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十八歳の新米女領主ですが、毒舌なイケオジ執事が甘やかしてくれません~元諜報員の教育係と始める辺境領地改革~  作者: 明石竜


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第一話 新米女領主と毒舌執事

 馬車の窓から見える畑は、思っていたよりもずっと寂しかった。

 王都を出る前、リディア・エルヴァルトは、辺境の領地というものをもう少し静かで、もう少しのどかな場所だと想像していた。森があり、川があり、古い屋敷があり、そこで領民たちが穏やかに暮らしている。父が手紙で語ってくれたエルヴァルト領は、そんな場所だった。

 けれど、実際に馬車の外を流れていく景色は違った。

 刈り取られたあとの畑には、麦の穂がほとんど残っていない。道端の柵はところどころ傾き、村の入口に立つ看板は雨風に削られて文字が薄くなっていた。すれ違う人々は、こちらの馬車を見ると頭を下げたが、その顔に歓迎の色はなかった。

 ただ、確かめるような目だった。

 この娘が、新しい領主なのか、と。

 馬車の窓には、淡い金色の髪と青灰色の目をした、まだ少女らしさの残る顔が映っていた。

 リディアは膝の上で手を握りしめた。

 十八歳で領主になる予定など、どこにもなかった。父が急に亡くならなければ、リディアは今も王都の屋敷で、貴族の娘として茶会の作法や刺繍の図案に悩んでいたはずだった。

 けれど、もう戻れない。

 今日から、この土地がリディアの領地になる。

 そして、この土地の人々がリディアの領民になる。

 そう思った瞬間、馬車が大きく揺れた。

「きゃっ」

 小さく声を上げると、向かいに座っていた侍女のエマが慌てて身を乗り出した。栗色の髪を後ろで一つにまとめた、リディアより二つ年上の娘で、心配するとすぐに丸い目に表れる。 

「リディア様、大丈夫ですか」

「ええ。少し驚いただけ」

 そう答えながら、リディアは窓の外を見た。遠くの丘の上に、灰色の屋敷が見えていた。エルヴァルト家の領主館。今日からリディアが暮らす場所。

「でも……あの道、ひどいですね。王都の裏通りよりも荒れているじゃないですか。馬車がこんなに揺れるなんて」

エマが眉をひそめながら言った。

「修繕する余裕がないのかもしれないわ」

 リディアがそう言うと、エマはしばらく黙ってから、おずおずと口を開いた。

「リディア様。本当に、ここで……やっていけるでしょうか」

 正直な問いだった。エマはいつもそうだ。思ったことを包まずに言う。リディアはそれが嫌いではなかったが、今この瞬間だけは少し困った。

 やっていけるかどうか。

 リディア自身が、一番知りたいことだった。

「やっていくしかないでしょう」

 窓の外の丘を見つめながら、リディアは穏やかに答えた。


 屋敷の門をくぐったとき、玄関の前に一人の男が立っていた。

 黒い燕尾服。背筋の伸びた、細身の立ち姿。白髪の混じった黒髪を整え、口元には手入れの行き届いた短い口ひげ。年は五十に近いだろうが、老いた印象はなかった。むしろ、その立ち方には、静かな緊張感があった。

 男はリディアの姿を認めると、深く礼をした。

「ようこそ、エルヴァルトへ。先代よりお仕えしております、グレイアス・ヴァルトと申します」

 落ち着いた、低い声。礼儀に満ちた言い方だった。

 そしてそのまま、さらりと続けた。

「歓迎の宴はございません。食糧を無駄にする余裕がございませんので」

 エマが小さく息を呑んだのが聞こえた。

 リディアは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに背を伸ばした。

「……そうですか。承知しました、グレイさん」

「はい、お嬢様」

 グレイアスはそう答え、屋敷の扉を開いた。その顔には、とくに何の感情も浮かんでいなかった。


 通された応接室は、古いが清潔だった。暖炉の火が小さく燃え、窓からは鉛色の空が見えた。テーブルには紅茶が二人分用意されていた。

 グレイアスが一冊の領務録をテーブルに置いた。

「お嬢様が領主としてお務めになるにあたり、まず現状をご確認いただく必要がございます」

「ええ、もちろんです」

 リディアは領務録を手に取った。厚い。ずっしりと重い。開くと、細かい数字がぎっしりと並んでいた。

「読めますか」

「……読めます。領務録の読み方は、王都で習いましたから」

「それは重畳」

 グレイアスはそう言ったが、その声にはとくに安堵の色がなかった。

 リディアは数字を目で追い始めた。そして、すぐに気づいた。

 税収が、足りない。

 今年の収穫量は例年を大きく下回っている。農地の収益が落ちているだけではなく、薬草や羊毛の売上も少ない。一方で、支出の欄には、隣領への借金の返済が記されている。それも、少なくない額だった。

「冬の備蓄は」

「小麦の備蓄は、現状のペースでは冬の終わりまで保ちません」

「薬は」

「薬草の買い付け価格が下落しております。直近三年、ケッセル商会との契約により、正規の市場価格を大幅に下回る値で売らされています」

 リディアはページを繰る手を止めた。

「……これだけの問題が、同時に?」

「残念ながら」

 グレイアスはあくまで穏やかな声で言った。

「先代が亡くなられた直後より、この領地は複数の問題を抱えておりました。それらが今、すべて同時に顕在化しているという状況でございます。冬まで、あとわずかでございます」

 リディアは領務録を閉じた。

 頭の中を整理しようとした。うまくいかなかった。数字が多すぎる。問題が多すぎる。何から手をつければいいのか、見当もつかなかった。

「私は」

リディアは冷静に、ゆっくりと言った。

「困っている方たちを、助けたいと思っています。税を柔軟にしたり、直接話を聞いたり……まず、領民の方々に寄り添うことが大切なのではないかと」

 グレイアスは一秒ほど黙った。

「お優しいことです」

 その言い方は、ほめているようには聞こえなかった。

「ですが、お嬢様。優しさだけで領民の腹は満ちません」

「分かっています。ただ」

「分かっていらっしゃるなら、少しだけよろしいでしょうか」

 グレイアスはテーブルの上の領務録を、そっと指でたたいた。

「この数字を前にして、まず出てきた言葉が『寄り添う』であったことを、私はやや懸念しております。寄り添いは大切です。ですが、領主がすべきことは、寄り添った結果として、何を変えるかを決めることでございます。気持ちは動機です。動機は行動ではありません」

 リディアは反論しようとして、言葉が出なかった。

 間違ったことを言われたわけではないと、どこかで分かっていたからだ。

「……あなたは、私に何を求めているのですか?」

「現時点では、何も」

 グレイアスはきっぱりと答えた。

「先代のご息女として、この屋敷でお過ごしいただくのであれば、私はそのようにお世話いたします。ただ、お嬢様が領主としてこの地に立つとおっしゃるのであれば、申し上げておかなければならないことがございます」

「聞かせてください」

「この領地の現状は、善意で改善できる段階を過ぎております。税収不足、食糧の備蓄不足、不当な契約、隣領への借金。これらは今すぐ手を打たなければ、冬を越す前に領民が離れていきます。若者はすでに出始めています。それが続けば、エルヴァルト家は終わりです」

 穏やかな言葉だった。それが、余計に重かった。

「グレイさん」

リディアは声を整えた。

「私は、この領地の領主として、ここに来ました。逃げ場だとも、通過点だとも思っていません」

「それは、頼もしいことです」

「だから、教えてください。何をすればいいのか。どこから始めるべきなのか。私に足りないものを、教えてください」

 グレイアスは、ゆっくりとリディアを見た。表情はほとんど動いていない。だが、その目がわずかに細くなった。

「……承知いたしました」

 彼は領務録を再び開き、テーブルの中央に置いた。

「では、まず数字から参りましょう。紅茶が冷めるまでに、今年の収支の構造だけでも頭に入れていただきます。冷めたあとは、薬草の契約書を読んでいただきます。夕食までに、税収の内訳を」

「……今日だけで全部ですか」

「お嬢様。冬は、お嬢様の学習ペースを待ってはくれません」

入口にいたエマが、そっと紙の束から目をそらした。

「エマ。今、逃げようとしましたね」

「侍女に領務録は読めませんので」

「実に賢明な判断です」

 グレイアスに褒められ、エマは複雑そうな顔をした。

 リディアは一度だけ深呼吸をして、ペンを手に取った。


 夜になった。

 グレイアスが下がり、屋敷に静寂が戻ると、リディアは窓の前に立った。

 応接室の窓から見えるのは、領都の夜の光だった。街灯の数は少ない。明かりが灯っている家の割合も、王都と比べると、ずっと少なかった。暗い道に、人の気配はなかった。

 この暗さの中で、人々が暮らしている。

 小麦が足りないまま、冬へ向かおうとしている。

 リディアは窓ガラスに額をわずかに寄せた。冷たかった。

 父はここで、どんな顔をしていたのだろう。

 この景色を見ながら、どんなことを考えていたのだろう。

 分からなかった。父はこの領地のことをあまり話さなかった。いつも忙しそうで、手紙の言葉だけが頼りだった。その手紙の中の「のどかな辺境」は、今日の馬車の窓の景色とはまるで違った。

 もしかしたら父は、子に心配をかけまいとして、明るいことだけを書いていたのかもしれない。

 あるいは、こんなにひどくなったのは、父が亡くなってからのことなのかもしれない。

 どちらにしても、もう聞けない。

 リディアは手を窓ガラスに当てた。

 私が、領主なのだと、もう一度思った。

 泣きたいかと、自分に問うた。

 泣きたかった。

 けれど、泣かなかった。

 グレイアスの言葉が頭の中に残っていた。優しさだけで領民の腹は満ちない。分かっている。でも、分かっているということと、では何をするかということは、違う。その距離が、今のリディアには途方もなく遠かった。

 足音が廊下に聞こえた。ドアの外で止まった。

「お嬢様」

 グレイアスの声だった。

「……なんですか」

「紅茶をお持ちしました。夜は冷えます」

 ドアが少しだけ開き、湯気の立つカップが差し出された。リディアはそれを受け取った。温かかった。

 グレイアスは入室しなかった。ドアの外に立ったまま、穏やかな声で言った。

「明日は、朝の七時からでございます。領務録の続きと、領都の地図の確認。午後は兵の名簿も」

「……分かりました」

「それから、お嬢様」

「なんですか」

「今夜は、よくお休みください」

 それだけ言って、足音は廊下を遠ざかっていった。


 リディアは温かい紅茶を両手で包んだまま、しばらく窓の外を見ていた。

 暗い領都。寂しい灯り。

 どこかで犬が一度だけ吠えて、静かになった。

 私は、ここの領主になる。

 リディアは、暗い領都から目をそらさなかった。


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