第四十二話 戻るところ
二日後。
仕事を終えた頃に来て。
そう言ったのは、ルーエルだった。
だから。
診察室の扉が叩かれたとき、ルーエルは時計を見た。
「どうぞ」
扉が開く。
見慣れた黒髪。
仕事帰りなのだろう。
袖口には薄く汚れがついている。
肩には、いつもの鞄。
「こんばんは、ネロさん」
「……どうも」
来た。
ルーエルは少し笑った。
「何です」
「いや」
「何ですか」
「ちゃんと来てくれたなと思って」
ネロが眉を寄せる。
「来いって言ったの、あんたでしょう」
「そうだけど」
「じゃあ来ますよ」
「うん。ありがとう」
何が気に入らなかったのか。
ネロは少し嫌そうな顔をした。
でも、帰りはしなかった。
「座って」
椅子を示す。
ネロが腰を下ろした。
ルーエルは机の上の記録を開く。
前回。
その前。
さらに前。
負荷をかけた時間。
症状の出方。
痺れ。
痛み。
魔力が本来の流れから逸れた量。
戻るまでにかかった時間。
少しずつ。
分かることは増えている。
「仕事は?」
「行ってます」
「それは知ってる。今日は何を運んだ?」
「木箱。袋。あとは石」
「重さは?」
答えを聞く。
以前よりは軽い。
休憩も取ったらしい。
「痛みは?」
「あります」
「今?」
「少し」
「痺れは?」
「右手」
「脚は?」
「帰りにちょっと」
ルーエルは書き留めた。
ネロは仕事を辞めていない。
でも。
最初に来た頃より、自分の状態を見るようにはなっている。
それでいい。
「じゃあ診ようか」
「あの」
「うん?」
「この前の人」
ルーエルは顔を上げた。
「この前?」
「急患」
「ああ」
ネロは目を逸らした。
「どうなったんです」
「助かったよ」
一瞬。
ネロの目が戻った。
「……そう」
「まだしばらく診ないといけないけど、危ないところは越えた」
「そうですか」
「うん」
「なら、いいです」
それだけ。
ルーエルは少し笑った。
「何です」
「何でもないよ」
「今、絶対何か思ったでしょう」
「思った」
「何を」
「ネロさん、優しいね」
露骨に嫌な顔をされた。
「聞かなきゃよかった」
「ごめん」
「謝るくらいなら言わないでください」
「そうする」
たぶん。
*
寝台に横になってもらう。
ルーエルは手をかざした。
魔力を薄く広げる。
まずは、いつもの流れ。
安静にしている状態では、大きな異常はない。
魔力量は多い。
やはり。
成人の平均よりも。
けれど、多いことそのものは病気ではない。
「少し負荷をかけるよ」
「またですか」
「またです」
「これ、いつまでやるんです」
「分かるまで」
「何が」
ルーエルは少し考えた。
「今日は、戻るところ」
ネロが眉を寄せる。
「戻る時間じゃなくて?」
「うん」
以前は。
散った魔力が戻るまでの時間を見た。
弱い負荷なら早い。
強い負荷なら遅い。
そこまでは分かった。
でも。
あの急患を診て。
一つ。
考えることが増えた。
魔力は、ただ流れているわけではない。
流れの速い場所がある。
緩やかな場所がある。
一度留まり。
そこからまた巡る場所がある。
それ自体は、治癒師なら知っている。
ただ。
あれほど細かく。
一人の身体の中で、魔力がどこに留まり、どこから溢れていくのかを追ったことはなかった。
なら。
ネロは。
散ったあと。
どうやって戻っている。
「始めるね」
ネロが頷いた。
重りを持つ。
腕に力が入る。
魔力が集まる。
流れる。
そして。
逸れた。
「……痺れました」
「右?」
「はい」
ルーエルは追う。
本来なら流路を通るはずだった魔力の一部が。
その外へ散っている。
ここまでは。
同じ。
「置いて」
重りを下ろす。
ここからだ。
散った魔力を追う。
すぐには戻らない。
組織の中に。
薄く残る。
十分。
二十分。
少しずつ動く。
ルーエルは目を閉じた。
散ったものが。
直接、元の流れへ戻っているわけではない。
少しずつ。
一方向へ寄っている。
そこは。
流れの緩やかな場所。
一度、魔力が留まり。
そこから再び循環へ戻る場所。
「ここか」
「何です」
「まだ動かないで」
「動いてません」
さらに追う。
右腕。
脚。
同じ。
散った魔力は、いきなり元の流路へ飛び込まない。
一度。
留まりやすいところへ寄る。
そこから。
身体が拾っている。
「戻る場所はある」
ルーエルが呟いた。
「今までなかったんですか」
「いや。ある」
「じゃあ何です」
「そこまで行くのが遅い」
ネロが黙った。
ルーエルは記録へ手を伸ばしかけて。
やめた。
まだ。
もう少し見たい。
ルーエルは、ごく細く魔力を伸ばした。
ネロ自身の流れを乱さないように。
位置を確かめるためだけに。
右腕。
肩。
胸元。
流れに沿って、ゆっくりと移していく。
その途中で。
ルーエルの指が止まった。
ネロの目が。
動いた。
ほんのわずかに。
今、自分が魔力を置いたところへ。
「……」
偶然かもしれない。
何も言わず。
魔力を右腕へ戻す。
ネロの視線も動いた。
今度は。
左へ。
また。
追った。
ルーエルは顔を上げた。
「ネロさん」
「はい」
「今、僕の魔力、分かる?」
「……何ですか、急に」
「分かる?」
ネロは怪訝そうな顔をした。
「分かりますけど」
「どこ?」
「右腕」
「どの辺?」
ネロが左手で示した。
正確だった。
ルーエルは黙る。
「……何ですか」
「いつから分かってた?」
「いつから?」
「僕が魔力を入れてる場所」
ネロは少し考えた。
「最初から」
「最初から?」
「先生、さっきから動かしてたでしょう」
ルーエルは。
ネロの顔を見る。
本人は。
何がおかしいのか分かっていない。
「ネロさん」
「はい」
「ちょっと試していい?」
「もう試してるでしょう」
「そうなんだけど」
「何が違うんですか」
「今度は、ネロさんに答えてもらう」
「……何を」
ルーエルはもう一度。
ごく細く魔力を伸ばした。
「今は?」
「右腕」
少し動かす。
「今」
「肘の上」
さらに。
「今は?」
「肩」
合っている。
速い。
迷いもない。
「これは?」
ネロが眉を寄せた。
「……二つ?」
ルーエルの目が止まる。
二筋に分けていた。
「どこ?」
「肩と、手首」
正確だった。
「先生」
「うん」
「何なんですか」
「僕も今、それを考えてる」
「は?」
ルーエルは。
自分の魔力を引いた。
ただ感じているだけではない。
位置が分かる。
動けば追える。
分ければ。
それも分かる。
「ネロさん」
「今度は何です」
「自分の魔力は?」
「……自分の?」
「分かる?」
ネロが黙った。
「分かるって、何が」
「どこを流れてるか」
「そんなの」
言いかけて。
止まる。
ルーエルは待った。
「……たぶん」
「じゃあ」
ルーエルは手を添え直した。
「さっき散ったところ。覚えてる?」
「はい」
「僕が誘導するから、自分で動かしてみて」
「どうやって」
「押さなくていい」
細く。
道筋だけを示す。
「ここ」
ネロが目を閉じた。
ルーエルは動かさない。
待つ。
少しして。
散っていた魔力の一部が。
揺れた。
「……」
もう一度。
今度は。
明確に。
ルーエルが作った道筋へ。
寄る。
ルーエルは息を止めた。
自分は。
動かしていない。
「ネロさん」
「何です」
「今の、もう一回できる?」
「……たぶん」
もう一度。
ルーエルは道だけを示す。
ネロが。
自分で動かす。
遅い。
ぎこちない。
けれど。
動いた。
「……できた」
ネロが目を開ける。
「何が」
「今の」
「だから何なんですか」
「僕が動かしたんじゃない」
「……?」
「ネロさんが動かした」
ネロは。
自分の右手を見る。
「普通じゃないんですか」
ルーエルは答えなかった。
普通かどうか。
まだ。
決めるには早い。
ただ。
少なくとも。
今まで診てきた患者に。
同じことをされた覚えはなかった。
*
「痺れは?」
「さっきよりない」
「痛み」
「少し」
「脚は?」
立ってもらう。
数歩。
歩く。
右。
悪くない。
「今日はここまででいいと思う」
ルーエルは記録を書く。
散った魔力。
留まる場所。
循環への復帰。
誘導可能。
自己操作。
最後の言葉で。
筆が止まった。
自己操作。
一度線を引く。
その横に。
小さく書き直した。
――要確認。
まだ。
それでいい。
「先生」
声をかけられた。
ルーエルは顔を上げた。
「何?」
ネロは少し迷ったようだった。
「俺、治るんですか」
ルーエルはすぐには答えなかった。
治る。
と言えば。
簡単だった。
今日。
一つ進んだ。
だからこそ。
簡単には言いたくなかった。
「分からない」
ネロの目が少し細くなる。
「でも」
続ける。
「最初に来たときより、分かることは増えてる」
ネロは黙っている。
「散ることが分かった。戻ることも分かった。どのくらい時間がかかるかも分かった」
今日の記録を見る。
「それで今日、どこへ戻るのかも少し分かった」
「はい」
「だから」
ルーエルは言った。
「できることは増えてるよ」
治るとは。
言わなかった。
でも。
ネロはしばらく黙ったあと。
「……そうですか」
と言った。
前より。
少しだけ。
柔らかい声だった。
*
診察を終え。
ネロが鞄を肩へ掛ける。
その鞄を見て。
ルーエルは、ふと思った。
「ネロさん」
「何です」
「仕事で運んでるもの」
「はい」
「もう一回、教えてくれる?」
ネロが眉を寄せた。
「前にも言いましたよ」
「うん」
「忘れたんですか」
「そうじゃなくて」
ルーエルは記録の新しい頁を開いた。
「前に聞いたときと、僕が知ってることが少し変わったから」
ネロはしばらくこちらを見た。
それから。
肩に掛けかけた鞄を下ろした。
「木材」
「うん」
「穀物。布。工具。石」
「石は?」
「鉱石とか。魔石とか」
「加工してある?」
「してあるのも。してないのも」
ルーエルの筆が止まる。
「加工前のものも直接運ぶ?」
「箱には入ってます」
「袋は?」
「あります」
「破れることは?」
「そりゃ、たまには」
「素手で触る?」
「物によります」
一つずつ。
聞く。
ネロは面倒そうな顔をしながらも。
答えた。
「どこから来るの?」
「色々」
「最近多いのは?」
ネロが少し考えた。
「北の向こう」
ルーエルが顔を上げた。
「北の向こう?」
「国境の先から来る荷。最近増えたって聞きました」
「いつから?」
「さあ」
「ネロさんが運び始めたのは?」
「……結構前」
「どのくらい?」
「覚えてません」
「そっか」
ルーエルは書き留める。
国境の向こう。
加工前の鉱石。
魔石。
袋。
破損。
素手で触れることもある。
それだけなら。
何の意味もない。
かもしれない。
ただ。
病気の原因は。
身体の中にあるとは限らない。
同じ場所にいる人が。
同じものに触れ続けて。
少しずつ。
身体の中の流れを変えていくことがある。
ルーエルは。
それを知っている。
「……先生」
「うん?」
「またその顔」
「どの顔?」
「何か見つけた顔」
「気になってるだけ」
「荷物が?」
「うん」
ネロが自分の手を見る。
細かな傷。
仕事でついたもの。
「これが原因なんですか」
「分からない」
「またそれ」
「うん。また」
ルーエルは頷いた。
「でも、調べる価値はあると思う」
「どうやって」
「まず、同じものを運んでる人に同じ症状がないか」
「たぶん、ないですよ」
「どうして?」
「聞いたことないから」
「じゃあ」
ルーエルは少し笑った。
「それも大事な情報だね」
ネロが怪訝そうに見る。
「俺だけなら、関係ないんじゃないですか」
「そうかもしれない」
「じゃあ」
「でも」
ルーエルは続けた。
「同じものに触れて、ネロさんだけに起きるなら」
そこで言葉を切る。
荷だけではない。
ネロ自身にも。
何か。
「……何です」
「それも調べないと」
「俺のほう?」
「うん」
ネロは嫌そうな顔をした。
「やっぱり、ろくなこと考えてない」
「失礼だな」
「さっき俺で実験した人が言います?」
「治療です」
「実験に近いって言ったでしょう」
覚えていた。
「そうだった」
「ほら」
少し。
ルーエルは笑った。
*
「仕事場、見に行っていい?」
ネロが瞬いた。
「先生が?」
「うん」
「何しに」
「荷を見たい」
「治癒師が来たら目立ちますよ」
それは。
考えていなかった。
「困る?」
「別に。こいつ働けないとか言われるなら困りますけど」
「…行くとよくない?」
「……先に話しときます」
ルーエルは少し驚いた。
「いいの?」
「俺の仕事のことなんでしょう」
「そうだけど」
「なら俺がいたほうが早い」
ネロは鞄を肩へ掛け直した。
「いつ来るんです」
「ネロさんがいる日に」
「仕事あるんですけど」
「だからだよ」
「邪魔しないでくださいね」
「気をつける」
「本当に」
「そんな信用ない?」
ネロがこちらを見る。
「……ありますよ」
思っていなかった答えだった。
ルーエルが黙ると。
ネロのほうが目を逸らした。
「少しは」
付け足した。
「何です」
「いや」
「だからその顔やめてください」
「笑っただけなのに」
「それです」
よく分からない。
*
ネロが扉へ向かう。
手を掛けて。
少し止まった。
「先生」
「何?」
「急患」
「ああ」
「助かってよかったですね」
ルーエルは少しだけ目を見開いた。
今度は。
笑わなかった。
「うん」
それだけ返した。
ネロが出ていく。
「ネロさん」
診察室を出ようとしていた背中が止まった。
「何です」
「仕事場の話なんだけど」
ネロが振り返る。
「仕事場?」
「うん」
ルーエルは机の上に置いていた紙を一枚取った。
書きかけの報告書を開いて。
北で診た症例の記録を読み直した。
環境。
接触。
期間。
魔力への影響。
それから、ネロの記録を並べた。
同じではない。
症状も違う。
経過も違う。
けれど。
長く触れているものを調べる必要がある。
その考え自体は、間違っていないと思う。
「僕が行って、困らない?」
ネロが眉を寄せた。
「いいって言ったでしょう」
「それは聞いた」
「じゃあ何です」
「治癒師が患者の仕事場まで来たら」
ルーエルは言った。
「ネロさんが何か病気だって思われるかもしれない」
ネロは黙った。
ほんの少し。
視線が逸れる。
それだけで十分だった。
「……別に」
「うん」
「別に、いいです」
「分かった」
ネロが怪訝そうに見る。
「何が」
「別に、ではないってこと」
「言ってないでしょう」
「言ってないね」
ルーエルは頷いた。
だから。
言わせる必要もない。
「調査として行くことにした」
「調査?」
「北で診た症例の報告を書いてるんだ」
紙を見せる。
まだ途中だ。
診療の合間に書いているから。
なかなか終わらない。
「環境から受ける影響についても書く。そのために、中央へ入ってくる鉱石や魔石がどう扱われているのか見たい」
「……俺のことは?」
「言わないよ」
「でも」
「ネロさんがそこで働いてることと、僕が荷を調べたいことは、どっちも本当だから」
ネロが黙る。
「嘘はつかない」
「……面倒ですね」
「何が?」
「先生が」
「そうかな」
「そうですよ」
何が面倒なのかは。
教えてくれなかった。
扉が閉まる。
ルーエルは机へ戻った。




