32.波音に似ている
砂漠は夜になると強く風が吹き荒れる。ヤシの葉が風に揺らされてなびいている。風に吹かれる砂の音は、波音に似ている。引いては戻る音、まるで浜辺にいるようだ。
海の声を、砂の流れを、揺れる葉のささやき、風の声を口ずさむ。
それらが遠くなり、やがて目を開けると、目の前の窓から大きな月が見えた。石壁をくりぬいた寝台はひんやりとしていて、身体を少し冷やしていた。リディアはかけられていた薄い肌掛けを引き寄せながら、ゆっくりと起き上がる。
「目が覚めたか」
「ファズーン……」
「気分は?」
ファズーンは、窓辺の露台に腰をかけて、月を眺めていた。夜明けをこの人と見ることが多い。
リディアはゆるゆると首を振る。ファズーンがゆったりと大股で歩んできて、寝台の傍の卓から水差しを取り上げ小さな杯に水を灌ぐ。
それを差し出してきたのでリディアは受け取る。水を飲むと、少し頭が落ち着いた。
「歌っていたぞ」
「……わたし、何を歌っていたの?」
リディアはぼんやりと夢を回想した。何も覚えていない。窓の外からは揺れるヤシの葉が見える。やっぱり砂が吹かれる音は波音に似ている。
「知らん。聞いたこともない言葉だった」
だったら聞いても無駄だろう。懐かしく、優しい夢だった気がする。
彼は歩んできて、大きな手のひらをリディアの額に当てる。本当は嫌悪感を抱くはずなのに、慣れてしまったのかそれとも感情が麻痺しているのか。
「熱は下がったな」
「熱?」
「血にあてられたのだろう」
彼には、激痛に耐える時にいつも抱きしめられていた。その安堵に身体が慣れてしまったのか振り払う気が起こらない。されるがままにしていると、離れていく手に寂しさのようなものを感じた。その寂しさは、彼ではない。もっと違う誰かを求めていた。
逞しく、硬くなった手のひらは剣を握る手で、よく知るのとは違う。
目を閉じると、黒い服の男性がよみがえる。
中肉中背で、巨漢のような男性達が集まる中で、彼は小柄に見える。なのに、その服の下は鋼の筋肉だ。手のひらの力強さも安心感も一番知っている。会いたい、それだけが頭を占める。
「あの男のことを考えているのか?」
「……」
「お前の雪のように白い肌も、以前は呪いに覆われていたと聞いた」
「……誰から」
「調べさせた。魔法師団では有名だ」
「そう。でも記憶がないから」
「術を受けやすい身体だと。だから魔神の呪いが受けやすいとジャイフ報告を受けたが、そんなことはどうでもいい」
自分の身体の痛みは魔神の呪いだとジャイフは言う。でも薬を与えられて治るものが本当に呪いなのか。
「これは呪いなの? 私の過去はどういうもの?」
「……過去はない、確かに魔法師団では魔法を使っていたのだろう。だが今は使えない。ただの美しい姫だ。強いが美しく時にもろい」
反発を覚えて黙れば、彼の力強い瞳が見据えてくる。
「だから俺に守られていればいい。それとも俺に守られるのは嫌か?」
彼は自分のことを守れる強さがある。でも立場上、護られる人。そんな至高の存在に守ってもらえる女性は幸せなのだろう。でも、嬉しくない。
「そんな守られるだけの存在は嫌」
「その答えだと、誰に対してでもそうだったという感じだな」
そうなのかもしれない。彼への反発じゃなくて自分のことは自分で守りたい、その思いが強い。
「あなたの傷口――」
彼の首はリディアがつけた傷があったはず。なのに、今は血が止まり、うっすら痕になっているだけ。服は血を吸って、赤黒く半身を染め上げているのに。
「勝手に止まった。そう言えば、お前は傷を治す力があったそうだな」
知らない。傷を治す――それが自分の使えた魔法なのだろうか。でも、ファズーンの傷を治した覚えもない。あれだけ血が出ていたのに、勝手に止まったと考えるのもおかしい気がする。
拳を握り、自分の手を見下ろす。自身にはどこにも血がついていない、床や壁にも惨劇の名残はない。死体も血の臭気もないし、ファズーンに切りつけたあとも夢だったかのよう。
どうやた、違う場所に運ばれたようだ。
けれどファズーンの衣装は、そのまま。彼の血液が乾いて褐色に染め上げている。
何が夢?
どこからどこまでが本当におこったことなのだろう。
不安げに瞳を揺らしていると、口端をあげて笑った彼は、自分の酒杯をリディアに差し出す。
「飲め」
強い酒気に首を振る。匂いを嗅いだだけで、くらくらする。あわない体質なのだろう。
「お酒は飲めません」
酒気に酔い、ふらりと頭を揺らしたリディアに彼は強引には勧めなかった。ただし軽く眉を顰める。男らしく太めの濃い金色の眉が寄せられる。
青と琥珀の瞳に金髪、それを順にみて、リディアは一点に目を留める。
リディアが切りつけたせいで首筋の髪が左右で長さが違う。右側の耳の下だけが短い。
「それ、私が切ったから」
「そうだな」
「左右で長さが、違う」
彼は面倒気に首を揺らし、彼自身の腰の短剣を渡してくる。
「ならばお前が揃えろ」
目の前に短剣を晒される、武器を渡されてどうしろというのか。彼を傷つけないという保障はない。リディアの度胸を試されているのか、それとも彼のほうに度胸があるのか。
リディアは彼を睨んで、それから剣を手に取った。ディアンからの短剣は消えてしまった。ファズーンを傷つけられたのは、ディアンの剣だったのと、ファズーンの油断があったからだ。
ファズーンはリディアを試したいだけなのかもしれない。
「侍従に切らせるものでしょう」
「これを誰に切られたというのか? か弱い妃に? 刺客に切られたというぐらいならお前に寝首をかかれた方がましだ」
「その血はどう誤魔化すの?」
彼は笑うだけで、答えない。差し出した剣を引っ込めもしない。
これをつかえば、傷つけられるのか?
(それとも自分を――)
馬鹿だ。自傷行為は何も前に進ませない。それだけは絶対に自尊心が許さない。そう決めている自分がいた。
「剣は髪を切るためのものじゃない」
「そうか? 俺は理髪師を呼んで切らせるほどの贅沢な環境にいたわけじゃない」
どういうわけだろう。彼は謎が多すぎる、リディアは呆れたというため息をついた。
「貸しだから、私の条件を呑んでよね」
情報をだせと言った交換条件を忘れたわけじゃない。自分のこと、自分に執着するわけ、それから、他国のこと。多少の説明はあったが、まだ足りない。
装飾され床に縫い付けられたように重く太い足の机の上にあった無地の紙を彼に手渡す。紙さえも一枚が重く滑らかで上質だ。
それにはを構わず、切った髪が散らばるから肩の上で支えろと差し出せば彼が鼻で笑う。
「いらん」
紙を投げ捨てるから、リディアはむっとしてそのままファズーンの髪を左手に取る。以前彼に抱き上げられたとき、彼の髪がくすぐったいと言った。
剛毛ではない、彼の髪はリディアのものより硬く緩いクセがあるが、手に取った髪は意外に柔らかく艶がある。
自分の掌で壁をつくり彼の肌を傷つけないように髪に刃を当てる、その瞬間彼が腕を掴む。
「――己の肌を傷つけるな、いいな」
「いきなりで傷つけそうになったわ」
早速自分以外の者に傷つけられるな、というのか。けれど、彼の目は真摯でその皮肉をリディアはのみ込んだ。
ディアンのものほどではないが、よく研がれた剣は思った以上に切れ味がよく、髪がぶつぶつと音を立て切れていく。
けれど、綺麗に整えられない。侍従に後で揃えさせるだろうとリディアは大胆に切っていく。
「――知ってるか? 髪を切るという行為は互いに魂を許したもの同士しか、できない」
リディアは手を止めた。
「私は……そんなつもりじゃない」
「罪悪感だろう。お前は甘い」
だが、と彼は言う。
「これから俺の髪はお前に切らせる」
なんて迷惑。立ち上がった彼をリディアは目に見えて口を引き結んで睨み上げる。髪を耳下で不揃いに切りそろえた彼は不敵に笑い、上機嫌だ。
「まだ揃ってない」
「ならば、練習しろ」
目の前に白く薄い磁器の酒器が出てくる。
「礼だ。酌をしろ」
酌をさせることが礼なのか? 睨んでも彼は笑うだけ。いつもそうで、あきらめるしかない。
リディアが不機嫌になることを楽しむ時が、多すぎる。それは彼だけじゃなくて――。そう思い、誰だったかと考え込むとその姿は消えてしまう。
「酒が飲めないのは、王宮では不利だ。せめて酌ぐらいは積極的にこなせ」
それでも手を取らないリディアに、彼は卓に杯を置いて、顔をのぞき込んでくる。
「――怖い思いをさせたな。あれは、俺を狙ったものだ、すまなかった」
「……本当に?」
問いかけながら自分の声に頭が冴えてくる。王の命を狙ったものと考えほうが腑に落ちる。けれど、それではあまりにも単純すぎる。
「あなたは今夜、紅妃の元に行くと皆が知っていた。なのに予定を変えて私のところに来た。むしろ、私を狙ったとも考えられるのじゃない?」
「お前を狙った? あんな数十人がかりで、弱い女一人を?」
狙われる覚えはない。ただ、後宮争いに身を投じている。
後宮争いといえば、蹴落とすだけというシンプルな目的で、狙われる理由を探しても仕方がない。そして、暗殺はどの小説もドラマでも一番取り上げられる定番。実際に体験したのは初めてだと――思うけど。
「サソリ、毒蛇、毒物、侍女の裏切りに、濡れ衣――どれも定番そうだけど、策を労するし、不確実な上に時間がかかる。今回は、確実。けれど今回の方法のデメリットは、派手過ぎる」
鷹のように鋭い目が、驚きで見開かれ丸みを帯びる。リディアは自分の唇を指先でなぞりながら考える。
「確かに、私程度ならば寝ている間に剣で一突きのほうがいい。あなたを狙うなら、数で押したほうがいい。でもあなたを狙ったとしても、あれは派手すぎる」
「お前は……」
ファズーンはうめきながら、まだリディアを凝視している。
「か弱いかと思えば、兎を被っているだけか?」
「私の部屋で、あなたが派手に狙われた。派手に殺せば、そのことで利が得られるのは誰? それとも事をさらしたいだけ? あなたは私に謝罪をしたわよね、それは、つねに狙われていても、今日はその危険がなかった、あなたに私を巻き込むつもりはなかった」
リディアは腕を組む。
「あれはかなりの手練れだった。あちらは私も共に葬るつもりだった可能性が高い。いずれにしても思い当たる節をあなたは洗い出して、警戒しておいたほうがいいわね」
彼はリディアが語る間ずっと顔を凝視していた。そして終わったと同時に口元をゆがませると、天を振り仰ぎ、いきなり大笑いをする。
「お前は不思議な女だ。侍女の命一つで震えあがる、無防備で無垢にも見える。けれど、大胆に戦場に飛び込んできて剣を交わしたあとに今度は怯える。今度は、参謀なみに思考し、俺に意見する。一体どういう出自だ」
「……それは記憶がないから、私もわかりません」
「いいな、悪くない」
「興味をもたないで」
「――惚れた、好きになった」




