76.暗雲をわかつもの
『リディア。リディア』
目をあけると、ファズーンが上にのり上げていた。二つの色の違う目が心配そうにのぞき込んでいる。赤銅色の髪がリディアの頬に雫を落とす。
何?、と聞きそうになり、ついでリディアは横を向いて、むせて水を吐く。
四つ這いの背をさする手は大きい。必死で水を吐きだそうと痙攣する身体を支えるむき出しの岩に着いた膝は痛い。
吐く水が鼻からも出てくるし、涙も出てくるし、痛くてたまらない。なんでこんな目に私はあったの!? ファズーンに恨みが募る。
「平気か?」
「……じゃ、ない!」
腕で鼻をこすると、リディアは四つ這いのままファズーンを振り返り睨む。
「あなたが、変な事するから!」
「――わかった。とりあえず、服を脱げ。冷える」
「とりあえず、が繋がってない!」
リディアは叫んで、また咳き込む。迷走神経反射が、喉を刺激している。収まらない。
ファズーンが兵を振り向けば、一人が頷き階段を駆け上がる。一人は剣を抜き警戒する。
「服を取りに行かせた。風邪をひく」
ひんやりとしていた地下はただでさえ寒いのに、濡れた服は体の熱を奪う。既に寒気に身体が粟立ち、歯の根がかみあわない。リディアはファズーンを睨む。
「夫婦だ、裸に何を気にする。抱き合えばいい」
「……ば!」
馬鹿なこと言わないで、と言いかけても彼は正気なのだ。からかいに似たようなものもあるかもしれないけれど、正しいと信じている。
リディアは背を向けて、湖をのぞき込む。自分達が落ちて乱れたはずの水面はもう静まっている。と、ファズーンが腰に手を回す。
「これ以上は行くな」
「それより離れてよ、あんなことしたら殴る」
「やってみるか?」
リディアは考える。
「あなたは、殴り合いをする妃が欲しいの?」
するとファズーンは笑い出した、確かにな、と頷き、ただしと腕でリディアをしっかりと捉まえる。
「これ以上は動くなよ。何もしない」
ここまでは譲るしかない。いつも彼とは譲歩のし合いだ。
「――深さはどれくらいかしら?」
自分の腕を抱いて、震えを抑えながら尋ねる。
「腰までもなかった。だが一瞬お前の姿が消えた」
驚き振り返ると、ファズーンは真顔だった。眉間にしわが寄り、湖に対する警戒心はリディアより強い。リディアの腰をだきながら、剣の柄にも手をかけている。魔獣がいるかもと思っている可能性も高い。
「抱きしめていたはずなのに。だ。――どうにも、お前はよく消える」
けれど、リディアはもうその声を聴いていなかった。
あの水の中で見た光景が忘れられない。凄く深くてあの子を捕まえられなかった。一メートルや二メートルではない。なのに、ファズーンは一メートル弱だというのだ。
「――害はないのね、この水」
「大いにあるだろう。お前を連れて行こうとした」
リディアはその言葉を流す。そんなことはいい。
(もう一度入れば、あの子を捕まえられる?)
助けなきゃいけない。あの子は――塔にいた子だ。ずっと幼かったけれど。
「ここの水は、しょっぱくないのね」
「……そうだ」
図書館都市の水路は塩湖だったのに、この水は淡水なのだろうか。リディアは立ち上がり、そこに足を踏み入れようとした。それをファズーンが掴む。
「あの木にふれたい」
「今度は木に捕まりたいのか?」
首を振る、そしてもう一度大きな木を見上げる。根は深く張っている。上から落ちてくる水が溜まり、ここの湖を作っている。
「ねえ。この木が濾過しているって考えられない?」
図書館都市の水が塩湖ならばその中に枝を張り巡らし、その水を水源にしている、そしてそれを吸い上げ真水にして貯めている。そうは考えられないのか。
ただ、その水に生き物が住んでいないのは謎だけれど。
考えられるのは、あまりにもこの空間が綺麗すぎるから。誰にも入り込めない聖なる空間のような気がした。
「ここに再度入るのは、調べてからだ」
「やめて」
不満を浮かべる顔に続ける。けれどここに人を入れたくない。ここは神聖な場所だ。魚もすまないほどの。この木のためだけにある。
「調べに人をいれないで」
「――ディアノブルの塔も封鎖した。お前を捕まえる疑いがある」
「やめて、絶対いや!!」
リディアの叫びのような声にファズーンの目が揺れる。自分が冷静さを失っているとわかる。それを探る顔。
「私はどうしても、ここに来なきゃいけない。見たの、あの子を救わなきゃ」
「誰を」
「子供、女の子」
「ここに来れば助けられるのか?」
「放っておけない手掛かりだから」
ファズーンは口を開き迷ってる。
「塔は、どちらにしろ開かない。周辺を封鎖しているだけだ」
「……」
ファズーンは首を振る、わかった、とリディアに譲歩するように。
「ならば、水質と空気、魔獣がいないかだけだ。最小限、せいぜい二人程度で調べさせ、必ずこの場所のことは、他に漏らさない」
「……」
「それから、上だけは庭と建物の修繕はさせる。それも最小人数だ」
リディアがじっと見ているとファズーンはため息をつく。
「お前は頑固だ。俺と二人だけならまた来てもいい」
「……私は、水にも木にも触りたい」
「ならば抱きしめさせろ。いい加減唇が青くなりかけている」
ファズーンが困り果てている。このくらいが譲歩なのだろうか。この木にも水にも惹かれる。図書館都市の水中の幻影都市のように。塔に呼ばれているように。
水の中にいた子をすぐに探してあげたいのに。
上からの声に、リディア達が上がると、侍従がリディアとファズーンの着替えを持ってきていた。二人それぞれ受け取る
リディアが一人で着るというと驚くが何も言わなかった。
リディアは絶対に自分に触るなと断り、背を向け着替える。
ファズーンの視線を感じたが彼は手を出してこなかった。それとともに彼も侍従に着替えさせるのを断っていた。
「――お前は、美しく気立てもよく政策を共に考えることができる女を二百人の中から探せるか?」
髪を乾いた布で上に巻き上げ、衣装を身にまとったところだった。
「後宮に入る女で、俺の目に留まる機会があるのはせいぜい妃嬪妾ぐらいまで。それ以降の二百人の中には、才気があふれ、性格もよく、民を思い共に国を発展させてくれる女もいるだろう。それらの中には、俺の目に留まれさえすれば、と思っているだろう」
「――ええ」
二百人もいれば、何人かはいるだろう。
「だが、それらは選ばれない。俺が目にする機会がないからだ」
「一応あなたが頑張って探せば……」
「二百人の女と毎夜寝るのか? たった一晩でわかるのか? せいぜい顔の美醜だけ。顔のいい女はどこにでもいる」
たしかに。
「今の四妃、八嬪、二十妾のなかに、マシなのはいるか?」
「……蒼妃とか」
「あれは気が弱くて頂点には立てまい」
「そうね、八嬪や妾の中には、才気があるが気が強く馴染めない者もいたし、優しい人もいた。でも、すべて――」
「言ってみろ」
「あなたのために育てられた気がしてる。たまに国政を考えてくれそうだけど、それより後宮も牛耳りそう。でもそれも必要だから。でも国政に女が入り込むのはまずいでしょ?」
「では闘いの経験は? お前ほど肝が据わり身を守れる女は?」
「――そこまで望まなくても。護衛をつけさせればいいのに」
「結局上りつめられるのは、常に立ち回りが上手い女だけ。そんなものを押し付けられる俺の側になってみろ」
リディアは新しいドレスに身を包む。寒いからショールを羽織る。貴金属は侍女がいないからつけない。翡翠の腕輪だけだ。
「お前は自分で衣装をつけられる。そんなことさえできない者も多い。俺はどんな人生になるか、わからない。だから共に歩んでくれる者を選びたい。何もかも自分で出来、意見もち、行動ができる。俺を持ち上げること、後宮に生きることに価値を置く女はいらない。お前を目にできた、それだけで俺は幸運だ。お前を皇后に迎えたいと思うのは当然だろう」
「――私の気持ちは? 夫がいたのに」
着替えを終えたリディアが姿を現すと、ファズーンは「そんなこと」と一笑に伏す。
「あなたの欲しい理由を聞かされても、そこに私のいたい理由がない。それは不公平だわ」
「でもお前は国政を考えるのは嫌いじゃない、闘いもできる、民を思える、お前に合ってない役じゃない」
「女の頂点は嫌」
「それだけか?」
「――好きな人と結ばれたい」
「今お前は、アイツとは夫婦じゃない。戸籍が外されている、だろう?」
「……そうなの!?」
よくわからない。そんな話は聞かなかったと眉を顰めるとファズーンは微かに笑う。
「魔神の力でそうされていると師団から聞かなかったか」
「ええ」
「そんなものだ。アイツらはお前に隠していることが多々ある」
黙るしかない。
「役に立たないと思われているのか、本当の仲間じゃないからか。または調子が悪いことを隠されているのか、それをよく考えろ」
ファズーンに抱き上げられて、高い背の雑草を抜けまた門の外に出る。どんな虫が出てくるかわからないからここは甘えることにする。
「私は、彼らを信じる」
彼等が隠しているなら必要ないか、不安にさせないか、または混乱させると思ってるからからだろう。
彼らに騙されてる、都合が悪いから隠されているとは思わない。
リディアが言えばファズーンはそれには答えず別の質問を投げかけてくる。
「――皇太后に手紙を書いていたな」
馬車に載せられるときに、思わず動きを止める。
「あれの性格は十分に話したぞ。喰われないように気を付けろ」
そして、ファズーンは苦い顔、不本意といった表情で出すように命じた。
「もし行くのであれば、海嬪でも連れていけ」




