34.シルビスの場所
「全てを忘れたお前は、下界の穢れを知らぬ乙女だ」
返事をせず彼の声を背にして、部屋を見渡す。壁にある古めかしい地図に目を留めた。自分の背丈ほどの高さまであるその地図は、黄ばんでいるが印刷ではなく描かれたもの。
恐らく、羊皮紙に描かれた年代ものだ。
国境を描く綺麗な線、あまりの見事さに眺めていると飾り字で書かれたハラールの文字が目に入る。
大陸はゆがんだ逆三角形の形をしている。砂漠は大陸の三等分上の真ん中西寄りにあり、砂漠の西中央のオアシスにこの国はある。
大陸の北からの南へと走る長い峰は、この国のすぐ東に接して、そこを超えた先が東方国で蒼妃の出身。
砂漠を超えた南が紅妃出身の南紀国。
砂漠を北に超えた先に“グレイスランド”という名前があった。
皆から言われる“シルビス”はもう少し北だ。グレイスランドの五分の一位の小さな国で四方を他の国々に囲まれている。そこに指を触れていると、ファズーンも背後に立つ。
「お前はそこの出身だ」
「どうやらそうみたいね」
「金髪碧眼、小柄で美しい女性が多いらしいな。お前が美しいのももっともだ」
全く嬉しくなかった。国民が美しいからと言って何だろう。結局自分をみていないのではないか。でも見て欲しいと思わない。彼は――自分を見ていない、そう何度も思ってしまう。理想の自分をみているのではないかと。
「この国にも美しい女性がいます。そちらを見たら?」
彼はくつくつと笑う。
「その返答がいい」
リディアが息をはくと、扉が叩かれる。侍従長の声がする。
「陛下、そろそろ朝議のご支度をなさいませんと」
そうか、ここはファズーンの寝殿なのかと驚く。惨劇の名残がないから別の場所に移されたと思っていたが、随分な高待遇だ。そう思いながら風と共に運ばれた香りに首をめぐらす。
「ジャスミン……?」
「失礼しました。いつの間にか、壁沿いに群生しておりました。今刈らせているところです」
「待って!!」
リディアは、香る窓へと足を向ける。日が明ける前から早々に手作業で鎌を手に花を切ろうとしていた下僕たちが目に入る。
砂漠の地だ、日が高く昇れば暑くなり作業が困難になる。だから下僕や下女たちがまだ日が昇りきる前に早々に働き始めているのは知っていたけれど。
朝日を受けて花弁を開き、芳香をあげる花が無造作に刈られているのが見ていられない。
「切らないで、好きなの」
リディアの背後に大きな影が立ち思わず振り返る。両側を挟まれ向き直り、ずり下がることでしか逃げられない。
「なぜ、逃げる――この花が好きか?」
「後ろに立たれるとぎょっとするもの。――茉莉花は香りも花も可愛いから好き」
苦虫をかみつぶしたように、青い方の目でリディアを睨んだあと、侍従に目を向けたファズーン。
「お前は、俺を避けて花ばかりだ。桃源郷の花を全て揃えてやればいいのか?」
「花は……」
あなたよりも好き、それを言ったらさすがに人格否定だ。そして金銀財宝よりも好き、と言えば本当に毎日下男下女に揃えさせるだろう。
好き、と気軽に言えない立場だと思い知る。言えない、と言葉に詰まるリディアを見てか、ファズーンは侍従に顎で言い放つ。
「好きにさせてやれ。それから、改装が終わったら碧佳宮の庭に植えてやれ」
「――改装? なぜ?」
このまま碧佳宮に帰してもらえないの?
「碧佳宮の清掃と改装を命じてある。それまでは俺の寝殿で暮らせ」




