57.魔神対悪魔
薄布に金の刺繍をしたドレスに深緑の絹のガウン、結い上げた髪に飾ったひと房のぶどうを模したエメラルドの簪、重ねた手の腕にはエメラルドの腕輪、後宮の女達には地味だと言われていたがリディアにとっては十分に着飾った格好。
足元を飾るのはサンダル。華靴が嫌だと言ったのでファズーンが送ってきたもの。
紅妃の館以外ではこれにしている。これも甲の箇所にドレスとデザインを合わせた刺繍がされていて、翠の葉と葡萄が見事に再現されている。
ストラップは金の紐、これは足首の金鎖と結ばれ、一定間隔に本物の金のコインと涙型の水晶が飾られ、しゃなりしゃなりと歩くたびに音が鳴る。
もう勝手にしてというほど豪奢だ。
「碧妃……なぜ来た」
呻くファズーンを無視して彼より前に出る。権力に、ファズーンに屈していないという事を示すため。
「私は、勝手に乙女に祭り上げられただけ、王の選定はできない。全く無関係の他国の人間です」
驚く諸侯の前で、ジャイフが微かに息を漏らし笑った。瞬間、悟る。
(彼の、読み通りの言動だった)
ジャイフは、リディアが出てくることを狙っていた。
しまった、と思った。この場に出てくるように仕向けたのは、ジャイフだ。けれど何をさせたかったのだろう。
「私は、リディア。リディア・ハーネストという名です。碧妃という名ではないし、妃にされたことを認めていません」
ざわめきが起きる。けれどすぐに静まる。
「碧妃。あなたはメルクリッサの乙女。王を選定なさいませ。それがあなたの役目です」
わざとらしく告げるジャイフの意図を探る。
全ての諸侯と、神官達の視線が痛いほどだ。皆がリディアという存在を凝視している。後宮の奥深くに隠された妃であり、選ばれた乙女。ヴェールで顔は隠されているが、垣間見える見慣れない白い肌や金髪は彼らには神秘的に映るだろう。
ジャイフが俯きひそめた笑いが聞こえた気がした。その役目を放棄するのはとんでもないと皆が囁いている、そしてなぜ彼女が出てきたのかといぶかしんでいる。
リディアは彼らの前に姿を晒してしまったことを悔やむ。
(――なるほど、私の逃げ場をなくすため)
神秘の存在。顔を隠したまま逃げ出し、ファズーン達の虚言であったと師団にふれ回してもらえばよかった。リディアの存在が、顔、姿、形がこの国で乙女と知られるほど、逃げられなくなる。
(けれど、――この状況下でも覆させることができる)
「では、乙女として宣告します。私は誰も選ばない。――この中から王は選ばれない」
そしてヴェールを左右の指にかけゆっくり外す。一度俯き、そこから顔をあげて彼らを見据える。透き通るような翠の目は、彼らには目新しいものだと映るだろう。
『おお』というざわめきが上がる。自分の容姿はそこまで珍しいものなのかと改めて驚く。妃嬪の中には、白い肌で翠の目、金髪の女性はいなかった。
嫌悪は感じられない、好奇の視線もあるが、声は感嘆の響きを帯びていた。後宮の女達の中では嫌みや妬ましさもあって、よい感情を感じなかったから驚く。
『美しい』という声に、心の中で眉をひそめたが表情には出さなかった。狙い通りだ。けれどあと一歩足りない、本当は彼らに衝撃を与え惹きつける何かがほしかったのだけれど。
”乙女が選ばない”、という衝撃を利用してやる。ジャイフを見ると彼はまだ俯き、ローブの下でうずくまっているだけ。
諸侯の驚きとは別に、彼は静かで微動だにしない。横のファズーンも驚いたようだが、それを表情に出すことはなかった。
(これも――ジャイフの手のうち?)
顔を晒し、誰も選ばないと宣言する。そこまでもジャイフの掌で転がされているのだろうか。
――ジャイフはリディアを憎んでいる。あの目は、ちょっとやそっとの事では許さないと言っていた。
最大級の苦しみを与えてやる――、それはどんなことだろう。今でも自分を毒で苦しませているのに。
乙女の役割をさせた後は用済み。でも簡単に開放はさせないで更なる苦しみを与えるだろう。
肉体か精神の苦痛か。立場上なら偽物と弾劾して、その選定を間違いだったと言えばリディアとファズーンを追い詰めることができる。神官長である自分の間違いも追及されるだろうが、逃れることもできるだろう。
でも。
(ファズーンに王位を与えて、それからリディアとファズーンを引きずり落とす、そんな回りくどいことをする?)
『あれこそ本当の乙女なのか?』
『それより、あんな宣言をなさるとは。乙女はどうされたのか』
「乙女は、魔神の呪いで真白になり、記憶もなくなりました。まだ混乱されているだけ。だからこそメルクリッサ神が降り、選定ができるのです」
ジャイフが言えば、なるほど、と納得の声があがる。
冗談じゃない、そんなので自分達の王を選ぶな。
(自分が名前を告げても、信じてはもらえない。――無視だ)
神官が乙女と言えば、本人が違うと言っても聞き入れない。
大衆の心理を悟った。審議の場ではどうだろう。誰も選ばないと言えば、彼らはファズーンを認めないのだろうか。
それとも乙女は混乱されているとまたもや言い含めるのだろうか。
――魔神は、ジャイフの影の中に戻っていた。口を引き結んでいたリディアを侍従長が手で促し退出を促す。
当日はいう事をきけと、脅すためだけに自分は呼ばれたのか。
(魔神だって好き好んでジャイフのいう事を聞いているはずがない)
報酬を求めているはず。
契約には犠牲が必要。まさか――自分を生贄に与える? いや、それとも――この国の民全ての命?
大きな契約には、大きな代償が必要。そんな言葉が頭をよぎる。過去の自分の経験談だろうか。
(少なくとも――自分は、そんな思い通りになる人間じゃ――ない!)
「ジャイフ……!!」
リディアは名を叫び、足を踏み出す。
侍従長が絹張りの台に載せておいた、剣士の武器の一つを手にした。ヘンシュの剣は大きすぎるし曲刀は操れない。
シヴァの長剣を手に取り振り落とすように鞘を抜き、伏せるジャイフの上から切りつける。
剣はみた目よりずしりと重かった。恐らくリディアが手にしたことのある武器は女物で速さを重視している。こちらは重力を利用し切りつける男性物の剣だ。柄は彼の掌に馴染むように形が歪んでいる。
それだけ愛用してきたということがわかる物だ。もう少し深く持たないといけない、力を入れ持ち方を微調整する。
至近距離だった、ジャイフは剣での闘いに慣れていない。物腰は鈍重、体格は細く、手の筋肉は剣を扱う戦士のものじゃない。
斬れると思った。脅しじゃない、見くびってもいなかった。剣を手にして相手を斬る時は本気だ。
――だから殺すつもりで背中からいった。けれど、彼が半身を振り返らせると同時に、影から伸び出てきた魔人の手が大きく伸び、リディアを掴み瞬息で壁にたたきつける。
(……っ、く)
衝撃で脳震盪を起こしたのだろう、意識が遠くなる。失敗した、それだけを認識した。
「碧――リディア!!」
ファズーンがすかさずヘンシュの大剣を取り、何もない空間、魔神のいるらしき場所へと両断するように大剣を振り下ろす。
魔人は女達しか知らない存在だ。先ほどもそうだったが、彼らはみえていない様子だったから、今のファズーンも気配だけで攻撃しているのだろう。
そして、他の諸侯達はリディアがいきなり乱心して剣を取り、いきなり壁にたたきつけられた、そう見えているのだろう。
だがファズーンに続き、ヘンシュが剣を取るとあっけにとられ逃げ回るのをやめる。
彼らは、リディアを掴む何かがいる空間に切り掛かる。
『……いったい……何が』『乙女が御乱心か』『いや、陛下が』
ざわめきの中でファズーンの声が吼える。
「ジャイフ、辞めさせろ!!」
「……私は何も……」
「リディアを殺すことは俺が許さん!」
ファズーンの一括にもジャイフは何もしなかった。霞む視界では、彼は途方に暮れ、むしろ固まっているようにみえる。
リディアは、シヴァの剣がそこに落ちているのを見た。吹っ飛ばされて、壁に身体が押し付けられ巨大な手との間で意識がなくなっていく。
最初は怒り。ジャイフにいいようにされているのを、これ以上は許せなかった。あのほくそ笑む顔の下を見たかった。
そして、自分がおかしなことをすれば乙女を危ぶむ者もいるはず。気が触れた女とファズーンと離そうとするだろうと。
ジャイフに害をなせば魔人が出てくると予想していたし、反撃も想定内。ただ、なぜ彼は今、魔神の制御を忘れたかのように呆然としているのだろう。
「……ディ……アン」
出てくるのは、その名だけ。こんなにも自分は弱い。剣の扱いについては、身体が自然に動いた。でも、何もできなかった。ここまで無力な人間だったの?
(くやしい……くやしい、よ)
機を伺うなんてできない、そんな知恵も働かせない。それは奥の手があってからのこそ、自分ならどんな状況下でもなんとかできる、という最終的な自信。
それが今はない。破れかぶれな行動で、圧倒的な力でねじ伏せられる。
――その時、神殿が揺れ始めた。強大な何かが近づいている。最初は、魔神の更なる攻撃かと思ったが、違う。
恐ろしい人外の存在。けれど魔神とは違う禍々しさとすがすがしさが混じる奇妙な力が近づいてくると感じる。そして、魔神は怯えるように逃げ出した。
リディアは壁から解放されて地面へと倒れこむ、その身体をファズーンが抱きとめた。
左右に開かれた大きな入口から差し込む光が場を強く照らす。鳥ではない、ドラゴンにしては小さすぎる。火の車に乗った甲冑姿の騎士、それは口が耳まで裂け赤い目をした悪魔だった。それが光を背に乗り込んできた。
地獄の大公は、ジャイフの影ではなく焦り壁の影に潜り込もうとしていた魔神を追いかけ、手にしていた巨大な槍を投げつけ、その巨大な手を壁に縫い付けた。
断末魔の見苦しい声が宮殿を揺らし響いた後、残滓も残さず消えた、そしてピタリと地震も止む。
『――いまのは、なん、だったのだ』
臣下の一人が腰を抜かし、呆然と呟く。壁が崩れていくつかの席片が転がっている中、リディアもファズーンの腕の中で、咳き込んだ。
骨は折れていないと思う。身体を動かすことはできる、空咳だけで吐血はないから内臓も傷ついてはないとも。ただ全身が痛い。
「リディア! 早く侍医を呼べ」
ファズーンがリディアを抱え上げて、歩き始める上げていた。その手は丁寧で揺らさないように最小限の力で、そっと抱え上げていた。
あの手に握りつぶされずに済んだ。配下の者達は、何が起こったかわからず怯えた顔で、うずくまり、もしくは逃げ出そうとしたのができずに防風にやられたかのように這う這うの体で転がっていた。
何人かは逃げたようだが、恐らく外から来た化け物に腰を抜かし、扉の外で啼いている。
それらの衆目の中、リディアはファズーンに横抱きにされて、外にでる。
急な階段をファズーンは駆け下りるように足を進めていく。リディアは魔人を撃退させた化け物が来た方向に目を向ける。直進して迷いなく貫いた元は、遥か彼方。
かろうじて岩山が視認できたが、それ以外はわからない。
(……ジェニパーベリーの香り)
ほんのりとレモンも香る。オレンジの木がこの王宮には立ち並ぶが、レモンの木はない。助けてくれたのは彼――ディアンだ。
眼下には街が広がり、リディアの碧佳宮もその中に、小さく立っている。
首をめぐらすとヘンシュがファズーンの背後に当然のように従い歩いている。
シヴァは自分の剣を床から取り上げ、だらりと手を落ろし呆然と固まっている。
「リディア、痛みはどうだ?」
「こほっ……っ……」
「いい、喋らなくてよい」
全身を壁に叩きつけられたときに衝撃はあったが、動ける。あのスピードと圧力ならば骨が砕けていてもおかしくない。こんな風に喋ることができるわけがない。
「――無理をするな、すぐ医者に診せる」
ファズーンは振り返り、一度中へ声を発する。
「――ジャイフは追って沙汰を出す。部屋で待て」
ファズーンに言われても、ジャイフは反応をしなかった。
いつものように、慇懃無礼に平伏し顔さえ隠さなかった。
ただ立ち尽くし、何をするのかも忘れたよう。それはまるで迷子の子どもに見えた。




