80.色の考察
薬を与えるために入り口付近で首を垂れるジャイフの姿が見える。信頼を失ったと思ったのに、無罪放免になったのか。
ただ一つの違和感に目を凝らす。ランプに照らされて、その影が伸びている。
わずかな痛みの合間にリディアはその影を見た。
手の巨人ではない、細く長い人の影のようなもの。ジャイフの影なのに、彼の影ではない。そこから出てきたのはまるで幽鬼だ。
髪を高く結い上げて、その影は二メートル以上にも天井まで伸びている。狼狽えて、何かを探すかのように周囲を動き回っている。
ファズーンも気づかず、ジャイフも見ない。
(誰……?)
その姿に問いかけて、リディアは意識を失った。
ようやく海嬪と黄妃が会いにくることができた。ファズーンからは、面会謝絶を言い渡され、彼らとは会えなかった。
刺繍をしていたリディアは、ペトラの知らせに、立ち上がる。
刺繍はどの国でも身分の高い女性が嗜むことが多い。リディアも手にしたらなぜか結構得意で、針が進む。それを机上に置くと二人が丁度部屋に入ってきた。
キーファの水色の目は濃く、心配そうに一心にリディアを見つめている。ペトラが茶を持ってきた後、すぐに侍女を下がらせる。
「体調はいかかですか? 侍女からは問題ないと聞きましたが」
キーファが聞いてきたのはどの段階のことかというと、多分塔でのこと。あれから廃宮や喜色宮や色々なことがあった。もしかしたらそれらも含めているかもしれないが、まずはと報告する。
「少し疲れていたけれど今は休んだからもう元気よ。それより海嬪、あなたこそ陛下とはどうするつもりだったの? あれからお誘いは?」
都市を訪ねる直前、夜の相手として海嬪が指名されていた。その日はリディアが体調を崩し海嬪のお呼ばれはなかったようだが、その後どうなったかわからない。
いさんで尋ねると、彼は心配げな瞳を細めた後、眉をひそめさせ、それから軽く肩を落として自分を落ち着かせた。
「本当に、あなたは自分よりも他人の心配ばかりですね」
「ずっと心配していたの」
「今回は流れましたし、今後もそっちは、なんとかなりますよ」
「なんとか、なるって……」
平然と答えたキーファの顔を見たリディアは、つい彼の胸元に目をやってしまう。男の人だよね。黄妃はすました顔で、お茶を含んでいる。気にするそぶりもない。
キーファもリディアの視線に気づいて、苦笑している。服の線では微かに膨らんでいるようにも見えるし、男性には見えない。慌てて目をそらし、リディアは頬に手を当てた。熱い。
「なんとかって……陛下は完全にそっちの趣味はないよ」
お茶を楚々と口に含んで黄妃が突っ込む。
「でしょうね」
「じゃあ、どうするつもりだったの」
「どうとでもできます」
動じずに飄々としている。その方法が聞きたい、キーファの危機だったのだけど、気になってしまう。
「教えませんよ」
そして、リディアの顔を読んでのこのセリフ。黄妃が呆れて扇で顔を仰ぐ。
「殺されたかもしれないのに。それとも、自分の魅力でノックアウト? あなたならわけもなさそうね」
「まあ、そちらの道に落とせたかもしれませんが」
リディアはぐっと息をのんで、思わず手で口を押えた。ドキドキして彼を見てしまう。なんだろう、なんでこんなに妖艶に笑えるようになったのだ。
最初はもう少し中性的だったのに。この後宮で一気に学んできたというか、身に着けてきた気がする。
もうリディアよりも色っぽい。
キーファは赤くなるリディアに、「すみません、冗談です」と言い微かに笑った後、急に眼差しを強める。その男性らしい鋭さを宿した瞳のギャップに驚く。
「――簡単です。ファズーンは俺のことにとっくに気づいていて、泳がせているだけです。二人きりになれば、何らかの動きがあると思っていました。あとはその出方次第で考えようと思っていただけです」
「……」
黄妃は空を仰ぐ。
息をつく。たしかにファズーンは、皇太后に会いに行くなら海嬪を連れて行けと行っていたし、リディアと仲がいいこと、立ち回りが上手いと気付いていそうだけど、男とまで気づいていたなんて。
その上、出方次第。リディアが忘れてしまっただけなのだけど、彼は相当能力が高いと思う。臨機応変に対応できるし、その言い方でも幾通りもの対処ができるとは感じる。でも、最奥の後宮で周り中は兵士だらけ。なのに、一人で戦うなんて危険すぎる。正体がバレている今でも危険なのに。
「もし、あなたがファズーンと取引するなら。私も口添えしたいけど……多分ややこしくなりそうね」
言いながら思う、それは足手まといなのだと。ファズーンはリディアを人質にする。キーファの案はリディアがいないことを前提だ。
「でもね、このところファズーンは変わってきていると思う。非情になれない、どこかで躊躇いを見せると思う」
キーファの方にずいって身を寄せる、ちょっと上に乗り上げそうなくらいに。
「……リディア、ちょっと近い」
「あ、ごめんなさい」
距離感が読めない人になっていた。慌てて離れようとしたら、そうではなく、と口元を抑えてなぜか顔を赤くしている。
「なんだよ。男ってスケベ」
「え?」
黄妃が呆れて男の子口調になる。
「……ちょっとその衣装は、近づくと」
リディアは見下ろす、同時に黄妃がフンと扇を畳んで嫌みたらしく頬に当てて言い募る。
「その衣装、リディアの谷間が見えるんだよね、海嬪」
「あ……」
慌ててリディアはキーファから一人分空けて座ろうとして、でも元の場所に腰を下ろす。
「何やってんの?」
だって、離れたら、キーファを避けたみたいだし、彼はわざと見たわけではない。ごにょごにょと言おうとしてやめて、目を泳がせながらキーファの方を見たら彼の方が困ってる。
「ごめんね。掛け物、と」
立ち上がり、椅子にかけてあった羽織を肩に纏う。黄妃は辛らつだ。
「まあ谷間だし。現物でもなし。見慣れればたいしたものじゃないでしょ」
「君は――」
「ここじゃ、女はありふれてるから見慣れた物。まあリディアは可愛いから別物?」
どう返せばいいのかわからなくなる。リディアは何となく肩にかけたショールの両側を寄せて、胸元を軽く隠す。確かに肩のスリットが開いていて、谷間が開いている。それにいつもより柔らかい生地で風が入りやすい。
キーファは自分を落ち着かせるように軽く息をついて、それから真顔になりリディアを見つめる。
「すみません。ここではそれが普段着なので、いつもは見えない位置まで離れていました。そのとても綺麗ですけど……今日の衣装は特に目のやり場が」
「なんだよ、海嬪ってやっぱり男だね」
キーファは黄妃を冷たく見やる、ただし手加減して。軽蔑ではなく、それ以上は黙れ、というように。
「――男です。好きな女性がお洒落をしている姿は見たいけれど、邪な目で見たことはありません。ただリディアの場合は心配だし、他の男に晒されているのも面白くない」
黄妃が扇で口を隠し笑う。
「紳士! それにキーファは妬心が強いね」
「普通……いいえ、リディアだからです。好きでもない女性のことは気になりません」
苦虫を噛みつぶしたような顔をしたキーファは黄妃を睨んだ後、リディアを見る。
「すみません」
ハラール風の衣装は、基本布地が薄く肌の露出が多い。高貴な女性ほど肌を晒す。こんなのを勝手に着てキーファが責められるのはおかしい。
「いいえ。構わなかった私の責任。黄妃もからかわないで、ごめんなさい」
「リディアは謝らないでください。正直に言わなかった俺も悪い」
黄妃が行儀悪く片足をソファに乗せて棗をかじる。
「あーあ。陛下も大変ね。妃同士で親しくされちゃ。で?」
「またファズーン陛下のお召しはあるでしょう。その時考えます」
そして、とキーファはリディアを見た。
「リディアは俺と一緒に来ないように。俺一人ならばどうでもなります、何があっても動かないでください」
「それって……」
「それ以上は言いません」
「何か、意味深」
黄妃がふーんと棗を口先で上品にかじった。
「ところで、陛下と廃宮に行ったのだけど」
奇妙な顔をするキーファとは別に黄妃は顔に何もださない。ただ、知っているんだなと思った。キーファには軽く説明したうえで二人に問いかける。
「南東にあるのが伯花宮、北西にあるのが闇花宮、それぞれが廃された理由って知ってる?」
「わかりませんが、意味深な名前ですね。四妃は具体的な色なのに、廃された宮殿はひどく抽象的だ」
黄妃は何も言わない。けれどキーファはすぐに名前に着目したようだ。
「ファズーンのいる王宮の屋根が黒、四妃の宮殿の四色。これで五色。でも他の二つの宮殿も色ならば、どういう意味かしら?」
キーファはしばらく考えて口を開く。
「国によっては高貴な色とされるので王宮は黒なのはおかしくありませんが。闇花宮”は色ではありませんが黒と表される状態、伯は白ではないが、東邦国の文字では白が入っている。そこから白と黒に連想できますね。でも黒が二回も使われるのは腑に落ちない」
「それに黒花宮、白花宮と単純にすればいいのに、じゃない?」
「黄妃は何か知っているのか?」
キーファの問いに、黄妃はぱちりと扇子を閉じて、首を振る。
「この国では色の位は制定されていないの。前はあったみたいだけど」
「知っているのならば教えてほしい」
「まあ黒が高貴な色とした時もあるでしょう。よくあること、都合が悪ければ宮殿の名を変える。リディアの碧佳宮だってご褒美でしょ? まあそうやって無くなっていったのかもね」
確かにそうだけど。じゃあ、二つの宮殿が廃されたのはどうしてだろう。
「俺はその宮殿を見ていませんが、あまりいい状態でなかったのなら、不吉なものとして捨てたのですよね。例えば闇は黒色と似ていますが、抽象的な状態です。あまりいい意味ではなさそうだ。例えば心の闇、一寸先は闇、など。ただ王宮が黒ならばそれに類似するから尊い色として使うことを避けた可能性もありそうです」
リディアも頷く。
「反対に伯は」
楽しそうに聞いている黄妃をキーファはちらりと見る。
「白と表されることはないが“伯”は――上の者、しいては”神”、という意味があります」
「あら、よくご存じ。“闇”は暗に通じる。暗君という言葉からも不吉よね。“伯”はまあ恐れ多すぎる、という事から廃止されたのかしらね」
実は、黄妃は知っているのかもしれないとキーファとリディアは目で通じあう。それでも教えてくれる時とそうじゃない時、全ては彼の気持ち次第だ。
「――確か、光の三原色は青、緑、赤ですね」
キーファの言葉にリディアは首を傾げる、聞いたことがあるけれど。
「その三色を混ぜると中央が白になります。そして色の三原色では、青、赤、黄色全てを混ぜると黒になります」
そういえば、授業で習ったような。円を三つ書いてそれぞれの三色が重なった箇所のことだ。でもそれが関係あるのか。
黄妃は何のこと? と目をぱちぱちと首をかしげている。キーファが図に書いて説明してくれた時、何かが掠める。でもそれは頭の隅からすぐに抜けていく。
「――それと俺は、リディアと別れることになったあの神殿の壁画に描かれた白と黒の顔をもつ有翼人が気になっています」
あ、と一瞬先ほどの何かが掠めた。それはキーファが言った失われた自分の記憶の映像か、または違うものかはわからなかったけれど。
「あの神殿に魔法師団が調べに行きましたが、更に崩れていて中には入れなかったそうです。あの壁画を見ることはできません。あれがメリクッサ神の神殿ならば、二つの神が白と黒かもしれない。俺もできるだけ思い出してみますが、他の神殿や絵も探してみます」
「ジャイフの神殿は誰も勝手に入れないからね。気を付けて」
黄妃がさらりと口にして、リディアは顔をあげた。
「あ……」
リディアは思わず口にする。それを二人が見てきて慌てて口を押さえる。
「三原色だけど色の全てを合わせると白になる、または黒になる。なにか、頂点というか、力の集約のような感じがして――」
そこまで言ってリディアは口を閉ざした。黄妃は笑みの形で聞いている、キーファは真剣に聞き入っている。
「それだけなの。ごめんなさい」
*闇花宮の場所は、北東ではなく北西の間違いでした(,24,5,27)




