56.ジャイフの企み
高い声で前ににじるように足を運んできたのは、白い服に金糸の刺繍の服を纏った男性だった。
先ほどのジャイフの籠と同じ刺繍だ。同じ神殿の者。ジャイフ以外の神殿の者に会ったことがなかったから、意外な気がする。いるんだ、という率直な感想。彼らは普段は何をしているのだろう。
けれど今ここで揉めているのは、神殿の儀式について何かがあるのだ。そのためにリディアが呼ばれた。
巫女姫という自分を指す名称に顔が強張る。
リディアはのこのこ来てしまった自分を悔やむ。
ただファズーンがこちらに一瞥もしないことが気になる、やはり知らないのだろうか。
ファズーンは王座に座り堂々と左右のひじ掛けに手を置いて前を見据えている。首を垂れる臣下たちと、その奥にある自分の国。すべてが自分のものだと態度で知らしめている。
「お言葉ですが、神官殿」
――衣擦れをさせて、膝で這いずるように宰相のバハムトが一歩前に出る。頭にはターバンと、そこに羽をさしている。諸侯の中にはもう少し薄い布を被っている者もいる。
ファズーンはリディアの宮を尋ねる際は頭に布を被っていることがないが、ここでは一枚の白い布を金環でとめている。正装なのだろうか。
“これは、宰相のバハムトです”
リディアが目にするのは初めてだ。本来後宮の妃嬪達はファズーンものだから、外に出ず、男性の姿を見ることはない。姿を見せるジャイフやヘンシュが例外なのだ。
「すでに、陛下は即位されヴァルハラ国は安定している。今頃になり言いがかりをつけるとは謀反とみなされますぞ」
バハムトの険しい声は諸侯達を責めていた。
「陛下が神に選ばれたのは周知の事実でございます。ただ念のため、儀式を行わねばならぬというのが我々の一致した見解でございますれば」
バハムトは神官達とは反する意見のようだ。
“いいですか、リディア”
耳元で響くジャイフの声は、ところどころ掠れ、聞き取りにくい。リディアはそちらを見ず、聞こえないふりをした。
“あなたの役目はわかりますね”
リディアは不意に怖気に襲われた。
彼の纏うガウンの下からぞろりと赤い手が出てきて、床を走る。次第に巨大化してそれがシヴァとヘンシュの方へ向かう。不自然に波うち、踊るそれ。
凝視するが、リディア以外は誰も気づかない。ファズーンでさえもそうだ。その手がどす黒く褐色になり、さらに巨大化してシヴァとヘンシュの頭上にのばされる。
まるで叩き潰そうかというように。
リディアはヘンシュから一歩下がり、恐怖と共に非難の眼差しを向ける。
「脅し、なの?」
呟いて尋ねるがその相手は答えない。
あれは、この間ディアンを殺そうとした巨大な手だ。あれこそ魔神なのか、ジャイフは魔神を操っているのか。
「――神官のいう事はわかった。ならば神官長であるジャイフに答えさせよう。ジャイフ――」
ファズーンの王者の声にリディアを袖に残したまま、ジャイフは知らぬ顔で長い衣装を操りながら出ていく。
リディアは大きく息をつき、思い出したように呼吸をする胸を手で抑えつける。
彼がいなくなりようやく息がつけるようになった。
他のものには見えない光景だ。巨大な手は爪もあり、関節も曲がる。人間の手に見えるが、指紋は見えない。ただの疑似だ、それが薄気味悪い。
その手はヘンシュとシヴァの後ろで控えて微動だにしなくなった。
なのに、まるで意思があるかのよう。
逆らえば握りつぶすと、リディアに脅しをかけているのが恐ろしい。
だが諸侯たちが騒いでいるのは、リディアとは別の理由からだった。
歩みファズーンの王座の横に並ぶジャイフに全ての諸侯がざわめく、さすがにシヴァやヘンシュも声を失っていた。
不敬だ、とさざめく声。誰かが足を踏み出し、ジャイフに叫ぶのをファズーンが手をあげて制する。
「よい、ジャイフに語らせよ」
ジャイフは誰の前でもローブを外さない。常に銀の長い髪が覗くだけだ。その顔の下には嘲りの冷笑のみ。そして今、彼は横のファズーン達には語らずに、どうやってかリディアに頭の中で語り掛けていた。
“――あなたが誰を選ぶべきか――わかりますね”
まるで頭の中を犯すような声。無理やり入ってこられて、不快感だけが募る。
自分の意思を無視して、割り込み、わんわんと響き暴れる。脅されて重要なことを言わされてしまう。
――嫌だ。なのに洗脳する声は止まらない。
リディアはわからないと、両耳をおさえ首を振った。
「神が選んだのはファズーン今上陛下です。乙女を見つけたのですから」
ジャイフが低くも高くもない声で威圧を持って哀れな諸侯たちに告げる。
『――長であるジャイフと神官達の見解は違うのですか?』
問われる諸侯に、ジャイフが影で答える。
「いいえ。我らは儀式だけは行うべきと申しておるのです」
ジャイフが答えれば、神官たちはホッとしたように息をつく。
「――なるほど。叔父上と我が弟はどうだ?」
ファズーンが謁見の場に響くように尋ねる。
「私は、陛下に忠誠を誓ったもの。陛下の御代は既に安泰。脅かすものではございませぬ」
「同じく。謀反など考えてもおりませんとも」
ヘンシュは厳かに。シヴァは仰々しく応えるが、全てがリディアにはわざとらしく感じてしまう。
不意に怒りが沸いてくる。なぜ自分がここに巻き込まれているのだろう。
「ならばメルクリッサ神の再生の宴の際に、乙女直々に王を選ばせましょう」
ジャイフの低くかすれた声が朗々と響いた。ファズーンも驚いたようで、わずかに眉をひそめてジャイフを見る。
そしてリディアも驚き、悔しさで口を引き結んだ。いきなりの急展開だ。これを聞かせるために自分を連れてきたのか。
『だが、乙女はすでに陛下の妃にされている。公平ではなかろう』
『それは失礼であるぞ。神の代行である乙女であればどんな状況でも間違いはない』
どこからか士官が言えば、宰相が答える。場が割れる。
(――なぜ、こうなったの?)
リディアは自分の腕を囲む。寒さもあり肌が粟立つけれど、怖気もあった。巻き込まれたことがこの上なく嫌だった。
『ならば、乙女を妃から外せばいい』
『できぬ』
『後宮の婦女はすべて陛下のもの、何を言い出すのか』
「――私は、誰も選びません」
(――我慢できない)
――リディアは緞帳から出てゆっくりとシヴァの方に歩み、壇上から宣言した。ファズーンを含め誰もが驚き見つめているなか、全員を顎をあげてゆっくりと睥睨した。




