第三十九話 止まらないもの
熱は下がらなかった。
「四十を超えた」
医師が患者の瞼を持ち上げる。
呼びかけへの反応は鈍い。
額から首筋へ、絶えず汗が流れている。
「エルヴェ」
「はい」
「考えるのはいいが、こっちは待ってくれない」
医師は患者を示した。
「解熱薬を使う。水枕も入れたい」
ルーエルは顔を上げた。
「魔力に作用する薬ですか」
「しない。熱を下げるだけだ」
「お願いします」
「水分も足りない。これだけ汗をかいてる」
「意識が落ちています」
「だから口からは入れない」
医師はすでに次の指示を出していた。
職員が動く。
薬。
冷却。
水分。
原因はまだ分からない。
それでも、今できることはある。
ルーエルはもう一度患者の手首へ触れた。
自分が考えている間にも、患者の身体は消耗している。
なら。
急がなければならない。
*
机の上には二つの記録が並んでいた。
魔力量――低下。
魔力反応――亢進。
エリオがそれを見ている。
「どちらかが間違っているんでしょうか」
「僕も最初はそう思った」
「違うんですか」
「分からない。でも、量は二度測った」
ルーエルは患者を見る。
「反応のほうも、間違いとは思えない」
高熱。
震え。
速い脈。
そして、全身で激しく動いている魔力流路。
「じゃあ」
エリオが言った。
「どっちも合ってる?」
「そのほうが困るね」
「困るんですか」
「考えることが増えるから」
横から医師の声が飛んだ。
「楽しそうに言うな」
「楽しんではいませんよ」
「知ってる」
短く返される。
ルーエルは紙へ目を戻した。
魔力が多い。
だから流路が激しく動く。
今までなら、その二つは同じ方向を向いていた。
けれど。
もし。
量と流れが、別のものなら。
*
患者の職場から人が来たのは、それから間もなくだった。
同じ工房で働いている男だった。
作業着のまま走ってきたらしい。
袖口に細かな石の粉が残っている。
「親方は?」
「まだ意識が戻っていません」
医師が答えた。
男の顔が強張る。
ルーエルは椅子を勧めた。
「扱っている魔石について聞かせてください」
「魔石?」
「最近、種類が変わりましたか」
男は少し考えた。
「ああ」
「いつ?」
「ひと月くらい前です」
ルーエルの鉛筆が止まった。
患者が疲れや寒気を訴え始めた時期と重なる。
「どんなものです?」
「東から入ってきたやつです。安いんですよ」
「以前のものとは違う?」
「質が悪いわけじゃないです。ただ、妙に扱いやすい」
「扱いやすい?」
「魔力を通したときの癖が少ないっていうか」
男は言葉を探した。
「馴染むんです」
「魔力が?」
「たぶん。俺も使いましたけど、前の石よりずっと楽で」
「あなたに体調の変化は?」
「ないです」
「他の人は?」
「聞いてません」
一人だけ。
なら、単純に石そのものが有害という話ではなさそうだった。
「同じ魔石はありますか」
「持ってきました」
男が腰の袋を外す。
布の上へ、小さな石が転がった。
淡い灰色。
磨けば綺麗なのかもしれないが、見た目には特別なところはない。
ルーエルは触れずに眺めた。
「エリオ。魔力を入れずに見て」
「はい」
エリオが石へ手をかざす。
しばらくして、首を傾げた。
「弱いですね」
「どのくらい?」
「ほとんど残っていません」
工房の男が頷く。
「そういう石なんです。加工しやすくて」
「少しだけ流してみて」
「僕が?」
「うん。少しだけ」
エリオが魔力を送る。
石が淡く反応した。
「……あれ」
「何?」
エリオが手を離す。
「変な感じがしない」
「変?」
「普通は、もう少しありますよね。押し返されるとか、散るとか」
ルーエルも見ていた。
魔石には、それぞれ癖がある。
魔力を留めやすいもの。
散らしやすいもの。
特定の性質と馴染みやすいもの。
けれど、この石は。
入ってきた魔力を、ほとんど妨げない。
「馴染む」
ルーエルが呟く。
工房の男が頷いた。
「そう。それです」
*
「石に吸われていた?」
エリオが言った。
救急室へ戻る途中だった。
「可能性はある」
「だから魔力が減った?」
「それなら、寒気や疲労は説明できる」
魔力を失った。
だから身体が冷える。
疲れる。
震える。
患者がひと月ほど前から訴えていた症状とは合う。
「でも」
エリオが言う。
「今の状態は説明できない」
「うん」
ただ魔力が減っただけなら。
魔力欠乏になる。
流路の働きも弱くなる。
ところが患者は逆だった。
「それに他の職人は平気です」
「それも分からない」
同じ石を扱っている。
同じ工房で働いている。
なのに、この患者だけ。
「前にも魔力過多になってるんですよね」
エリオが言った。
ルーエルは足を止めた。
「三回」
「関係あります?」
分からない。
だが。
ルーエルはそれも紙へ書き加えた。
今は捨てない。
*
救急室へ戻ると、医師が患者の脈を取っていた。
「熱は?」
「少し下がった」
「薬が効いた?」
「たぶんな。まだ高いが、さっきよりはいい」
水枕も交換されている。
「水分は」
「入れてる。そっちはどうだ」
「魔石が変わった時期と、症状が出始めた時期が一致します」
「原因か?」
「まだ分かりません」
「そうか」
医師はそれ以上聞かなかった。
ルーエルは患者の腕へ触れる。
熱はわずかに下がっている。
けれど。
魔力流路は。
「変わってない」
「熱が下がっても?」
エリオが尋ねる。
「うん」
ルーエルはもう少し深く見る。
全身。
胸。
腹部。
四肢。
どこも激しく動いている。
そこで、ようやく違和感の形が見えた。
魔力が多いから騒いでいる。
そう思っていた。
違う。
「……流れてる」
「え?」
「ずっと」
患者の腕から胸へ。
胸から腹部へ。
腹部から脚へ。
わずかな魔力が、休みなく巡っている。
量は少ない。
なのに。
流れだけが速い。
「魔力過多だと、こうならないんですか」
「なる。でも」
ルーエルは自分の手を見た。
「余っているから流れる」
それが普通だ。
今は違う。
「この人は、流すものがないのに流してる」
エリオも患者へ手をかざした。
しばらく黙る。
「……本当だ」
流れている。
少ない魔力を。
何度も。
何度も。
全身へ送り続けている。
「だから減る?」
「かもしれない」
「減るから、もっと流す?」
ルーエルは首を振った。
「逆かも」
「逆?」
「減ったから流れてるんじゃない」
患者の流路を追う。
止まらない。
「流れ続けてるから、減ってる」
エリオが黙った。
それなら。
熱も説明できる。
全身の魔力流路が休まず働いている。
身体が消耗する。
魔力も消費する。
なのに。
止まらない。
「どうして止まらないんです?」
「それが分からない」
でも。
少なくとも。
見るべきものは変わった。
量ではない。
流れだ。
*
ルーエルは、もう一度魔石を持ってきてもらった。
今度は自分で触れる。
ほんの少しだけ魔力を流す。
抵抗がない。
驚くほど滑らかに入っていく。
手を離す。
そこで終わる。
自分の身体には何も起こらない。
「先生は平気ですね」
「うん」
エリオも平気だった。
工房の他の人間も。
なら。
石だけが原因ではない。
石と。
この患者の何か。
「前に三回」
ルーエルが呟いた。
「何です?」
「魔力過多」
患者は以前にも三度、魔力過多を起こしている。
そのたびに。
余分な魔力を外へ出した。
身体は何度も。
大量の魔力を流した経験がある。
そこへ。
抵抗のほとんどない魔石を、毎日扱った。
「……癖?」
「癖?」
「流路に」
そんなことが起こるのか。
知らない。
聞いたこともない。
でも。
人の身体には、繰り返せば変わるものがある。
筋肉。
呼吸。
姿勢。
魔力流路だけが、絶対に変わらない理由もない。
「何度も同じ流れを作ったから」
エリオが患者を見る。
「戻らなくなった?」
「まだ仮説」
ルーエルはすぐに言った。
決めつけない。
でも。
試すことはできる。
*
「魔力を少し入れたい」
医師が眉を寄せた。
「さっきは入れないと言ってなかったか」
「全身には入れません」
「どのくらい」
「ほんの少し。腕だけ」
「目的は?」
「流れを見る」
医師は患者を確認した。
「危険は」
「あります」
「どんな」
「入れた魔力まで一気に流し始めたら、反応が強くなるかもしれません」
「止められる?」
「すぐなら」
医師は少し考えた。
「量は最小限」
「はい」
「脈が上がったら即中止」
「はい」
「やれ」
ルーエルは患者の腕に触れた。
「エリオ、見てて」
「はい」
指先から。
ほんの少し。
健康な人間なら気にも留めないほどの魔力を流す。
患者の腕へ入る。
一瞬。
何も起こらない。
次の瞬間。
「……!」
エリオが息を呑んだ。
腕の流路が跳ねた。
入れた魔力を留めない。
一気に先へ送る。
肩へ。
胸へ。
そして。
全身の流路が、それを追うように反応した。
「止めます」
ルーエルはすぐに手を離した。
「脈、上がった」
医師が言う。
「もう入れるな」
「はい」
ほんのわずかな魔力だった。
それすら。
身体は留められなかった。
ルーエルは患者の腕を見る。
「……そういうことか」
「分かったんですか」
「うん。少し」
魔力が足りない。
それは結果だ。
この患者に起きていることは。
その前。
「流すことを」
ルーエルは呟いた。
「やめられないんだ」
エリオが患者を見る。
「じゃあ、魔力過多じゃない」
「うん」
「魔力欠乏でもない」
「それも結果としては起きてる」
でも。
病気そのものではない。
ルーエルは新しい紙を出した。
魔力量――低下。
魔力反応――亢進。
その下へ。
三つ目を書く。
魔力流路――持続亢進。
しばらく、その文字を見る。
北では。
流れないものを、どう通すか考えた。
今度は。
逆だ。
流れ続けるものを。
どう止めるか。
ルーエルは患者を見た。
「止められれば」
エリオが顔を上げる。
「治せますか」
「まだ分からない」
ルーエルは答えた。
それから、もう一度紙を見る。
「でも、やることは見えてきた」
今度は。
流れを作るのではない。
流れ出ていくものを。
留める。




