35.嬪
「――碧妃様」
ヴァルハラ宮を出て籠を断り歩いていくと言い張ると、それに苦い顔をする護衛と若干押し問答になりかけたところで、呼びかけてきたのは黄妃だった。
どうして、こちらに? と思ったのは、彼女が赤花宮に行くのは北に向かえばいいだけ。何も反対の碧佳宮に来る意図がわからない。とリディアの思いを読んだのだろう、彼女は籠の中から、ころころと笑った。
「今日から赤花宮に行くと聞いて。さあ、籠に乗って」
誘われて迷ったけれど、一度籠を地面に降ろされてしまえば乗らないわけにいかない。彼女も味方とは思えないけれど、情報収集は必要だし敵は作りたくない。とはいえ、仲良くすることで別の敵は作りそうだけど。
そんなリディアに気づいていそうだけど、彼女はご機嫌に手巾で顔半分を覆いながら艶っぽく微笑みかける。子どものような無邪気な様子の時もあれば、色気を見せる。十代前半なのに、リディアよりもよほど人を翻弄するすべは心得ていそう。
(当たり前だ。ここは後宮――)
そうじゃなきゃ、生きていけない。
「先週は、大騒ぎだったね。リディアの体調は戻ったの?」
二人になれば、彼女は、リディアと呼んで親し気に寄ってくる。まるでリディアを慕う妹のように。
でも、正直なにかありそうだ。苦手、そう思ってしまう。けれど邪険にはできない。
(今はまだ、様子見)
それよりも、あの騒ぎを既に知っている様子に、警戒心がわく。
とはいえ、当たり前だろう。陛下の暗殺騒ぎ。しかも一人の妃の宮殿内で。結局、リディアの剣の傷も塞がり、刺客をファズーンが倒した、との情報だけが伝わった。髪が短くなったのは、誰も何も触れない。侍従に揃えさせたのだろう、彼の髪は耳下で揃えられていた。
「ふふ。誕辰だったのに紅妃さまはフラれて面目丸つぶれ。でも碧佳宮での暗殺騒ぎでそのことはかき消えた――と思いきや陛下は自分の寝所にリディアを連れ込み一週間も閉じ込めて」
確かにそれは第三者から見た事実だけど、リディアからしたら言い訳は沢山したい。
でも、黄妃はリディアの唇を優しく押さえなぞる。口が開けない!
「――このままじゃ、リディアの懐妊は近いね。との噂だけど、その間は他の妃におこぼれが回ってくるからどうかしら? 前王は前寵姫のアイラ姫のご懐妊中もぴたりとも離さず毎夜お通いあそばれたというから、リディアも同じ道をたどるのかしら?」
黄妃は言いたいだけ言って、リディアの唇からようやく指を離した。
「黄妃、あなた――」
「柔らかい唇、羨ましいな」
彼女はその指を自分の唇に当てて可愛らしく小首を傾げる。その小悪魔的な仕草に何を言おうとしたかも忘れてしまう。
「ところで、碧佳宮の大掃除もお清めも終わったのでしょう? でも戻るのは怖くないの?」
今度はその話。でも、少し陛下の話から離れてホッとした。
「ええ。別に」
「リディアは、度胸があるね。他の妃だったら絶対嫌がる。陛下の寝室に寝泊まりなんて、あり得ないほどの待遇、かじりついてでもしがみつくのに。――陛下がお嫌?」
「……」
これは罠? ファズーン王が嫌だなんて口にしたら不敬でどんな噂になってしまうのかわからない。
「私は……怖いわ。色々と」
結局何とでも取れる無難な返事をした。
「ああそうね。まあ用心は必要よ」
見えてきた赤花宮の大門に、一人ずつ籠から降りる。
「それに、そろそろリディアも嬪を迎えなきゃ」
「え?」
嬪ってなに? 自分が? お嫁さんを取るの?
籠から降りて首を傾げていると、先を歩いていた黄妃が呆れたように足を止める。
「宮殿を与えられるのは、四妃だけ。他の八嬪はそれぞれの妃の宮殿の別棟に住むの。時によっては妾もね。嬪にとっては、陛下の寵姫に住むことで陛下の目にとまり、おこぼれにあずかれるからその宮に振り分けられたいのは当然だけど、反対に妃にとっては、罠だったり間諜だったり寝首をかかれないように注意も必要だから、誰が来るかは重要」
「そう。なのね」
「配置を決めるのは、現在皇后の代役の紅妃。今日あたりお話があると思うよ。くれぐれもお気をつけて」
赤花宮は相変わらず、香で部屋が曇り、薔薇の花の匂いで満たされている。窓から差し込む光も薄ぐらい。早く着いたはずだけど、紅妃の斜め前には蓮嬪、それから見慣れない女性が二人に腰を折っていた。
三人が黄妃とリディアに気づいて、あら、という顔をして話を終わらせる。今日の蓮嬪の耳飾りは、大きな三連のガーネットが見事だ。その一つ上の穴の上にも金環とパールが揺れている。髪に挿す簪は赤珊瑚に黒珊瑚。ネックレスはスギライトにソーダライトを交互にあしらわれている。
綺麗だなと思うけれど、それ以上の感想はない。
「あら、相変わらず碧妃は地味なのね」
「分不相応なものを身に着ける気にはなりませんから」
リディアが言うと、蓮嬪は微妙な顔をした。嫌みに取ったほうがいいのか、それとも謙遜かわからなかったらしい。
「そうね。碧妃は御髪が見事な金だから、髪はあまり飾り立てなくても十分かもね、そうね冠に真珠や大きな金剛石をあしらうのはどうかしら?」
黄妃の無邪気そうな声に。蓮妃は嫌そうに鼻にしわを寄せ、紅妃は表情を硬くした。金冠なんて、大王の姫しかしない。そんな大それたこと言わないでほしい。
「それにしても、耳飾りくらいつつけたら?」
「穴をあける気はないです」
「身体に穴をあけるのは高貴な者にしか許されていないのよ、出自の怪しい碧妃には許されるのかしら?」
上品そうに扇子で口元を隠し鼻で笑う蓮嬪にリディアは取り合わなかった。
自分はピアスの穴をあけていない。過去にあけていなかったのは、理由があるのだろうか。今は特にこだわりもないけどしたくない。
「それよりも、碧妃の体調はどう? 大変だったわね」
紅妃に座るように促されて、リディアは座る。紅妃は薔薇を象った金銀の簪を挿し、牡丹の絹の衣装を着ている。そして後ろの方に一度立ち上がり、座った女性は少しばかり背が高いと思った。
「私は、何のお役にもたたず。ただ震えているばかりで。陛下の安全を図るため宮を移動しただけです」
すらすらと当たり障りのない言葉がでてくる。
「そう、陛下は勿論、あなたにも何事もなくてよかったわ」
「おおいやだ。あなたの宮は汚れているのでしょう? なぜ陛下は取り壊さないのでしょう」
袖で顔を覆いわざとらしく蓮嬪はリディアに顔をしかめる。
「我ら四宮で中央のヴァルハラ宮を守る結界となるのです。蓮嬪は滅多なことを口にしないように」
リディアは平常を装い、少しその情報をインプットした。この中の造りは、意味があるみたいだ。
「でも、見た目も出自も変わり者の碧妃にはちょうどいいようですわね」
やはり蓮嬪は絡んでくる。それに困った顔をしている紅妃は窘めているけれど、たぶん味方ではない。
「出自、というのはどういう意味でしょうか?」
一応、試しに聞いてみる。あちらは挑発に乗った、と思って答えてくれたら幸運だ、程度のこと。
「あら、砂漠の向こうの国の野蛮な民族のこと。女も勉強して男性と対等に張り合う分不相応なことを考えたりするのでしょう、最悪だわ」
まあ、という言葉が響いた。眉を顰めるその顔、女性の幸せは高貴な男性に嫁ぐこと、その考えに皆が賛同している。
でも、リディアの出身国は、女は結婚が全てではない、という事だとインプットする。この国の後宮がやはり特殊。
紅妃が、それよりも、と口を開いた。
「今日は、皆に新しい妹を紹介するわ」
そういえば、先ほどからいる新顔の女性がスッと立ち上がる。ハシバミ色の髪に、蒼穹色の綺麗な瞳。
「海嬪よ、彼女は碧妃の碧佳宮に居住することにしたわ」
リディアは自分の宮殿に住むと聞いて驚いて、改めて彼女を見返す。そして彼女もリディアに目を向ける。
青い目は感情を映さず、軽く腰をまっすぐに落として挨拶を返されるだけだった。
***
新しい碧佳宮は、内装どころか造りも変わっていた。柱や壁、そして窓の位置。大門と正門の位置こそ同じだが、回廊の位置が違う。奥の主寝室への行き方も、そこの場所も違う。
内装は、やはり豪華だった。鉄環に支えられたチューチップ型の燭台はたくさんの蝋燭の火がともされて、血に汚れた絨毯もすべて取り換えられていた。
大理石の床はそのままだが、青に彩色された壁のタイルは、紋様が異なっているから、全て張り替えられたのだろう。青が基調だが、模様には赤やオレンジも使われたアラベスク模様、そこにははめ込み型の青や緑や赤のステンドグラス。
リディアが被っていたマリアヴェールを外しスーリが受け取る。
もとは他国の聖女からの名前のヴェールだが、薄手のヴェールは日差しと顔をある程度隠すことができる。
リディアの金髪が透けて見え美しいとペトラ達にも好評だ。この一重のヴェールは頭からかぶり、左右に垂らすだけ。額を金環で抑えればいいのですごく楽なので、最近はこれにしている。
「海嬪様のお館は西翼棟にしましたが、そちらでいいでしょうか?」
ここ最近わかってきたのは、スーリが館の大きな差配を行い、ペトラが身の回りの世話を行うこと。ペトラは若い娘らしくはしゃぎながら、リディアを飾り付けるけれど、そこに困っているとスーリが遠慮がちに窘めてくれる。
スーリが第一侍女、ペトラは第二侍女らしいが、ペトラはスーリに窘められると、あからさまに不満顔をする。
スーリが顔を伏せて思慮深く離れるからそれ以上は言えずに、リディアもペトラの好きにさせるしかない。関係はそんな感じだ。
「西翼は、夕日が強くない?」
「影になりますので、むしろ涼しいですよ」
頷くとスーリは気の利く侍女らしく優しく促す。
「一応のご確認を兼ねて。お声をかけに出向いたほうがよろしいかと思います」
海嬪は、妃であるリディアより位が低い。そのため、リディアが声をかけないと待つしかないのだと言う。今後は呼び出すこともできるらしいが、最初はリディアが出向き不自由がないか聞いてあげるのがよいらしい。
(おかしなことに、なっちゃったな)
この宮殿に馴染む気は全然なかったのに。




