第四十一話 巡るもの
局所では効いた。
問題は。
それを、どう全身へ広げるかだった。
「全部いっぺんには駄目なんですよね」
エリオが言った。
「うん」
ルーエルは患者の身体へ視線を落とした。
腕。
胸。
腹部。
脚。
魔力が留まりやすい場所はいくつもある。
そのどこでも、今は流れが速すぎる。
「一か所ずつ?」
「それも考えた」
「違う?」
「たぶん遅い」
患者の魔力は今も減っている。
局所で一つずつ整えている間にも、他の場所では消耗が続く。
時間をかけすぎるわけにはいかない。
「エルヴェ」
医師に呼ばれ、ルーエルは顔を上げた。
「はい」
「熱は少し下がった。薬は効いてる」
患者の瞼を持ち上げる。
呼びかけへの反応を確かめ、それから指先を取った。
爪を押す。
白くなったところへ、ゆっくり色が戻る。
唇も見る。
胸の上下を数える。
「呼吸はまだ速い。少し浅いな」
「悪くなっています?」
「今すぐどうこうじゃない。唇と爪の色も悪くない。だが、このまま速い呼吸が続けば消耗する」
水分は入れている。
熱も下げている。
それでも、身体はまだ危ういところにいる。
「こっちは保たせる」
医師が言った。
「お前は原因をどうにかしろ」
「はい」
「ただし、呼吸が悪くなったら止める」
ルーエルは頷いた。
「分かりました」
今なら。
まだ間に合う。
*
魔力の流れを、もう一度全身で見る。
速い。
どこも速い。
けれど。
同じではない。
胸。
腹部。
脚。
留まりやすい場所の広さも。
そこへ流れ込む魔力の量も違う。
「ここが一番大きい」
ルーエルは患者の胸元へ手を置いた。
「さっき見つけたところ?」
「うん」
全身を巡る魔力の多くが、ここを通る。
本来なら。
一度、流れが緩み。
使われなかったものが留まり。
また必要に応じて循環へ戻っていく。
今は。
全部が素通りしている。
「ここから戻す」
「一番大きいところから?」
「うん。ここが落ち着けば、他も少しやりやすくなると思う」
「思う?」
「初めてだからね」
医師が横から言った。
「分からないものを分かったふりされるよりいい」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
*
最初は胸部。
ルーエルは患者へ触れた。
「エリオ」
「はい」
「全体を見てて」
「分かりました」
「僕はここを見る」
役割を分ける。
ルーエルは目を閉じた。
速く流れている魔力へ。
自分の魔力を薄く重ねる。
押さえつけない。
塞がない。
患者自身の流れを、本来留まるはずの場所へ誘導する。
腕で試したときより、ずっと難しい。
流れ込む量が違う。
強く押せば詰まる。
弱すぎれば、そのまま通り抜ける。
力ではなく。
方向を。
ほんの少し。
こちらへ。
「……」
額に汗が浮いた。
一筋。
こめかみを伝って落ちる。
拭わない。
今、目を離したくない。
「ルーエル先生」
「うん」
「胸の流れ、落ちてきました」
まだ。
もう少し。
速かった魔力が。
少しずつ。
緩む。
留まる。
そこから。
ゆっくりと、また巡り始める。
「入りました」
エリオが言った。
ルーエルも分かっていた。
「全体は?」
「まだ速い。でも、さっきより少し」
「エルヴェ」
医師だった。
「手を離せ」
ルーエルはすぐに離した。
「何かありました?」
「呼吸が浅くなった」
医師は患者の胸元を見る。
呼吸を数える。
唇。
爪。
瞼を開く。
「……少し待て」
ルーエルは患者の魔力だけを見た。
胸部の流れは。
まだ留まっている。
戻ってはいない。
「詰まってはいません」
「なら待て」
「はい」
しばらくして。
患者が大きく息を吐いた。
次の呼吸。
その次。
「戻った」
医師が言った。
もう一度、爪を押す。
色が戻る。
「続けていい。ただし、さっきよりゆっくりやれ」
「分かりました」
ルーエルはもう一度、患者へ手を置いた。
*
次は腹部。
同じように。
ただし。
同じ力ではない。
胸より狭い。
流れも違う。
患者の身体に合わせる。
留める。
巡らせる。
「ここも」
エリオが言う。
「うん」
二つ。
次は脚。
三つ。
もう一方。
四つ。
一つずつ。
流れを戻していく。
額から、また汗が落ちた。
暑いわけではない。
患者へ重ねている魔力そのものは、ごくわずかだった。
問題は量ではない。
患者自身の流れを追いながら。
速すぎるところだけを緩める。
留める場所を外さず。
それでいて塞がない。
一つを整えている間にも、他の流れは動いている。
全部を見続ける。
「先生」
「何?」
「一度休みます?」
「まだ大丈夫」
顔を上げない。
エリオは何も言わなかった。
ただ。
さっきより白くなった横顔を見ていた。
「先生」
「うん」
「魔力量」
「分かってる」
「患者のです」
そこで。
ルーエルは顔を上げた。
「どう?」
「減ってません」
一瞬。
言葉の意味が入ってこなかった。
「もう一回」
「さっきから、ほとんど減ってません」
ルーエルは患者の流れを追った。
確かに。
留まる。
巡る。
また留まる。
魔力が。
身体の中にいる。
「……うん」
それだけ答えた。
額の汗を拭うこともしなかった。
まだ。
終わっていない。
*
最後の一か所を整える。
速かった流れが。
緩む。
留まる。
そして。
また巡る。
ルーエルはゆっくりと手を離した。
指先が冷えていた。
一度握る。
開く。
「どう?」
エリオが全身を見る。
長い沈黙。
「……流れてます」
「速さは?」
「普通……だと思います」
「思います?」
「先生みたいに細かく分かりませんよ」
「そっか」
「でも」
エリオが患者を見た。
「さっきとは全然違う」
ルーエル自身でも確認する。
胸。
腹部。
四肢。
魔力は動いている。
止まってはいない。
必要な場所へ流れ。
留まり。
また巡る。
「脈、下がってる」
医師の声がした。
ルーエルが顔を上げる。
「呼吸は?」
「待て」
医師が胸の上下を数える。
先ほどより。
深い。
速さも少し落ちている。
患者の指を取り、爪を押す。
色の戻りを確かめる。
「悪くない」
「熱は?」
「今測ってる」
少し待つ。
職員が告げた数字は。
下がっていた。
「薬も使ってる。冷やしてもいる」
医師が言う。
「熱が下がったのを全部お前の治癒術の手柄にはするなよ」
「しませんよ」
「ならいい」
「でも」
エリオが言った。
「魔力反応も落ちてます」
室内が。
少しだけ静かになった。
魔力の流れ。
脈。
呼吸。
熱。
違うものを見ていた全員が。
同じ方向を見た。
良くなっている。
*
患者が目を開けたのは、それからしばらく後だった。
最初は。
ほんの少し。
瞼が動いた。
医師がすぐに気づく。
「聞こえますか」
返事はない。
瞳を見る。
左右。
呼びかけへの反応。
「名前、言えます?」
唇が動いた。
声にはならない。
「無理に喋らなくていい」
医師が言った。
「ここがどこか分かる?」
患者が。
わずかに頷いた。
エリオが息を吐いた。
ルーエルは何も言わず、患者の手首へ触れた。
魔力は。
まだ少ない。
当然だった。
失ったものが、すぐに戻るわけではない。
けれど。
流れは。
静かだった。
「もう抜かなくていい」
ルーエルは言った。
エリオがこちらを見る。
「はい」
「むしろ、これから戻す」
ただし。
急には入れない。
正常な循環が保てることを確認しながら。
少しずつ。
「魔力を補いますか」
「うん。でも、ゆっくり」
「また流れ出したら?」
「止める」
言ってから。
ルーエルは少し考えた。
「……違う」
エリオが笑った。
「留める?」
「そう」
*
妻を呼んだ。
患者はまだ、ほとんど話せない。
それでも。
妻の姿を見ると。
目が動いた。
「あなた」
妻が寝台へ駆け寄る。
手を握る。
「分かる?」
患者が。
小さく頷いた。
妻が俯いた。
声は出なかった。
肩だけが震えた。
ルーエルは少し離れた。
今は。
自分がそこにいる必要はない。
廊下へ出る。
壁に背を預けた。
ほんの少しだけ。
目を閉じる。
「先生」
後から出てきたエリオが呼んだ。
「何?」
「顔、真っ白ですよ」
ルーエルは目を開けた。
「そう?」
「そうです」
自分の頬へ触れる。
よく分からない。
「まあ、終わったから」
「そういう問題ですか」
「違う?」
エリオは答えなかった。
代わりに。
「患者さん、助かりますか」
ルーエルは扉を見る。
少し前なら。
同じ問いに。
大丈夫とは言えなかった。
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ経過は見るよ」
「そうじゃなくて。今のところ」
ルーエルは少し考えた。
「……うん」
それなら。
言える。
「助かると思う」
エリオが笑った。
今度は。
ルーエルにも。
何が嬉しいのか分かった。
*
記録室へ戻る。
紙が何枚も増えていた。
最初に書いたもの。
魔力量――低下。
魔力反応――亢進。
その下。
魔力流路――持続亢進。
そして。
局所誘導――有効。
最後に。
ルーエルは一行を加えた。
全身誘導後、循環安定。
エリオが横から覗き込む。
「これ、病名はどうするんです?」
「病名?」
「記録に残すでしょう」
「残すけど」
ルーエルは紙を見る。
魔力過多ではない。
魔力欠乏は起きていた。
でも。
それも結果だった。
「同じ症状の患者、また来るかな」
エリオが黙った。
「分かりません」
「僕も」
過去に三度の魔力過多。
抵抗の少ない魔石を、ひと月ほど扱い続けたこと。
そして、おそらく。
この患者自身の魔力流路の性質。
どれか一つだけで起きるなら。
同じ工房でもっと患者が出ているはずだった。
「いくつか重なったんだと思う」
「じゃあ、病気として名前をつけるほどじゃない?」
「まだ分からない」
一例では。
何も決められない。
同じ症例が。
二度と来ない可能性だってある。
それでも。
記録には呼び名がいる。
次に読む人間が。
何について書かれた記録なのか分かるように。
エリオが考える。
「魔力流路過活動……とか?」
「そのままだね」
「分かりやすいでしょう」
「うん」
ルーエルは紙の端へ書いた。
魔力流路過活動――仮称。
病名ではない。
今回。
この患者に起きたことを示すための。
仮の名前だった。
「次に同じ患者が来たら」
エリオが言った。
ルーエルは顔を上げる。
「来るかな」
「……分かりません」
「僕も」
たぶん。
滅多には来ない。
来ないほうがいい。
「でも」
エリオは記録を見る。
「似た患者が来たとき、魔力過多だと思って抜き続けなくて済みます」
ルーエルは少し黙った。
今日。
最初に行われた処置は。
間違いではなかった。
症状も。
職業も。
魔力反応も。
魔力過多を示していた。
自分だって。
最初に診ていれば、同じ判断をしただろう。
でも。
次は。
魔力量を見る。
流れを見る。
どこで留まっているかを見る。
今日とまったく同じ症例でなくても。
今日見つけたことは使える。
「うん」
ルーエルは記録を閉じた。
「次は、もう少し早く気づける」
*
救急室を覗く。
患者は眠っていた。
さっきまでとは違う。
苦しさに意識を失っているのではない。
ただ。
眠っている。
妻が横に座っている。
医師が記録を書いていた。
ルーエルに気づいて顔を上げる。
「熱、さらに下がった」
「そうですか」
「脈も落ち着いてきた。呼吸もいい」
「よかった」
「まだ安心するなよ」
「してませんよ」
「してる顔だ」
ルーエルは反論しようとして。
やめた。
患者を見る。
魔力は少ない。
身体も消耗している。
ここから戻るには。
時間がいる。
でも。
もう。
減り続けてはいない。
今日。
一人。
助けられた。
そして。
一つ。
見るものが増えた。
魔力の量だけではない。
どう流れるか。
どこに留まるか。
それを知っていれば。
いつか。
今日とは違う誰かを。
もう少し早く助けられるかもしれない。
それで。
今日は十分だった。
ルーエルは静かに扉を閉めた。




