83.美の化身
「そういえば、碧妃はまだご懐妊なさらないのねえ」
そんなことを言われたのは、紅妃の宮殿でのこと。相変わらず蓮嬪は、孔海の羽で侍女に風を送らせていたけれど、いまや頭にも孔雀の羽飾りをしている。赤い爪はどこまで伸ばすのだろうという位長い。
(ていうか、まだここにきて一ヶ月ですけど!)
懐妊! ぎょっとしたけれど、顔に出してはダメだ。ここでは、常に優雅に微笑んでいるのが勝ち。リディアは余裕の微笑みを浮かべた。
(ファズーンが好きなわけでは全然ないけどね!)
「あれだけ毎日、ご寵愛をうけて。もしかしてお身体に問題でも?」
その嫌みに追従して、蓮嬪と仲がいいふりをしている憐嬪が爪を優雅に翻して目を細める。
「そういえば、このところはお声が聞こえなくなりましたもの。あの獣が吠えているような声」
「陛下は私にはお優しいから」、とでも言ってやろうかと思ったけど、なんか嫌だ。好きじゃない相手としていることをほのめかして、張り合うなんて馬鹿らしい。
そんなことを言っていたら、手巾を鼻に当てて妙な鼻声でこれまた追従する声。
「恐ろしい。碧佳宮では幽鬼が出るといわれてましたものね」
あらまああ、とさざめく場。リディアが痛みに叫んでいたのは本当だ。けれど最初も疑ったけれど、あの広い宮殿だ、更に他の屋敷までは何キロもある、外に漏れていたかは不明。
「――私にはその声が聞こえませんけれど。そう言えば、“魔神”というものがこの地方にはいるとか」
さらっとかわして、ついでに“魔神”を出してみたら、途端に雰囲気が変わった。思わず手で口を押さえるもの、小さく叫ぶもの、顔を青ざめるもの、平静なのは紅妃ぐらいだった。だが彼女も、一瞬無表情になった。
「――その名は、昼間は出していけないのよ、碧妃」
紅妃が震える声で窘め、皆が不思議な動作を指でしている。まるで何かの魔除けをしているかのよう。
(十字じゃないよね、×を書いて縦に線をひく)
すぐに気づく、*だ。
「それは?」
前のめりに食い下がって聞くと紅妃が首を振る。
「碧妃。もうおよしなさい。皆、お子は自然に任せるもの。とはいえ碧妃も皆もはげむように」
その記号をもっと聞きたいのに。
子どもを作れ、ってそればかり。ライバルの子を本当は望んでないくせに。
嫌だなー思いながらも退出の挨拶をして立ち上がる。
その時、赤花宮の入口で声がする。少しの賑わい、ざわめく声。それから圧倒的な存在感がこちらに近づいてくる、遮ろうとしても誰もできない。足止め、引きとどめる声、『お待ちを』と。誰だろうと思っても、漏れ出るその輝きがまぶしい。
そして、左右に侍女が紗をかき分けると、まるで女王のように紅妃の真正面に圧倒的な美女が背筋を伸ばし、すくりと立っていた。
上品に左右に入ったスリットは腰の際まで。胸と腰とお尻の大きさは黄金比。美しいブラウンの髪は下ろしたままで結い上げず、アクセサリーは一切ない。
代わりに耳の上に挿している一輪の深紅の見事な薔薇は誰にも異を述べようがない程似合っていた。
そして彼女は閉じた扇を斜めに顎に当て、顎をあげて場を睥睨した。
「あなたは……」
紅妃が呆然として美女を見上げて、唇を震わせる。誰もがその美女に心を奪われるから当然だと意識の端で思う。
「ぶ、無礼ですよ、誰の許しがあって……」
追いかけてきた侍女が声をふりしぼるのを後ろから来た男性が被せる。
「――よい、俺が許した」
「……陛下」
紅妃が呟くのをファズーンが頷いた。
「そう、ここのヴァハラ陛下から許しを頂いたのよ。あなたの宮殿には用がなかったのだけど、失礼するわ、ナターシャ。それとも今は“紅妃”かしら」
「あ、なたは……」
その名を告げられた途端、彼女の目が丸くなる。怯えたのか手が震え、茶碗が転がり落ちた。
「ごめんなさいね。今の私は、魔法師団第三師団副団長、ローザリンデ・ヴァンゲル。グレイスランド国王、カイ・ゴットリープ三世陛下の名代として、我が国の養女リディア殿下の返還を至急願い受けるため、命を受けてやってきたの」
「な、なにを」
紅妃が絶句する。後ろのファズーンでさえも何も言えなさそう。彼の気まずそうで逃げ出したいような雰囲気さえも感じ取れる。
まるで過去の古い知り合いのよう。しかも弱みを握られていそうな。
場が硬直している。リディアも、キーファも、黄妃さえも呆然としている。彼女は圧倒的な迫力で、爆弾を落としたのだ。ディアンでさえも敵わないのではないか。
「え」
遅れてリディアも、思わずつぶやいた。今、何聞いた?
部屋の中を一瞥して、最後にリディアに視線を美の女神が定めて目を細める。
「他に用はない。行くわよ、リディア」
「待ってください、私は」
確か、グレイスランド国王の養女とか。聞き間違い!?
「一度しか言わない。それで反応しなさい、リディア。ヴァハラ陛下、この子を碧佳宮に連れていくけれどいいわね」
「――承知した……義姉上」
「え……!?」
リディアが口を挟む前に、美女の背が翻る。後ろの美女たちも混乱してざわめいている。ファズーンはどう抑えるのだろうと思いながら、リディアは慌ててローザリンデという美女の背中を追った。
翻す裾に、見せる背中、お尻は大変美しかった。この後宮の中でも一番の美に溢れている。完璧としか言いようがない。ピタリとした衣装なのに、下着の線さえついていない。もしかして下着をつけていないのだろうか。
そう思いながら回廊に追いついた頃で、美女が振り返る。
「ローザリンデさん」
「ローゼでいいわ。それで、私はあなたになにを教えた?」
「え?」
「そのみっともない返事と、とぼけた顔をやめなさい。それから、女性は背姿こそ美しく。背筋、お尻の形、足の角度。隙だらけの歩き方が全然ダメ」
「はい!」
怖いけれど、背筋がのびる。二度目の返事は求められていない。
「常におへその下に力を入れて凹ませる、丹田よ。頭の上から天井に糸で吊り上げられるように、肛門は内側に、膣も締めて歩く。極端に反り腰にならない。魔法を放つときは常にこの姿勢を。魔法を忘れてもこの姿勢を保つように、お尻がたるみ始めてる」
「はい!」
頷くと、彼女はまた背を向ける。その先はリディアの碧佳宮だ。
「では行くわよ」
碧佳宮では二人の侍女が、ローゼの美貌に圧倒して思わず息を呑んでいた。彼女二人を見て、ローゼは頷く。慌てて茶を用意する間に、リディアは彼女に椅子をすすめる。
「あの、ローゼ」
「額を貸して」
急ぐ様子に顔を近づけると、彼女が額を合わせてくる。わずかな間の後ゆっくり気配が離れていく。
「――グレイスランド国の養女というのはどういう意味ですか?」
「あなたがシルビス国の王女の義妹だったという話は聞いている?」
むしろ逆に質問されてしまったが、リディアは首をふる。額を合わせた意味も不明だ。
「あなたの兄が王女と婚姻したの、だから義妹。そのあと彼は亡くなったけれど、その姻戚は消えたわけじゃない。今回、あなたがグレイスランドのマクウェルの妻じゃなくなり、未婚でシルビス国のハーネスト姓に戻らされていたというのは聞いた?」
頷くと、彼女が手を取ってくる。それはとても温かくやわらかいものだった。
「誰が戸籍を弄ったのかは不明。けれど、戸籍もシルビスのものに戻されていたの。それより強いものとして、うちの人が働きかけてグレイスランド国王の養女にしたのよ、急遽ね」
「そんなことが……できるのですか?」
娘!? つまり王女様? ここでも、妃なんてとんでもないものになってしまったけれど、それよりも衝撃だ。だって、一国の王女。
いや、シルビス国の王女の義妹とかも訳がわからないけど。
「それよりあなたがファズーンの義姉とか……」
「ああ。あれは子分みたいなものだから気にしないで。血のつながりはない」
ファズーンが子分とか。もはやこの美女の存在は、理解を越えている。彼女は全く気にせず話を続ける。
「わからないとは思うけど、シルビスはとてもやっかいなの。なぜかはまだ明らかにできていないけれど、あなたに異様に執着している。あなたの兄のただの私怨かと思っていたけれど、そうじゃないかもしれない」
「私怨……?」
「少しね、妹のあなたに嫉妬してイヤガラセしてたの。――それから、この国に正式に抗議をするためにもそうしたの。一国民ではなく、王族が攫われたと体裁をとるためにね」
「……よくわかりませんが」
「理解しなさい」
ピシャリと言われて、リディアは背筋を正す。一度言われたことは言葉が足りなくても、自分の頭で推測しろ、そう言われたのだ。
「あなたの記憶は出てこないのじゃない。盗られたの。だからとり返しなさい」
「盗られた?」
「魔神とやらにね。――私の能力は、簡単に言うと記憶干渉」
大事なことを言われていると理解してリディアは息を呑む、そのままで侍女の気配を探る。窓から入る夕日の力が強くなった気がする、窓枠の黒が濃くなる。
「精神の中にある程度侵入ができるの。だからあなたの中を探った。で、記憶が出てこないのではなく、ないとわかった。――それからここでの会話は平気よ。遮蔽している」
「それも魔法ですか?」
「そう……というよりも能力かしら」
黄妃はともかく、キーファは置いてきた。魔法師団の彼らもまるで人払いをしたようだ。
「妃嬪達の中に、あなたの記憶を盗った者はいなかった。能力者はいない。となるとやはりジャイフか、周囲のものかしら」
どんどん話が進んでいく
「――少し、昔話をしましょうか」




