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第三十七話 名前のつくもの

第三十七話 名前のつくもの


呼び出されたのは、昼を少し過ぎたころだった。


「エルヴェ先生」


診察記録を書いていたルーエルは顔を上げた。


事務方の職員が立っている。


「はい」


「院長がお呼びです」


「急患ですか」


「いえ」


「では、この記録を書き終えてからでも?」


職員が少し困った顔をした。


「できれば、すぐに」


ルーエルは鉛筆を置いた。


「分かりました」


立ち上がる。


廊下へ出たところで、先輩とすれ違った。


「どこ行く」


「院長室です」


「何した」


「何もしてませんよ」


「お前がそう言うと不安になるな」


「どういう意味です?」


「行ってこい」


背中を軽く叩かれた。


何だったのだろう。


*


院長室には、知らない人間が三人いた。


一人は院長。


残りは、治癒院の人間ではない。


服装で分かる。


濃紺の上着。


胸元に銀糸の徽章。


中央行政院のものだった。


ルーエルは扉の前で一度止まった。


「失礼します」


「来たか」


院長が手招きする。


「座ってくれ」


「はい」


向かいの男が書類を開いた。


見覚えがある。


北で書いたものだ。


「エルヴェ治癒師」


「はい」


「北部から提出された報告書について、いくつか確認したいことがあります」


「分かりました」


紙が一枚めくられる。


「まず、この十三症例。すべて同一の原因と考えている?」


「正確には、共通する何かに曝露した可能性が高いと考えています」


「断定はできない?」


「まだ」


「理由は」


「原因となったものを特定できていません」


男の隣にいた女性が書き留める。


「採取した試料は?」


「こちらへ運んでいます。一部は薬理と素材の専門家にも見てもらうつもりです」


「すでに?」


「はい」


「手続きは?」


ルーエルは少し考えた。


「……必要でしたか」


院長が顔を上げた。


「必要だ」


「すみません」


「後で確認しておけ」


「はい」


次の紙がめくられる。


「重症例に対して、新しい流路を作ったとあります」


「はい」


「前例は?」


「僕が調べた範囲ではありません」


「成功した?」


「患者は生存しています」


「術後は」


「現在も北部で経過観察中です」


「後遺症は?」


「現時点では、大きなものは報告されていません」


男の指が止まった。


「それを成功と言わないのか?」


ルーエルは少し考えた。


「まだ時間が足りないと思います」


「どのくらいなら成功になる」


「分かりません」


沈黙した。


女性の筆だけが動く。


どうやらあちらの常識では変なことを言っているようだ。


*


質問は長かった。


患者十三人の発症時期。


食事。


生活区域。


職業。


山へ入った時期。


魔力特性。


採取した試料。


動物への影響。


水系。


そして。


国境。


「この記述について」


紙が差し出された。


患者たちが山へ入っていた時期と、発症までの経過。


北の山で起きていた異変。


そして、国境の向こうでも似た異常が起きているらしいという話。


ルーエルは目を落とした。


「最後の部分は、僕が確認したわけではありません」


「承知しています」


「伝聞です」


「それも」


「なら、これ以上は僕には答えられません」


男が眼鏡の奥からこちらを見る。


「誰から聞いた?」


「現地の人たちです」


「一人?」


「いえ。複数です」


「内容は一致していた?」


「似た話ではありました。ただ」


ルーエルは一度言葉を切った。


「同じ話を何人から聞いたとしても、それだけで事実にはなりません」


男がわずかに笑った。


「慎重だな」


「患者のことなら、もう少し答えられます」


「それ以外は?」


「専門外です」


「分かっている」


男は書類を閉じなかった。


「君に、国境の向こうで何が起きているのか判断してほしいわけじゃない」


「では?」


「それを確認するのはこちらの仕事だ」


ルーエルは男を見た。


それなら。


「お願いします」


「ずいぶん簡単に渡すんだな」


「僕が持っていても調べられませんから」


今度は、はっきり笑われた。


何がおかしいのだろう。


「それから」


ルーエルは言った。


「北で調査にあたった人たちには、必要なら直接確認してください」


「薬草学者のオルガ、魔術師のセラ、医師のミレナ、治癒師のハロルド」


「はい。僕一人が見つけたことではありません」


「承知している」


ならよかった。


ルーエルは頷いた。


自分に分からないものを、分かる人間へ渡す。


北でもずっと、そうしてきた。


*


最後に、男が別の書類を出した。


「中央として、この症例群を正式に記録することになった」


「はい」


「暫定的な名称が必要になる」


「名称」


「今後、同様の患者が出たときに識別できなければ困る。現場から何か意見はあるか」


ルーエルは考えた。


山。


空腹。


十三人。


身体の中で、魔力の流れを塞いでいたもの。


「地名は入れないほうがいいと思います」


男が顔を上げた。


「なぜ」


「北で見つかっただけだから」


「発生地だろう」


「原因が北にあるとは限りません」


少し沈黙した。


「それに」


ルーエルは続ける。


「土地の名前を病気につけたら、そこに住んでいる人まで病気みたいに見えるでしょう」


女性の筆が止まった。


「では?」


「症状か、原因で呼べばいいと思います」


「原因はまだ分からない」


「なら、症状で」


男がしばらく書類を見る。


「魔力流路閉塞症」


ルーエルは頭の中で反復した。


「……今のところは、それが一番正確だと思います」


女性が書き留める。


魔力流路閉塞症。


北で十三人を苦しめたものに、初めて名前がついた。


名前がついたからといって、治るわけではない。


原因が分かるわけでもない。


それでも。


次に同じ患者が現れたとき。


誰かが、その名前を知っているかもしれない。


それは、大きな違いだった。


*


「もう一つ」


男が言った。


「はい」


「この症例について、正式な症例報告を書いてもらいたい」


「報告書なら提出しましたけど」


「行政への報告書ではない。治癒師や医師が参照できるものだ」


「ああ」


それなら意味が分かった。


「術式についても、再現可能な形に整理してほしい」


「流路を作った術式ですか」


「そうだ。他の治癒師が学べるように」


それは必要だ。


必要どころか。


やらなければならない。


自分にしかできないままでは、次の患者を救えない。


「期限は?」


「まず一月を目処に」


診察。


管。


ネロ。


北から持ち帰った試料。


通常業務。


頭の中で並べる。


「できます」


「そうか」


院長が頷いた。


「では頼む」


「はい」


それだけだった。


*


部屋を出る。


廊下の窓から、濃い緑が見えた。


ひと月前には、北の山にいた。


名前のなかった病気を追って。


治療法のなかった患者を診て。


できることを探した。


今。


それに名前がついた。


術式も整理される。


誰かが学ぶ。


誰かが使う。


自分の知らない患者が、それで助かるかもしれない。


それは。


嬉しい。


素直にそう思った。


「エルヴェ」


振り返る。


先輩だった。


「何だった」


「北の症例についてです」


「怒られたか」


「少し」


「何した」


「試料を先に回したこと」


「やっぱり何かしてんじゃねえか」


「必要だったので」


「はいはい」


先輩が隣へ並ぶ。


「他は」


「症例報告を書くことになりました」


「そうか」


「術式も整理します」


「期限は」


「一月です」


先輩の足が止まった。


ルーエルも止まる。


「診療は」


「今まで通りです」


「管は」


「続けます」


「北の試料は」


「調べます」


「あの目つきの悪い患者は」


「?」


「あいつだよ」


「ああ、診ますよ」


先輩は少し黙った。


「お前、何て答えた」


「何に?」


「ひと月で書けるか」


「できます、と」


「だろうな」


「できますよ」


「知ってる」


「なら何です?」


「できるから困ってんだよ」


ルーエルは眉を寄せた。


「何を減らす」


「減らす必要あります?」


「エルヴェ」


「はい」


「新人の頃、お前が同じこと言った翌日にどうなったか、覚えてるか」


「いつの話です?」


「何回かあるから好きなの選べ」


「そんなに?」


「お前な」


先輩は額を押さえた。


「今は新人じゃありませんよ」


「知ってる」


先輩はまた歩き出す。


「だから俺がお前の仕事を決める気もない」


ルーエルもついていく。


「じゃあ」


「自分で決めろ」


「何を?」


「何を減らすか」


「だから、減らさなくても――」


先輩が振り返った。


「昼飯は」


「食べました」


「何を」


「パンとスープ」


「よし」


また歩き出す。


「話を逸らしました?」


「逸らしてねえよ」


「逸らしましたよね」


「今日決めなくていい。ただ考えとけ」


「……はい」


それなら。


少しくらいは考えてみよう。


「そういえば」


「ん?」


「病気に名前がつきました」


「へえ」


「魔力流路閉塞症」


先輩の足が、また止まった。


今度は少し違う顔だった。


「……そうか」


「はい」


「これで次に来たやつは、名前のある病気になるんだな」


ルーエルも止まった。


そうか。


それだった。


北の十三人は。


名前のないものに苦しんでいた。


次の患者は違う。


誰かが、知っているかもしれない。


「はい」


ルーエルは言った。


「そうなります」


「じゃあ、よかったな」


先輩はそれだけ言った。


ルーエルも、それ以上は言わなかった。


でも。


少しだけ、嬉しかった。


*


その日の夕方。


診察室の前にネロがいた。


「こんばんは」


「どうも」


「今日は仕事?」


「終わりました」


「調子は」


「昨日よりいいです」


「本当?」


「疑ってます?」


「確認してる」


ネロが嫌そうな顔をする。


いつもの顔だった。


少し安心する。


「今日は何するんです」


「回復時間をもう少し――」


そこで。


廊下の向こうから職員が走ってきた。


「エルヴェ先生」


「はい」


「急患です」


ルーエルの表情が変わった。


「状態は」


「高熱。意識が落ちています。それから、魔力反応がおかしいと」


「医師は?」


「救急担当が診ています。治癒師を呼んでほしいと」


「分かりました」


立ち上がる。


ネロを見る。


「ごめん」


「行ってください」


即答だった。


「今日は――」


「いいから」


ネロも椅子から立つ。


「患者なんでしょう」


「……うん」


「じゃあ早く」


ルーエルは頷いた。


数歩走る。


それから止まった。


振り返る。


「ネロさん」


「何です」


「明後日、同じくらいの時間に来られる?」


「たぶん」


「無理なら無理でいい」


「分かりました」


「ありがとう」


今度こそ走り出す。


ネロはその背中を見送った。


白い上着が、廊下の向こうへ消える。


少し前まで。


ネロにとって、エルヴェという男は、自分を診る治癒師だった。


変な治癒師。


分からないことを、分からないと言う。


説明しろと言えば、説明する。


仕事を辞めたくないと言えば、その条件で方法を探す。


それだけだった。


扉の向こうでは、誰かが待っている。


自分の知らない患者が。


あの男を。


ネロは閉じた扉をしばらく見ていた。


それから歩き出す。


帰るか。


そう思って。


一度だけ、振り返った。


急患が。


助かればいいと思った。

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