90.匂いと魔力
時折空間を漂うのは、先ほどからの匂い。少しそれが意識にのぼり、集中力を削ぐ。フルーツとスパイスの香りだ。でも甘ったるくて熟しすぎたような感じで好きじゃない。
桃と、ジャスミン、それから少し八角。言うと、ディアンは困惑する。
「それは、あの女のつけている艶美香じゃない」
表情が固まっている顔に断言する。
「でも匂うよ、いちばん強い」
匂いを嗅ぐと悲しくなる、そう言うとディアンは諦めたように息をついて立とうとする。「横になら座っていいよ。それから――手を握って」
ディアンは少し目を見張り、それから笑った。仲間達には見せなかった表情だ、美形なのにいつも無表情で淡々としている。リディアが記憶を失ってからはいつも強張った顔。
今日は焦った顔をしていて、リディアが断ると、瞬間手が震えたのが見えた。
でも隣に座り、握ってくれた手は大きい。
まだ二人の間の空気はぎこちない、二人でそれに気が付いていながら別の話題で濁そうとしている気もした。
「匂いは、――魔力だ。……あの場にその香はなかった」
ディアンは説明する。嗅覚と海馬は隣り合っているから記憶と匂いは割合結びつきやすい、だが匂いを説明するのは難しい。
けれど様々な分野における匂いの名を覚えるのは、団員としては必須だ。多様な局面で毒、食、人らの物、場所などを特定する。なのでリディア達は匂いの“名”はわかると。
「だからこそ師団の者は潜入時に怪しまれないように人工的な香りをつけない、残さない、もちろん体臭も消していく。俺も匂いを残さないよう細心の注意を払っている」
「鼻で香る、というのとは違うの。頭の中にすぅと入り込んでくるような香り。でも普段彼女と会う時、こんな匂いを感じたことはないのだけど」
いま言った香りが色となって見えるよう。ディアンの周りで青紫の帯に美しい白金が流れている。そこに茶色の塊が見える。青系の色は以前からディアンの周りで見えた。茶色は初めて。
――でも、それらの色は消えた、今はうまく説明ができなくて口を閉ざす。
代わりに考え込んでいるディアンが口を開いた。
「俺が、匂いを消してきたからかもしれない。あの女は臭い程焚いているからな、普段は誤魔化されていても、お前の言う魔力の香りだけ俺に残った」
言われてみればそうかもしれないとリディアは頷く。そのリディアの前でディアンは別のことに頷いている。
「ローゼは師団の者だ。――考えてみれば姉妹である紅妃に魔力があって当然、思いつかなかったな」
偶然の産物だ。ディアンが紅妃の下に立ち寄り、自分の匂いを消してきたから純粋に紅妃の魔力の匂いだけが残り、リディアが感じ取った。
この場に直後寄らなければ、紅妃に魔力があるとわからなかった。明日ならば消えていただろう、というディアンにリディアは微妙な気持ちになる。
「別に魔力があってもいい、それだけなら。問題はそれが何かの副産物を生むかどうかだ」
「私は黄妃がディアンに行くように促したことが気になるよ」
行けと直接言ったわけではないけど、何かがあるようだった。魔力があると気付かせるため?
「魔力があれば何ができるの?」
「魔法は使えないと思う、だがこの地やジャイフにとって都合のいい何かがあるのか。もしくはそれを利用して、紅妃が何かをしているかだが――ないだろう」
ディアンのふと気づいたという声にリディアは見返す。
「……俺はリディア、お前に昔、ピアスなど穴をあけるなと命じていた。覚えていないだろうが……」
侍女達に耳に穴を空けようと促されても嫌だと思った。過去に空けなかったのはそのせい?
「何となく空けたくはないと思っていたけれど」
「女は空けた穴から、魔のモノが入ってきやすい。受け入れやすい身体だからだ。もう一つは、魔力も流れ出やすい。それでもファッションとして空ける者も多い。それはもう個人の勝手だから何も言うつもりはない。紅妃は穴をあけているだろう、魔力がかなり流れているし、本人もわかってやっているのかもしれない」
どうなんだろう。そんなの目で見たことがないからわからない。
「ねえ。シヴァも、魔力があったの? ピアスを開けたから流れたの?」
「もとからほぼなかったと思う。わかっているだろうが、この地方の者は魔力を持たない。……ローゼが異常なんだ」
その名を口にする時は皆が顔をこわばらせる。ディアンも例外ではなかった。躊躇い、おそるおそる口にする、名を呼べば来ちゃうみたいな。
なんでみんな彼女を苦手としているのだろう。
「ローゼに訊けばわかる?」
「――いやいい。今は他に用があると言っていた、俺達で片を付ける」
返答は素早かった。早口だし。
「まあそれはいい。ただ、おまえは感応系魔法師で相手を受け入れて治療をする、俺はお前がどうやっているか、その感覚も詳しくはわからないが。ただなんでも受け入れるというその性質があったから、穴から何か入りやすいかもしれないと、余計なことをするなと言っていた」
“余計なことをするな”。なんかこれを言われると、ピアスをあけたくないという気持ちとともに反発も覚える。
「ハラールでそれがなぜ罪人の証なのかも不明だ。何しろヴァルハラでは推奨されている。紅妃は好んで傷をつけている、元から魔力は微力だが、それでほぼ流れた」
「――紅妃の魔力が残るほどディアンはそこまで深く接触したんだね」
リディアが指摘すればディアンは目を見開き、固まった。試すように、目をそむけない。彼の目は糾弾して欲しいのか、それとも『仕方ないね』と言ってほしいのか。自分が『いい』と言った、だから『譲れ』と言われても仕方ない。
「お前は。いつも、感情を抑え込む。俺は――時には」
一つ息をついた。そして口をゆっくり開く。一音一音区切りよく口にする。
「妬いて欲しいと思っていたよ」




