30.怒りを宿した瞳
大股で歩くファズーンの付き添いは最小限。輿は追い払ったのか、付き添うのは侍従長とジャイフ、それからヘンシュのみ。
「お前たちは、下がれ」
困惑の表情の侍従長に反して、ジャイフは心得たように慇懃無礼に頭を深く下げ、では、と姿を消す。ヘンシュも大きな体躯のわりにうまく頭をさげ表情を隠して出ていく。
ファズーンはリディア一人の体重をものともせず危なげなく片手で運び、あっという間に碧佳宮に入り、叩頭する宮の下女や女官を無視して、リディアを寝室のベッドに放り投げる。
クッションがよく効いて揺れる寝具にバランスがうまく取れない、逃げることができなかった。
「でていけ、部屋も閉じろ」
扉から覗くシーリ達の案じる眼差しを感じていたが垣間見る間もなく、扉が閉じた。嫌な予感に、リディアは寝台でずり下がる。
同時に、気圧されるな、と思う。強気で行け、弱気になるな、と自分に言い聞かせる。
「あの男に会ったのか?」
上に乗りかかり、寝台と己の身体でリディアを閉じ込めながらファズーンが問いかけてくる。その大きな身体は壁だった。痛みにあえぎながらリディアが見上げると、その眼差しは険しく、眉間には皺が寄り、声には怒気が混じっていた。
「一度のみ、と言ったはず」
「いうことを聞くなんて、いって、ない」
ディアンに貰った鎮痛剤のせいか、痛みが軽い気がする。今日はなんとか声が出る。息を何度も飲み込み、太ももに指を立てて痛みをこらえる。
さすがに痛みと意識を切り離す、そんな芸当はできなかったけれど。
ファズーンが、自分に足に爪を立て痛みをこらえるリディアの手を掴む。
「肌に傷をつけるのは俺のみ、お前でも許さん」
「勝手なこと言わないで」
睨むとそれ以上の視線の強さで抑え込んできて黙らされる。彼の視線は強い。記憶がなく自分というものが不確かだと、何が正しいかわからなくなる。いつも負かされて、黙るしかない。それがたまらなく悔しい。
彼は片手でリディアの両腕を捉える。
「何もしないと、高をくくるな。何でもできる」
そして彼はリディアの顎を捉えると不意に口を重ねてくる。押しのけそうとすると顎が強い力で下に引かれて開かざるをえない。
――こんなの、キスじゃない。悔しくてにらみ返せば彼もまたじっとリディアを見ている。無理やり開かされた口。ねじ込まれた舌はまるで意思をもっているかのようだった。同時に上を向かされて、甘い液体が流し込まれる。
痛みを消す鎮痛薬だ。口移しで与えられたことにショックをうける。この口じゃない、違うという思い、喉が震えて涙が出そうになりそんな弱さが嫌になる。
それ以上に、ファズーンに怒りを覚えていても、薬を与えてくれたことにホッとしている自分に動揺も走った。
ディアンとは違う厚めの唇。
ディアンは、リディアを奪うようなキスをする。息をする間を与えてくれない。早急にリディアの唇に己のものを重ね、追いつこうとすると離れていく。離れたあとに熱い視線を交わし合うことで、ようやく息をつくことができる、意識が戻ってきてこの人が好きだと思い知る。
ファズーンのキスは一方的で、唇を強く重ね、熱い舌をねじ込んでくる。リディアの意思はお構いなして、まるで口を侵されているようだ。
「お前のその瞳だ」
「……なに」
「抵抗し続け、屈しない。なのに、あと少しで落ちそうだ。俺はそれをしてみせたくなる」
リディアはこみ上げてきた感情をこらえて彼を見つめる。熱い怒りを鎮めてファズーンの瞳を見返す。
「……ただのあなたのゲームじゃない」
「そうだ。所詮獲物を落とすためのゲーム」
(――彼は女を対等とみていない、自分を好きにさせたいわけじゃない)
シヴァに“好き”について語ったが、ファズーンはやはり一般的な男性に当てはめてはいけない。好きになった女に対等の立場を与えない。なびかない女は獲物になる。
「……その後、捉えた獲物はどうするの? 適当に味見して捨てるのでしょう?」
「試されてみるか?」
「そんなものに巻き込まないで」
(これは正しくない。苦情を言ってもいい。なのに、ここの価値観は彼が中心で、自分の反論は聞き入れてくれない)
叫び返せば、ファズーンのリディアの顎にかけていた手が不意に下ろされ、布地を引きちぎる。現れた胸が砂漠の夜の冷えた空気に触れ肌が粟立つ。ファズーンの唇が首まで降りてくる。生暖かい唇に吸われ、噛まれた感覚にリディアは身をよじった。
「やだ……っ!」
「お前の雪の様に白い肌は男ならば所有印をつけたくなるのも道理」
笑いの中にかすかに悔しさがにじむ顔をリディアは見た。彼がなぜ悔しがっているのか。
「――古傷がある。誰に付けられた」
「なに?」
「お前の首にある噛み痕」
記憶がないけれど、白い肌に小さな傷跡があるのは知っていた。
「あの男か、それとも違うのか」
「……」
「柔らかく、弾力のある肌。男がいくつも傷をつけ、己のものだと知らしめたくなる」
ファズーンは呟き、リディアを押さえる手を外した。そして今自分がつけた傷をなぞる。
「やめてってば!」
「お前は本気で嫌がっているのか? 少しでも喜んではいないか? 自分の中の快楽に聞いてみてはどうだ?」
「………ちがう」
リディアは掠れた声で反論した。快楽がないかと問われ、屈辱が走る。でも弱々しく言い返しても、ファズーンが笑えば、まるで彼の言うことを裏付けてしまうかのよう。
強く反撃して、彼の腕から逃れればきっと違うと証明できるのに。そうできない。
「――ヴァルハラで身体に傷をつけることができるのは高貴な者だけ。まして王に付けられればお前は嫉妬の嵐に晒されるだろう」
「なんの、話なのよ」
言い返しながら何かが記憶をかすめた。思い出しそうで、思い出せない。
(……なんだろう)
「お前にも耳飾りを贈っただろう」
「頼んでない」
確かそう、ピアスの穴をあけるように侍女達にすすめられたことがあった。それが何か関係あるのかもしれない、そう思った時、彼の手が耳朶を撫でるから、首をすくめる。
『――お前は、耳が弱いな』
――欲望に熱を持ち掠れた声が聞こえた気がした。あの人に言われた。
「お前は耳が弱いな」
それと同じ言葉がリディアの上から降ってきて、思わずすがるような眼差しで見つめ返した。
彼は驚いたようにリディアを見つめている。
「……どうした」
「なんでも、ない」
「なるほど、誰かを思い出したか」
首なぞる手が降り、迷うことなく彼の指は鎖骨とリディアの乳首をなぞる。ひくりと腰が跳ね、怯えそうになった身体を意思で抑えつける。
硬い皮膚の指が触れるか触れないかの微妙な繊細な力加減に妙に反応する。
「耳だけじゃない、鎖骨も、胸も感度がいい。――楽しめそうだ」
「勝手に、好き勝手言わないで!」
暴れ蹴ろうとしたのに足を挟み込まれる。跳ね除けようとよじった体は下半身に体重をかけられ抑え込まれて動けない。
記憶が戻れば、形勢が逆転できるの?
こんな弱い自分はいやだ。リディアの反応を楽しそうに見ている彼を睨む。
「――犯せばいいわ」
「なんだと」
ならばもう犯せばいい。そうすれば自分に興味などなくなる。
「別に減らないし、構わない。でもあなたを好きになることはない」
挑戦的に見上げれば、彼もつられたように怒りを見せる。眉間が険しく、頬が引きつる。
ああ、この人は。
――怒りに染まっていた方が、美形だ。
琥珀は更に濃くなる、虹彩は紅くなり血の様。水色の瞳も朱が浮かび溶けあっている。ほぼ裸身に近い肌は、赤銅色が明かりに照らされて見惚れるほど。
互いに怒りを混じらせ見つめ合えば、ふと彼が怪訝そうに眉間を緩ませる。リディアを不思議そうに見下ろす。
「お前は、なぜそんなに俺を見ている」
「あなたは――怒りを宿したほうが、美形だと思った」
どこか自分の声が遠くで聴こえる。感心混じりでおかしい。
脅していたはずの相手に、まじまじと観察される経験などないのだろう。ましてや褒められるなんて。
虚をつかれた顔、緩んだ空気。リディアは、素早く彼の拘束の隙間を縫い腰のベルトの間に隠していた短剣を彼の喉に突き付ける。彼の首元の髪が散る。
そこは頸動脈だった。
「――お前は」
「さすがにこの至近距離では、取り上げられる前に切ることはできる」
ディアンの腰から抜き取り持ち去った剣だ、取られた彼は気づいていただろう。けれどそのまま行かせてくれた。
「何がしたい。その細腕、その態勢では殺すことも逃げることもできまい」
抑え込まれたままの上半身を起こした体は不安定だ。彼の首に剣をつきつけて脅しても、首でさえも筋肉に覆われ鍛えたそこに、致命傷を与えることは難しい。
「情報が欲しいの。私についてと、なぜ記憶がないのか、あなたがなぜ私に執着するのか。そして地図を見せて、ある程度の自由を与えて」
「随分と贅沢だ」
不敵に笑った顔は女に向けるものではなかった、小ばかにしているのでもなく、挑戦的だ。もともとリディアに甘い雰囲気を見せてはいない、どちらかというと征服欲を満たすためのいう顔だったが、そこにギラついた欲望の色が見えた。
途端、彼はリディアの胸をわしづかみにした。掴まれる痛みと驚き、そしてショックで息が詰まる。動じない演技はできなかった。
「……っ!」
「やはり女だ、こんなことで動揺する」
刃は彼の喉を滑っただけだった、ただその剣は鋭く尖らせてあったため、思った以上に彼の喉を深く削る。滴り落ちた血をかまわず、彼はリディアの腕をねじり、剣を取り上げる。
直後、転がされたと思えば床にうつぶせにされていた。両腕を後ろに取られ抑え込まれる。
冷たい床に胸があたり痛い、そして抑え込まれて息ができない。でもうつぶせにされたままの顔の横に、上から血が滴り落ちてくる。
顔の横にできていく血だまりに意識が奪われる。自分がつけてしまった傷は深そうだ。
(罪悪感を持つ必要はない)
獲物にされているのは私で、先に手を出したのも相手なのだから。
なのに、相手が傷ついていることが気になってしまう。
「……女を、口説くのが下手ね」
「そうだな、俺は武骨だ。武人の出なんでな」
自慢じゃなくて自嘲ぎみ、皮肉気に響くのは、どうしてだろう。
「お前を得るのはメルスト神がメイラ神と融合し、メルクリッサ神に変わる時。だが、その時まで手を出さないと思うな。犯さない限りは何でもできる」
(メリクッサ神?)
耳元に囁かれた言葉をよく考える。
――その時、空気がかわった。窓の方にいくつかの気配が入り混じる。リディアが身体を揺らすのと同時に、ファズーンがベッドの脇の曲刀を手にした。




