第三話 パン屋の娘と灰色の小獣
朝の空気は冷たかった。
リディアが応接室に入ると、テーブルの上に領務録と並んで、薄い紙の束が置かれていた。グレイアスはすでに窓の前に立ち、外を見ていた。
「おはようございます」
「おはようございます、お嬢様」
グレイアスが振り返った。
「七時ちょうどです」
「昨日より二分、改善しました」
「ご記録として」
リディアは席に着き、紙の束を手に取った。
「これは?」
「ケッセル商会との契約書の写しでございます。原本は先代の書庫にございますが、昨夜、写しを作成いたしました」
「昨夜のうちに」
「読んでいただく必要がございましたので」
グレイアスは特に何も言わなかった。それをリディアのために徹夜でやったとも、たいしたことではないとも言わなかった。ただ、必要だったから作った、という口ぶりだった。
リディアは契約書を読み始めた。昨日、概要はグレイアスから聞いていた。実際に文面を読むと、なるほどと思う部分と、やはり腑に落ちない部分の両方があった。
「グレイさん。この、納品量の確認条項ですが」
リディアは該当箇所を指で示した。
「ケッセル商会が受け取った量は商会側が記録し、領地側はそれを確認するとあります。でも、領地側の確認者の署名欄が、ここ二年ほど空白になっています」
グレイアスが少し間を置いた。
「お気づきになりましたか」
「気づいたというより、違和感がありました。確認者がいないなら、商会が受け取った量を正確に把握できないのでは、と」
「さようです。先代が亡くなられた後、この確認を担う者がいなくなりました。商会はその間、納品記録を自社の領務録だけで管理しています。どれだけ受け取ったかを、受け取った側だけが記録している状態です」
「それは……」
「問題がある可能性が高い、とだけ申し上げます。今のところ証拠はございません」
リディアは契約書をテーブルに置いた。
「今日も、領都へ出たいのですが」
「午前中は契約書の精読をお願いしたいところです。ただ、午後については、昨日の続きということでよろしいかと」
「パン屋のミカさんにも、また話を聞きたいと思っています」
「では、参りましょう」
午後、屋敷を出ようとしたとき、廊下の奥から何かが走ってきた。
灰色の、小さな影だった。
耳が大きく、体は細長く、テンに似ているが尻尾がもう少し太い。廊下をものすごい勢いで走ってきて、リディアの足元で急停止し、大きな目でリディアを見上げた。
「ろろっ」
「……なんですか、これは」
「ロロでございます」
グレイアスがため息をついた。
「この屋敷に住み着いております小さな魔獣です。先代の時代からおります。先ほどまで食料庫の前で丸くなっておりましたが、どこかで外出の気配を感じたのでしょう」
「かわいい」
「お世辞にもそうは思いません」
ロロはリディアの靴の先を鼻先でつんと触り、それからグレイアスを見上げた。
「ろろろ」
「来てはいけません」
「ろっ」
「聞こえないふりをするのはやめなさい」
ロロはその場で耳を伏せた。
「反省したのでしょうか」
「反省しているように見せれば許されると学習した顔です」
「ずいぶん詳しいですね」
「長い戦いでございますので」
グレイアスはロロを見下ろし、ロロはグレイアスを見上げた。どちらも動かなかった。
リディアは小さく笑った。
「連れて行きましょう、グレイさん。どうせついてくるのでしょう?」
「……食べ物に目がございません。市場で問題を起こす可能性があります」
「問題を起こしたら連れて帰ります」
「お嬢様がですか、ロロがですか」
「……ロロです」
「念のため確認いたしました」
グレイアスは短く息を吐いた。
「ご自由に」
ロロは「ろろっ」と一声鳴いて、リディアの少し前を歩き始めた。まるで先導するかのように。
領都の市場は、昨日より少しにぎわっていた。週に数回、近くの村からも人が集まる日らしかった。
ロロはリディアの足元をうろうろしながら歩いた。人々はロロを見て顔をほころばせた。子どもが近づいてきて、ロロは一度だけ「ろっ」と鳴いて逃げた。
「臆病なんですね」
リディアは言った。
「食べ物と、慣れた相手にしか近づきません。警戒心は高い方です。その点については、見習う者が多いかと思いますが」
「私への皮肉ですか」
「滅相もございません」
リディアはパン屋の前に着いた。今日は昨日より品が少なかった。扉を開けると、ミカがいた。今日は父らしき男性も奥にいた。リディアを見て、深く頭を下げる。
「領主様、昨日は失礼いたしました」
「いいえ。正直に話してくれてよかったです」
リディアはミカに向き直った。
「もう少し聞かせてもらえますか。市場全体のことを。困っているのは、パン屋さんだけではないと思いますし」
ミカは少し考えてから、「外で話しませんか」と言った。
市場の隅の石段に、リディアとミカは腰を下ろした。
グレイアスは少し離れた場所に立っていた。
ロロはミカの隣にちょこんと座り、ミカが持っていたパンの切れ端を目で追っていた。
「ろろろ……」
「食べる?」
「お与えにならない方がよいかと」
グレイアスが遠くから言った。
「きりがありませんので」
ミカは手をひっこめた。ロロが恨めしそうにグレイアスを見た。
「この执事さん、厳しいんですね」
ミカがこっそりリディアに言った。
「そうです。でも、正しいことを言います」
ミカはグレイアスをもう一度見て、それから話し始めた。
「小麦で困っているのは、うちだけじゃないです。粉屋も焼き菓子屋も、ケッセル商会の値上げで苦しくなっています」
「商会への不満は多いですか」
「多いです。でも、にらまれたら次の仕入れに響くから、誰も大きな声では言えません」
リディアは頷いた。
「他に、領民の方が困っていることは?」
ミカは少し間を置いた。それから、ゆっくりと言った。
「薬代が高いです。冬になると、病気が増えるんですけど、薬師さんとこへ行く余裕がない人が増えてて。ラナ先生も困ってるって」
「ラナさん?」
「領地の薬師さんです。薬草園を持ってて、ずっとここで薬を作ってくれてる人。親切な人なんですけど、最近は薬草が足りないって言ってて」
リディアはグレイアスを振り返った。
「ラナ・フェルムという方は、契約書にも名前が出てきましたか」
「薬草の納品者として、出ております」
グレイアスが答えた。
「ラナ殿の薬草園は、エルヴァルト領でも質の高い薬草の産地です。ただし現在、全量をケッセル商会に納めることになっています」
「訪ねてもいいですか」
「ご予定に入れておりました」
リディアはミカに礼を言って立ち上がりかけた。ロロが「ろっ」と鳴いて立ち上がった。
「連れて行くんですか」
ミカが言った。
「ついてきてしまうので」
リディアが答えると、ミカはロロを見下ろした。
「かわいいですね」
「ろろっ」
グレイアスがまた遠くで小さくため息をついた。
薬草園は、領都の外れの小高いところにあった。
近づくと、草と土の、青みがかった香りがした。手入れの行き届いた畝が続いていて、晩秋の今もいくつかの草が葉を保っていた。小屋の前に、三十代とおぼしき女性がいた。落ち着いた目をした、細身の人だった。
「ラナ殿、お時間をいただけますか」
グレイアスが声をかけた。
「グレイアスさん」
ラナはゆっくりと頷いた。それからリディアを見て、「領主様ですか」と言った。
「はじめまして。リディア・エルヴァルトです」
「ラナ・フェルムです。薬師をしております」
ラナは握手を求めることも、深くお辞儀することもなかった。ただ、まっすぐにリディアを見た。
「薬草の状況を教えていただけますか。契約のことも」
リディアがそう言うと、ラナは短く息を吸い、それから話し始めた。
「ここで採れる薬草は、種類によっては王都の薬師組合に直接売れば、今の十倍以上の値がつくものもあります。ケッセル商会への納品価格は、本来の価格からすると、かなり低い。それは分かっています」
「では、なぜ」
「契約があるからです。それと、商会が言うことには、輸送の手配をするのは商会であり、領地だけでは遠方に売るルートがないということで。そちらは実際その通りですし、先代がご苦労されていた頃に結んだ契約なので、おかしいとは思いながらも、波風を立てることがなかなかできなくて」
ラナはそこで少し目を伏せた。
「薬草が安く買い叩かれることで、私自身の収入も下がっています。薬の値段が高くなってしまっていて、来られない方が増えています。それが一番、つらいです」
リディアは頷いた。
「契約書を確認させてください。何かできることがあれば、考えます」
「ありがとうございます」
ラナは少し間を置いてから、続けた。
「一つだけ、不思議なことがあって。納品した量と、商会の領務録に記録されている量が、たまに合わないんです。私が記録している量よりも、商会の領務録の方が多いことがある。でも私は、記録した量しか渡していない。商会はただの記録の誤差だと言いますが」
グレイアスが動いた。
わずかに、だ。足を踏み直す程度だったが、リディアは横目で気づいた。
「それは、いつ頃から?」
グレイアスが問いかけた。
「一年ほど前から、定期的に」
「記録はお持ちですか」
「あります。几帳面な方ではないんですが、薬草は量を間違えると危ないので、納品の記録だけはきちんとつけていて」
「のちほど、写しを拝見できますか」
「もちろんです」
帰り道は、薬草の香りをかすかに纏ったまま歩いた。ロロが草の中に突進しようとするのを、リディアが引き留めながら。
「グレイさん、ラナさんの記録の話、何かお気づきになりましたか」
「可能性の一つが見えてきました。商会が受け取った量よりも多く領務録に記録しているなら、差分はどこへ行ったか、という話になります」
「差分?」
「例えばです」
グレイアスはゆっくりと続けた。
「ケッセル商会が、実際には別の産地から安価な薬草を仕入れ、エルヴァルト産として高値で売っているとしたら。領務録の量を実際より多く見せることで、その差を正当化できます」
リディアは足を止めた。
「それは、つまり、薬草のすり替えですか」
「ラナ殿の記録と商会の領務録を照らし合わせましょう。差異が継続していれば、契約を見直す材料になります」
「証拠になるのですね」
「まだ、材料です」
リディアは再び歩き始めた。頭の中で、今日見えたことが少しずつ並び始めていた。
小麦不足、高い薬代、商会の契約、領務録の不一致。
それぞれ別の問題に見えて、根は同じかもしれない。
「ろろっ」
突然、ロロが立ち止まった。
鼻をひくひくと動かしている。市場の隅に、ケッセル商会の荷馬車が止まっていた。大きな木箱がいくつか積まれていた。荷を下ろす男たちが動いている。
ロロはその荷馬車の前に進み、箱の一つに鼻先を近づけた。
「ろろろ……」
低い、くぐもった鳴き声だった。さっきとは違う声だった。
「ロロ?」
リディアは声をかけた。
「ろっ、ろっ」
ロロは同じ箱の周りを回り始めた。離れない。鼻をずっと動かしている。
「グレイさん」
「見ております」
グレイアスはゆっくりと荷馬車に近づいた。荷を下ろしていた男が顔を上げた。
「なんだ」
「通りがかりに。その箱の品は、どちらから?」
「商会の荷だ。関係ないだろ」
「さようでございますね」
グレイアスは軽く頭を下げた。
「失礼いたしました」
彼はリディアの隣に戻った。ロロが渋々と荷馬車から離れる。
「グレイさん」
リディアは小声で話しかけた。
「ロロは何かを感じていましたか」
「鼻が利く魔獣です。薬草に反応していたのでしょう」
「でも、ラナさんの薬草園は別の方向ですよ」
「さようです」
グレイアスはそれ以上言わなかった。
ただ、領都を出ていくその荷馬車の後ろ姿を、しばらく目で追っていた。
リディアも、同じ方向を見た。
ロロが「ろろっ」と一声鳴いて、リディアの足元に寄り添った。
その夜、グレイアスはリディアに短く告げた。
「ラナ殿の記録の写しを、今夜のうちに手配いたします。明日の朝、ご一緒に確認しましょう」
「ありがとうございます」
「お礼には及びません。必要なことですので」
グレイアスはそれだけ言って廊下を歩き始めた。
リディアはその背中に声をかけた。
「グレイさん。今日、色々なことが見えてきた気がします」
グレイアスが振り返った。
「一つ、申し上げておきます」
「はい」
「見えてきたことと、分かったことは、違います。分かったことと、証明できることも、違います。焦って動けば、相手に気づかれます。今夜は見えてきた、という段階です。明日、もう少し近づきます」
グレイアスは冷静に言い、リディアは頷いた。
「……分かりました」
「お休みなさいませ、お嬢様」
廊下の奥に足音が遠ざかっていく。しばらくして、ロロが廊下をてけてけと歩いてきて、グレイアスの部屋のドアの前に座った。
「ろろ」
ドアが少しだけ開いた。
「……入りなさい。ただし、布団の上は禁止です」
「ろっ」
ドアが閉まった。
リディアはそれを見ながら、今日初めて声を出して笑った。




