第二話 お嬢様、まずは領務録でございます
翌朝、リディアが応接室の扉を開けると、すでにグレイアスがいた。
テーブルの上には昨日の領務録と、新しい紙の束。窓からは白い朝の光が差し込んでいる。紅茶が二人分、湯気を立てて置かれていた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます、グレイさん」
リディアが席に着くと、グレイアスは時計を確認した。
「七時二分でございます」
「……二分、遅れましたか」
「ご記録として」
リディアは紅茶を一口だけ飲んでから、領務録を手元に引き寄せた。昨夜読んだ続きから始めるつもりだったが、グレイアスが新しい紙の束を先に開いた。
「今日はまず、領務録の読み方を正確に身につけていただきます。数字を眺めることと、数字を読むことは、異なります」
「どう違うのですか?」
「眺めるとは、合計が合っているかを確かめることです。読むとは、なぜその数字になったのかを問うことです」
グレイアスは領務録の一ページを開き、ある項目を指でたたいた。
「例えばこちら。薬草の売上です。今年の数字は昨年より少ない。お嬢様は昨日、これを見てどうお思いになりましたか」
「収穫が少なかったのかと」
「では、こちらをご覧ください」
別の紙が差し出された。薬草の収穫量の記録だった。
「今年の収穫量は、昨年と比べてほとんど変わっておりません。むしろ、わずかに増えています」
リディアはもう一度、領務録の薬草売上の数字を見た。
「収穫は増えているのに、売上が減っている?」
「さようです」
「ということは、値段が下がった?」
「正確には、下げさせられた、でございます」
グレイアスは手を組み、リディアの向かいに静かに座った。
「ケッセル商会という名前は、昨日の領務録でもご覧になったかと思います」
「はい。薬草の買い付けをしている商会ですね」
「この領地に出入りしている大きな商会です。三年前、先代が財政難に陥った際に、彼らと契約を結びました。薬草、羊毛、一部の木材。これらをケッセル商会が独占的に買い取るかわりに、領地への小麦の安定供給を保証するという内容です」
「それは……助かったのではないですか」
「当初は、そう見えました」
グレイアスはそこで少し間を置いた。
「ですが、契約には細かい条件がついておりました。買い取り価格は商会の判断で変更できる。領地側が他の商会と取引する場合は違約金が発生する。供給する小麦の量は、商会が必要と判断した量とする、と」
リディアは眉を寄せた。
「それは……おかしくないですか。価格を商会が決めるなら、いくらでも安くできる。他と取引できないなら、比べる基準がない」
「お気づきになりましたか」
「気づくというより、おかしいと感じました」
「感じる前に、気づく必要があります。感情は後でよろしい。まず構造を見る。この契約書は、表面上は合法です。双方が署名した正式な文書です。ですが、条件の組み合わせによって、実質的にこの領地はケッセル商会に縛られています。これを不正と呼ぶことは難しい。しかし、問題があることは確かです」
リディアはしばらく紙を見つめた。
「値段を上げてもらうよう、お願いすることはできますか」
グレイアスが、ごく短くため息をついた。
「お優しいことです」
それは昨日も聞いた言い方だった。
「お願いで商人が損をしてくださるなら、王都に戦争など起きません」
リディアは口を閉じた。
間違っているとは言えなかった。ただ、では何をすればいいのかが、まだ見えなかった。
午前中いっぱい、リディアは領務録と向き合った。
グレイアスは教えるというより、問い続けた。なぜこの数字か。この支出は何に使われたか。この収入はいつ入るか。リディアが答えるたびに、グレイアスは短く評価し、次の問いを出した。間違えると訂正し、正解でも「それだけでしょうか」と続きを求めた。褒めることはほとんどなかった。
昼過ぎ、エマが昼食を運んできたとき、リディアは椅子の背に体を預けた。
「グレイさん。私は、領民の声を直接聞きたいのですが」
「今日のご予定は、薬草の契約書の確認と税収の内訳の精査でございます」
「それは承知しています。ですが、数字だけを見ていても、そこに暮らしている人の顔が見えません。机の上の問題と、実際に起きていることの間には、ずれがあるはずです」
グレイアスはリディアを少し見た。
「……ご一緒いたします」
「え?」
「一人で出られるおつもりでしたか」
リディアは目をそらした。
「分かりました。では午後から、少し領都を」
「昼食を終えてから、三十分で参ります。動きやすい服装でお願いいたします」
「分かりました」
リディアが立ち上がると、グレイアスはそのドレスの裾を一度見た。
「そのままでは、領民の声を聞く前に石畳の声を聞くことになります」
「石畳は話すのですか」
「転べば、たいへん雄弁に」
エマが慌てて着替えを取りに走った。
リディアは裾の短い濃紺の外套に着替え、淡い金色の髪を後ろで一つにまとめて屋敷を出た。王都で着ていたドレスより地味だったが、石畳を歩くにはこちらの方がずっと楽だった。
領都は小さかった。
王都の一つの区画よりも狭いかもしれない。石畳の道は古く、いくつかの露店が細々と並んでいる。人の往来はあるが、活気というものが薄かった。
リディアは歩きながら、人々の様子を見た。誰もがどこか疲れた顔をしている。荷物を持った女が道端に座り込んでいた。老人が壁に寄りかかって目を閉じていた。
通り沿いに、小さなパン屋があった。
窓から漂う焼けた小麦の香りは、王都のパン屋と変わらない。リディアは自然と足を止めた。
「お嬢様」
「少しだけ」
扉を開けると、カウンターの内側に十六か七くらいの少女がいた。丸い顔に、黒い髪。カウンターの上には、小ぶりなパンがいくつか並んでいた。以前はもっと多く並んでいたのだろうと、棚の空き具合が物語っていた。
少女はリディアを見て、すぐに頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。一つ、いただけますか」
硬貨を差し出すと、少女はパンを包んで渡してくれた。その手つきが、少し止まった。
「……あの、もしかして、新しい領主様ですか」
「そうです。リディア・エルヴァルトと言います。あなたは?」
「ミカ、です。ハース家の。父がここの店主で、あたしはその娘で」
ミカと名乗った少女は、リディアをじっと見た。不信ではなかったが、信頼でもなかった。様子を見ている、という目だった。
「小麦は足りていますか」
リディアは率直に聞いた。
ミカが少し目を丸くした。それから、ため息をついた。
「……足りてないです。父が仕入れ値を見ながらため息をついてばかりで。パンの値段を上げると領民が買えなくなる。値段を据え置けば店がもたない。どっちに転んでも苦しいって言ってます」
「商会からの仕入れですか」
「ケッセル商会です。でも最近、量が減って、値段が上がって。他から買おうとしたら、それはできないって言われたって父が」
リディアは振り返った。グレイアスが少し離れた場所に立ち、棚を見ているふりをしていた。
リディアは再びミカに向き直った。
「教えてくれてありがとうございます」
「あの」
ミカが少し躊躇してから、続けた。
「領主様って、どうするつもりですか。この領地」
真っすぐな問いだった。馬車の外から向けられていた「確かめるような目」と、同じものがあった。
「変えます」
リディアははっきりと言った。
「どう変えるかは、まだ全部は分かっていません。でも、このままにするつもりはありません」
ミカは何も言わなかった。信じた顔でも、疑った顔でもなかった。
ただ、もう一度だけ、まっすぐにリディアを見た。
パン屋を出たあと、リディアは歩きながら意見を出した。
「税を一時的に下げることは、できますか。パン屋のような小さな店への負担を減らすだけでも、少し楽になるのではないかと思うのですが」
グレイアスが足を止めた。
「少しよろしいですか」
彼は道端の石垣の前に立ち、指で計算するように宙をなぞった。
「税収が下がれば、領兵の給金も、薬師への報酬も、借金の返済も滞ります。領地の安全が揺らげば、残っている商人まで出ていくでしょう」
「では、何もできないのですか」
「できます。ただし、一か所だけを見て決めてはなりません。すべてがつながっております」
リディアは黙った。
「つながっているのですね」
「すべてがつながっております。できることはございます。ただし、善意ではなく、構造から考える必要があります。今日ご覧になったことは、そのための材料です」
リディアは道の向こうを見た。
領都の夕暮れが始まっていた。石畳に長い影が落ちている。店じまいを始める露店があった。明かりを落とす家があった。
善意では足りない。
その言葉が今日は、パン屋の空いた棚と、ミカの目を伴っていた。
夜、エマが湯を持ってきた部屋で、リディアは膝を抱えて床に座っていた。
椅子があるのに、床に座っていた。そうしなければ、どこかに力が抜けてしまいそうだった。
「リディア様」
「大丈夫です」
「大丈夫な顔じゃないですよ」
エマが隣に座った。侍女らしくない座り方だったが、今のリディアにはそちらの方がよかった。
「難しいわ」
リディアはぽつりと言った。
「助けたいとは思っている。でも、どう助けるかが分からない。そして、分からないまま動けば、助けようとした人をもっと苦しめるかもしれない」
「グレイアス様に聞けばいいのでは」
「聞いています。でも……グレイさんが教えてくれることを、私が理解して、私が決めなければ意味がないの。グレイさんに決めてもらうなら、私が領主でいる必要がない」
エマは少し考えてから言った。
「それは、合ってると思います」
「そうね」
「でも今夜は、少し泣いてもいいんじゃないですか。明日また考えればいい」
リディアはエマを見た。
「グレイさんが、昨日おっしゃっていたわ。泣くなら今夜中にしなさい、と」
「じゃあ今夜のうちに泣けばいいじゃないですか」
エマの言葉は、それだけだった。難しいことは何も言わなかった。
リディアは少しだけ笑って、それから目を閉じた。
涙は出なかった。
ただ、喉の奥が少し熱かった。
廊下の向こうで、かすかに足音がした。止まって、また遠ざかっていった。
リディアは気づかないふりをした。




