う。戸惑い、どうしたらいいのかという顔に、リディアは罪悪感を覚える。
やっぱり涙が滲み顔をそむけた。
「ごめん、ファズーンと今までいた私が言う事じゃないけど」
「いや――」
そこ言葉でとぎらせて完全に離れる袖を引っ張る。そしてそのままわずかに前傾する身体にリディアから唇を重ねた。すぐに応えようとする唇を押しのける。自分でもわけが分からない、求めているのに嫌だと思う。相手を責める資格はない。
「匂うの、わかるの。だから嫌だよ、でも来てくれなきゃもっと嫌だった」
リディアの言葉を聞き、頷くディアンの指が伸び、目元に滲んだ涙をぬぐう。そのまま今度は彼が唇を重ねる、やっぱり香る、花の匂いが。
「シャワーを浴びてきた、匂うはずはないが……」
「ごめん、自分がずるいのはわかってる」
ふと思う。泣いて男に頼り、利用する女になっている気がする。それは自分がなりたくないタイプだ。一人で生きていける力を常に願っていたのに。
ディアンが目をぎゅっと閉じる。その真意を問う前に、いきなり唇を重ねて、寝台の端に座っていたリディアに体重をかけて押し倒す。
「ファズーンのことは気にしてない、全部俺が悪い。あの女のことを感づかせたのも俺のせいだ。けど――」
ディアンの黒い瞳がリディアを射抜く。
「お前が妬いているのも、泣かせたのも俺のせい。でも、俺はそのことを喜んでいる」
「ディアン?」
いきなり片足が足の間に挟み込まれる。そして手が忍んできて、ちょっと焦る。そっち?
「え、なんで?」
「我慢した、もうあんなのごめんだ」
首には唇。行儀の悪い手は、ドレスの中。ちょっと待ってよ!
片方の手は胸のかけ留めに、片方の手はリディアのドレスを託しあげ上に侵入してきそうになっている。慌てて手を押さえようと攻防すると、リディアのドレスの裾が揺れて太腿がむき出しになる。
その表皮には赤黒くなったいくつかの三日月の爪痕。慌てて隠そうとしたけれど、ディアンはこれまでとは違う理由で、その衣を大きくはだけた。
「……おまえ?」
「なんでも、ないよ」
「爪を立てたのか……」
右腿に幾つも散った一センチ大のそれは、無残だ。ファズーンの手を握りたくないと拒否して代わりに拳を作り掌か、もしくは太腿に爪を立てる、他の痛みで気を紛らわせる。
ファズーンはいつも叱責するが、彼を頼りたくなくてリディアは首をふり、言うことをきかない。
「見た目ほどじゃない。別に痛くないし」
それに痛みを誤魔化すために、別の箇所に痛みを与えるのだ。痛くなきゃ困る。
「……お前のその癖……治ってないな」
大きく息を吐くその姿は呆れよりも、何かを含んでいる。
「癖?」と尋ねると、ディアンは答えずに首を振る。
「確かに俺達は、痛みに耐える訓練をするが、お前には受けさせていない。そんな方法を教えやしない。けれど別の方法でお前は覚えてしまったんだろうな」
ディアンの声は、罪悪感というものだろうか。なぜ彼が、と思うといきなり組み敷いていたリディアをそのままに、頭を下の方にずらしていく。
遠くなる黒い髪。
「ちょっと、ま……」
大腿が濡れる、舐める感触にヤバいと思う。その頭を押しのけようとすると、遠い呟きが聞こえる。
「お前は、いつも痛みをこらえる時、爪を立てるから――」
「……う、や」
痛みがあった場所が染みて、同時に吸われてなんだか変な気になる。ちょっと待って。何か変なことが起きている。私、今襲われてるの? その気になられてるの!?
「いつもヤメロと言ってもいう事をきかない」
やめてほしいのは、私なんだけど……。
「……いま、だめだよ」
ちろり、と傷のない場所も舌先を感じてリディアは声を漏らす。
「けれどなんか、変な気になるな」
変な気になってくるのは、私、だよ……。
「これなら、まあ許してもいいか」
「……なにが?」
「次、自分を痛めつけたらそこを舐めるって言ったら、どうだ?」
「絶対、いや!」
意識を振り絞り、何とかディアンの頭を押しのけてリディアは最小限で叫ぶ。足を引っ込めて胸元に伸びている手も抑えつける。
「――だめなのか?」
つまり今、しちゃだめって聞いているんだよね? ダメに決まってる。もうすぐ明け方、ファズーン達は帰ったけど、侍女達が起きてくる。
「ダメだよ、ダメに決まってる、これまで我慢できたなら我慢して! ていうか、何話してたんだっけ!?」
不承不承という顔で身を起こしたディアンを睨むと、大きくため息をつく音が聞こえる。
「お前は……少し難しい家で育った。その家で、辛い時にそうやって耐える方法を覚えてしまったんだよ」
「私の家って、シルビス国の?」
頷くディアンは気乗りのしないという顔だ。いつも出てくるシルビスという名。
生家があるようなのに、誰も何も言わない、出てくるのは魔法師団のあるグレイスランドのみ。一体どういう国で、どんな家で育ったのか。
塔の中で見た情景では、男児がいて、泣いている女性がいて、佇む自分らしき子供がいる。あまり楽しいという感情ではなく、それを思い出すと悲しい気がする。
シルビスについては、何も言えずにディアンに尋ねる。
「何か用があったんだよね」
まさか、シにきたわけじゃないでしょ?
「お前に会いたかった。で、したくなった、それじゃいけないか?」
はっきりと言われて少し顔が赤くなるし、返事も困る。そうなの? いやいや、納得しても許してもいけない。話を戻さなくては。




