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十八歳の新米女領主ですが、毒舌なイケオジ執事が甘やかしてくれません~元諜報員の教育係と始める辺境領地改革~  作者: 明石竜


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第二話 お嬢様、まずは領務録でございます

 翌朝、リディアが応接室の扉を開けると、すでにグレイアスがいた。

 テーブルの上には昨日の領務録と、新しい紙の束。窓からは白い朝の光が差し込んでいる。紅茶が二人分、湯気を立てて置かれていた。

「おはようございます、お嬢様」

「おはようございます、グレイさん」

 リディアが席に着くと、グレイアスは時計を確認した。

「七時二分でございます」

「……二分、遅れましたか」

「ご記録として」

 リディアは紅茶を一口だけ飲んでから、領務録を手元に引き寄せた。昨夜読んだ続きから始めるつもりだったが、グレイアスが新しい紙の束を先に開いた。

「今日はまず、領務録の読み方を正確に身につけていただきます。数字を眺めることと、数字を読むことは、異なります」

「どう違うのですか?」

「眺めるとは、合計が合っているかを確かめることです。読むとは、なぜその数字になったのかを問うことです」

 グレイアスは領務録の一ページを開き、ある項目を指でたたいた。

「例えばこちら。薬草の売上です。今年の数字は昨年より少ない。お嬢様は昨日、これを見てどうお思いになりましたか」

「収穫が少なかったのかと」

「では、こちらをご覧ください」

 別の紙が差し出された。薬草の収穫量の記録だった。

「今年の収穫量は、昨年と比べてほとんど変わっておりません。むしろ、わずかに増えています」

 リディアはもう一度、領務録の薬草売上の数字を見た。

「収穫は増えているのに、売上が減っている?」

「さようです」

「ということは、値段が下がった?」

「正確には、下げさせられた、でございます」

 グレイアスは手を組み、リディアの向かいに静かに座った。

「ケッセル商会という名前は、昨日の領務録でもご覧になったかと思います」

「はい。薬草の買い付けをしている商会ですね」

「この領地に出入りしている大きな商会です。三年前、先代が財政難に陥った際に、彼らと契約を結びました。薬草、羊毛、一部の木材。これらをケッセル商会が独占的に買い取るかわりに、領地への小麦の安定供給を保証するという内容です」

「それは……助かったのではないですか」

「当初は、そう見えました」

 グレイアスはそこで少し間を置いた。

「ですが、契約には細かい条件がついておりました。買い取り価格は商会の判断で変更できる。領地側が他の商会と取引する場合は違約金が発生する。供給する小麦の量は、商会が必要と判断した量とする、と」

 リディアは眉を寄せた。

「それは……おかしくないですか。価格を商会が決めるなら、いくらでも安くできる。他と取引できないなら、比べる基準がない」

「お気づきになりましたか」

「気づくというより、おかしいと感じました」

「感じる前に、気づく必要があります。感情は後でよろしい。まず構造を見る。この契約書は、表面上は合法です。双方が署名した正式な文書です。ですが、条件の組み合わせによって、実質的にこの領地はケッセル商会に縛られています。これを不正と呼ぶことは難しい。しかし、問題があることは確かです」

 リディアはしばらく紙を見つめた。

「値段を上げてもらうよう、お願いすることはできますか」

 グレイアスが、ごく短くため息をついた。

「お優しいことです」

 それは昨日も聞いた言い方だった。

「お願いで商人が損をしてくださるなら、王都に戦争など起きません」

 リディアは口を閉じた。

 間違っているとは言えなかった。ただ、では何をすればいいのかが、まだ見えなかった。


 午前中いっぱい、リディアは領務録と向き合った。

 グレイアスは教えるというより、問い続けた。なぜこの数字か。この支出は何に使われたか。この収入はいつ入るか。リディアが答えるたびに、グレイアスは短く評価し、次の問いを出した。間違えると訂正し、正解でも「それだけでしょうか」と続きを求めた。褒めることはほとんどなかった。

 昼過ぎ、エマが昼食を運んできたとき、リディアは椅子の背に体を預けた。

「グレイさん。私は、領民の声を直接聞きたいのですが」

「今日のご予定は、薬草の契約書の確認と税収の内訳の精査でございます」

「それは承知しています。ですが、数字だけを見ていても、そこに暮らしている人の顔が見えません。机の上の問題と、実際に起きていることの間には、ずれがあるはずです」

 グレイアスはリディアを少し見た。

「……ご一緒いたします」

「え?」

「一人で出られるおつもりでしたか」

 リディアは目をそらした。

「分かりました。では午後から、少し領都を」

「昼食を終えてから、三十分で参ります。動きやすい服装でお願いいたします」

「分かりました」

 リディアが立ち上がると、グレイアスはそのドレスの裾を一度見た。

「そのままでは、領民の声を聞く前に石畳の声を聞くことになります」

「石畳は話すのですか」

「転べば、たいへん雄弁に」

 エマが慌てて着替えを取りに走った。


 リディアは裾の短い濃紺の外套に着替え、淡い金色の髪を後ろで一つにまとめて屋敷を出た。王都で着ていたドレスより地味だったが、石畳を歩くにはこちらの方がずっと楽だった。

 領都は小さかった。 

 王都の一つの区画よりも狭いかもしれない。石畳の道は古く、いくつかの露店が細々と並んでいる。人の往来はあるが、活気というものが薄かった。

 リディアは歩きながら、人々の様子を見た。誰もがどこか疲れた顔をしている。荷物を持った女が道端に座り込んでいた。老人が壁に寄りかかって目を閉じていた。

 通り沿いに、小さなパン屋があった。

 窓から漂う焼けた小麦の香りは、王都のパン屋と変わらない。リディアは自然と足を止めた。

「お嬢様」

「少しだけ」

 扉を開けると、カウンターの内側に十六か七くらいの少女がいた。丸い顔に、黒い髪。カウンターの上には、小ぶりなパンがいくつか並んでいた。以前はもっと多く並んでいたのだろうと、棚の空き具合が物語っていた。

 少女はリディアを見て、すぐに頭を下げた。

「いらっしゃいませ」

「こんにちは。一つ、いただけますか」

 硬貨を差し出すと、少女はパンを包んで渡してくれた。その手つきが、少し止まった。

「……あの、もしかして、新しい領主様ですか」

「そうです。リディア・エルヴァルトと言います。あなたは?」

「ミカ、です。ハース家の。父がここの店主で、あたしはその娘で」

 ミカと名乗った少女は、リディアをじっと見た。不信ではなかったが、信頼でもなかった。様子を見ている、という目だった。

「小麦は足りていますか」

リディアは率直に聞いた。

 ミカが少し目を丸くした。それから、ため息をついた。

「……足りてないです。父が仕入れ値を見ながらため息をついてばかりで。パンの値段を上げると領民が買えなくなる。値段を据え置けば店がもたない。どっちに転んでも苦しいって言ってます」

「商会からの仕入れですか」

「ケッセル商会です。でも最近、量が減って、値段が上がって。他から買おうとしたら、それはできないって言われたって父が」

 リディアは振り返った。グレイアスが少し離れた場所に立ち、棚を見ているふりをしていた。

 リディアは再びミカに向き直った。

「教えてくれてありがとうございます」

「あの」

 ミカが少し躊躇してから、続けた。

「領主様って、どうするつもりですか。この領地」

 真っすぐな問いだった。馬車の外から向けられていた「確かめるような目」と、同じものがあった。

「変えます」

リディアははっきりと言った。

「どう変えるかは、まだ全部は分かっていません。でも、このままにするつもりはありません」

 ミカは何も言わなかった。信じた顔でも、疑った顔でもなかった。

 ただ、もう一度だけ、まっすぐにリディアを見た。


 パン屋を出たあと、リディアは歩きながら意見を出した。

「税を一時的に下げることは、できますか。パン屋のような小さな店への負担を減らすだけでも、少し楽になるのではないかと思うのですが」

 グレイアスが足を止めた。

「少しよろしいですか」

 彼は道端の石垣の前に立ち、指で計算するように宙をなぞった。

「税収が下がれば、領兵の給金も、薬師への報酬も、借金の返済も滞ります。領地の安全が揺らげば、残っている商人まで出ていくでしょう」

「では、何もできないのですか」

「できます。ただし、一か所だけを見て決めてはなりません。すべてがつながっております」 

 リディアは黙った。

「つながっているのですね」

「すべてがつながっております。できることはございます。ただし、善意ではなく、構造から考える必要があります。今日ご覧になったことは、そのための材料です」

 リディアは道の向こうを見た。

 領都の夕暮れが始まっていた。石畳に長い影が落ちている。店じまいを始める露店があった。明かりを落とす家があった。

 善意では足りない。

 その言葉が今日は、パン屋の空いた棚と、ミカの目を伴っていた。


 夜、エマが湯を持ってきた部屋で、リディアは膝を抱えて床に座っていた。

 椅子があるのに、床に座っていた。そうしなければ、どこかに力が抜けてしまいそうだった。

「リディア様」

「大丈夫です」

「大丈夫な顔じゃないですよ」

 エマが隣に座った。侍女らしくない座り方だったが、今のリディアにはそちらの方がよかった。

「難しいわ」

リディアはぽつりと言った。

「助けたいとは思っている。でも、どう助けるかが分からない。そして、分からないまま動けば、助けようとした人をもっと苦しめるかもしれない」

「グレイアス様に聞けばいいのでは」

「聞いています。でも……グレイさんが教えてくれることを、私が理解して、私が決めなければ意味がないの。グレイさんに決めてもらうなら、私が領主でいる必要がない」

 エマは少し考えてから言った。

「それは、合ってると思います」

「そうね」

「でも今夜は、少し泣いてもいいんじゃないですか。明日また考えればいい」

 リディアはエマを見た。

「グレイさんが、昨日おっしゃっていたわ。泣くなら今夜中にしなさい、と」

「じゃあ今夜のうちに泣けばいいじゃないですか」

 エマの言葉は、それだけだった。難しいことは何も言わなかった。

 リディアは少しだけ笑って、それから目を閉じた。

 涙は出なかった。

 ただ、喉の奥が少し熱かった。

 廊下の向こうで、かすかに足音がした。止まって、また遠ざかっていった。

 リディアは気づかないふりをした。


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