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第三十八話 多すぎるもの


救急室に入った瞬間、熱気を感じた。


部屋が暑いわけではない。


寝台に横たわった男の身体から、熱が立っている。


「ルーエル先生」


若い治癒師が振り返った。


見慣れた顔だった。


「エリオ。状態は?」


「高熱。意識混濁。呼吸も速いです。痙攣はまだありません」


寝台の反対側では、医師が患者の脈を取っていた。


四十代くらいの男だった。


顔は赤い。


額から汗が流れている。


呼吸は浅く、速い。


ときどき指先が細かく震えた。


「いつから?」


「仕事中に気分が悪くなったそうです。運ばれてきたときには受け答えできていました。そこから急速に意識が落ちています」


「仕事は」


「魔石加工です」


それなら。


珍しい話ではない。


魔石を扱う職人や魔術師は、ときどき魔力過多を起こす。


自分の許容量を超える魔力を扱ったとき。


長時間、高濃度の魔力に曝されたとき。


あるいは、術式の制御に失敗したとき。


身体に余分な魔力が残る。


熱が出る。


脈が速くなる。


震え、吐き気。


重症になれば意識を失い、痙攣を起こすこともある。


「魔力過多?」


「僕もそう判断しました」


「排出は?」


「二回。一度目でほとんど下がらなかったので、時間を置いてもう一度」


「どのくらい?」


エリオが答える。


少なくない。


通常なら、それだけ排出すれば症状は軽くなるはずだった。


「変化は?」


「ほとんどありません」


医師が患者の額に触れた。


「熱はむしろ上がってる」


ルーエルは寝台へ近づいた。


「診ます」


患者の手首に触れる。


熱い。


自分の魔力を薄く広げた。


皮膚の下。


筋肉。


血管。


さらに奥。


身体中の流路が、激しく反応している。


確かに。


魔力過多に見える。


「もう一度、排出しますか」


エリオが尋ねた。


ルーエルは答えなかった。


患者の内側へ、もう少し深く意識を向ける。


流路が騒がしい。


あちらも。


こちらも。


全身が一度に魔力を使っているような感覚。


「ルーエル先生?」


「待って」


何か。


引っかかる。


「二回抜いたんだよね」


「はい」


「それなのに、反応がほとんど変わらない」


「かなり溜め込んでいたのかもしれません」


あり得る。


重度の魔力過多なら、一度の排出では足りないこともある。


二度。


それでも足りなければ、さらに排出する。


エリオの処置はおかしくない。


自分でも、この患者を最初に見れば同じ判断をしただろう。


だからこそ。


「最初の魔力量は?」


「簡易測定だけです。反応が強かったので、処置を優先しました」


「記録は?」


「あります」


紙を受け取る。


目を通す。


ルーエルの指が止まった。


「……これ?」


「はい」


「低くない?」


エリオが横から覗き込む。


「簡易測定です。それに、この反応なら」


「うん」


分かっている。


だから普通なら、そちらを疑う。


測定が不正確だった。


そう考えるほうが自然だ。


ルーエルは患者を見る。


「もう一度、ちゃんと量を見よう」


「先に排出しなくていいんですか」


「それを決めるために測る」


*


全身の魔力量を調べるには、少し時間がかかる。


その間にも患者の呼吸は速い。


医師は身体を冷やしながら、脈と呼吸を確認していた。


別の職員が入ってきて、薬と水を置く。


「体温、まだ上がっています」


医師が言った。


「急いでくれ」


「はい」


ルーエルは目を閉じた。


今度は反応を追わない。


そこにある魔力そのものを見る。


頭部。


胸。


腹部。


四肢。


流路に残っているものを、一つずつ拾う。


足す。


もう一度。


「……おかしい」


「何がです?」


エリオが尋ねる。


ルーエルは答えず、もう一度測った。


同じだった。


「エリオ」


「はい」


「最初の排出量、もう一度」


記録を受け取る。


一回目。


二回目。


そして今。


頭の中で計算する。


「少ない」


「何がです?」


「魔力」


エリオが患者を見る。


「でも」


「分かってる」


全身の流路は、まだ激しく反応している。


どう見ても魔力過多だ。


なのに。


「この人、もう余ってない」


エリオが黙った。


医師がこちらを見る。


「二回抜いたからじゃないのか」


「それなら、反応も落ちていいはずです」


「重症なら残ることもあります」


エリオが言った。


「ある。でも」


ルーエルは最初の記録を指でなぞった。


「ここ」


「運ばれてきたとき?」


「うん。最初から低い」


精密な測定ではない。


それでも。


典型的な魔力過多としては低すぎる。


エリオも記録を見る。


「……本当だ」


「測定の誤差かもしれない」


「はい」


「でも、今も少ない」


一度なら誤差で済む。


二度なら。


考えなければならない。


「最初から余ってなかったとしたら?」


エリオは患者を見る。


高熱。


震え。


速い呼吸。


激しく反応する魔力流路。


「じゃあ、これは何です?」


「分からない」


ルーエルは答えた。


「だから調べる」


*


患者が呻いた。


医師がすぐに顔を覗き込む。


「聞こえますか」


返事はない。


「熱、また上がってる」


エリオの表情が強張る。


「もう一度排出したほうが」


「駄目」


即答した。


「でも」


「これ以上抜いたら、本当に足りなくなる」


「じゃあ補いますか」


ルーエルは黙った。


少ない。


なら、補う。


魔力欠乏なら、それが普通の処置だ。


けれど。


患者の身体は今、魔力過多としか思えない反応をしている。


ここへ外から魔力を入れたら。


どうなる。


分からない。


「……まだ入れない」


「じゃあ、どうします?」


「分からない」


エリオが黙る。


ルーエルは患者を見た。


「今はね」


もう一度、手首へ触れる。


「分からないまま、やらないほうがいい」


医師がこちらを見た。


「その間はこちらで持たせる」


「お願いします」


医師は頷く。


それぞれが、自分にできることをする。


今はそれでいい。


*


家族から話を聞けたのは、少し後だった。


妻だった。


急いで来たらしく、髪が乱れている。


「夫は」


「今、医師が状態を見ています」


「助かりますか」


ルーエルは一瞬黙った。


「助けるために調べています」


大丈夫とは言わなかった。


妻は唇を結んだ。


「いくつか教えてください」


「はい」


「魔石加工の仕事は長いですか」


「二十年くらい」


「これまで、魔力過多になったことは?」


「あります」


「何回?」


「二回……いえ、三回です。若い頃にも一度」


「そのときは?」


「次の日には帰ってきました」


典型的な経過だ。


「最近、仕事は増えました?」


「いいえ」


「扱う魔石は?」


妻が首を傾げる。


「そこまでは」


「職場の人に聞けば分かりますか」


「たぶん」


「お願いします」


書き留める。


「他に、最近変わったことは」


「変わったこと……」


妻が考える。


「疲れてはいました」


「いつから」


「ひと月くらい前から」


「食欲は?」


「あります」


「眠れていました?」


「たぶん。でも」


「でも?」


「休みの日も、手が震えるって」


ルーエルの鉛筆が止まった。


「休みの日も?」


「はい」


「仕事をしていない日?」


「そうです」


魔石から離れても。


症状がある。


「他には?」


「寒いって言うことが増えました」


「寒い?」


「こんなに暖かくなってきたのに。夜になると毛布を出して」


今とは逆だった。


高熱。


発汗。


頻脈。


その前には、寒気。


震え。


「それはいつから?」


「同じくらいです」


ひと月。


ルーエルは記録した。


「ありがとうございます」


妻が不安そうにこちらを見る。


「魔力過多じゃないんですか」


ルーエルは少し考えた。


「そう見えます」


「違うんですか」


「まだ分かりません」


妻の顔が強張る。


「でも」


ルーエルは続けた。


「普通の魔力過多では説明できないことがあります」


それだけは。


もう分かった。


*


救急室へ戻る。


エリオが待っていた。


「どうでした?」


「以前にも魔力過多を三回。全部、普通の処置で改善してる」


「じゃあ今回も」


「同じならね」


エリオが黙る。


ルーエルは患者の手に触れた。


まだ熱い。


流路は騒いでいる。


けれど。


魔力は少ない。


「エリオ」


「はい」


「一つ確認していい?」


「何です?」


「魔力過多って、何?」


エリオが怪訝な顔をした。


「……魔力が身体の許容量を超えた状態です」


「うん」


「余った魔力が流路を刺激して、発熱や震えが出る」


「だから?」


「排出する」


「そう」


ルーエルは頷いた。


「じゃあ」


患者を見る。


「魔力が余っていない人に、同じ症状が出たら?」


エリオは答えなかった。


少しして。


「……魔力過多じゃない」


「僕もそう思う」


「でも、この人は」


「同じ症状が出てる」


二人で患者を見る。


高熱。


震え。


速い呼吸。


激しく反応する流路。


魔力過多そのものだった。


ただし。


魔力だけが。


足りない。


「最初から考え直そう」


「最初から?」


「うん」


ルーエルは新しい紙を一枚出した。


上に二つだけ書く。


魔力量――低下。


魔力反応――亢進。


今までなら、同じ方向を向くはずだった二つ。


それが。


反対を向いている。


ルーエルは、その間に一本の線を引いた。


まだ。


何も書けない。


けれど。


ここに何かがある。


それだけは、分かった。

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